一クラスの壁編
小松有希。
私がまだ小さかった頃、小松家と菊池家の母親同士の仲が良く、ハイキングなどのウチの小イベントに、優也くんが一緒に参加する事が稀にあった。兄妹弟が多くて目が行き届かないウチの家族と、共働きで滅多にお出かけをしない菊池家の両家のニーズがマッチしたと言うわけだ。
私が小学校二年、優也くんとお兄ちゃんが三年生だった頃、小松家の車で鳥羽水族館に来たことがあった。
私はラッコエリアで動かなくなってしまった。おそらく30分以上はラッコに見とれてしまっていた。ハッと気付くと弟や兄の姿は無く、優也くんだけが待ってくれていた。
「もういいかい。ちょっと離されたかも知れないから少し急ごうか」
「ママは?」
「すぐ追いつくよ」
心配そうにしている私の手を引きながら人混みの中をずいずい進んで行ったが一向に家族と合流する気配がなかった。私は立ち止まってしゃがんでしまった。
人が多すぎて誰が誰だか全くわからない。もし、知らない間に追い抜いてしまっていたら、これ以上先に進めばママとは永久に会えなくなる。私はもうどちらに進めばいいのか分からなくなってしまっていた。
「大丈夫だよ。おじさんもおばさんも赤い服を着てくれているからもし居れば一発で見つけているよ。だから全く心配いらないから」
優也くんも私と同じようにしゃがんで、優しく説明してくれる。
「でも…」
「もし万が一、本当に迷子になってもおじさんとおばさんの連絡先のメモは預かっているから館員さんに連絡すれば必ず迎えに来てくれるよ」
お兄ちゃんとは大違いだった。何でもできるお兄ちゃんは、私への説明なんかすっ飛ばして、何も言わずに全て無言でやってしまうのだ。
それに対して、優也くんは全く違っていた。泣いている私の思いを汲み取って、根拠のある安心感を与えてくれるのだ。しかも、優也くんはパパとママが着ている衣類の色を覚えていたのだ。
やることは同じでも、お兄ちゃんと比較して、天と地ほども差を感じてしまう。
「赤色の集団を探すんだ」
優しく、そして力強く私の手を取って迷いなく進む優也くん。
「いた」
その後二分も経たず私達は赤い集団を見つけることが出来たのだった。
「遅かったわね優也くん。全く有希ったらしょうがないんだから」
パパもママも、何も心配していない様子だった。ラッコエリアから動かなくなった私の子守り役として残した優也くんを、完全に信頼しているということなのだろう。
こうして、私の迷子事件は未遂に終わった。
小松家の長男である直樹は一番下の正輝の子守りで手一杯だった。弟の正輝は有希より更に三つ年下で幼稚園年中だ。一瞬でも目を離すとどこに行くか分からない一番手のかかる時期なのだ。そんな正輝の子守りを直樹が見て、比較的おとなしい有希の子守りする担当が優也なのだった。
優也からしたら、小松家の妹の子守りをするのはいつものことで、万が一人混みではぐれたら、おばさんから赤を探せと言われていただけだった。
このようなことが他にも何回もあり、その度に有希は、優也に助けてもらうのだった。
優也にとってはただの子守りであり、こんなことは事件でもなんでもなく、思い出ですらなかったが、有希にとって、それはとても大きな出来事として、何度も心に刻み付けられることになるのだった。たった一個しか歳が違わないのに優也は兄以上に頼れる存在になってしまうのだった。
その後、小松家では菊池優也を連れて遊びに行くことがほとんど無くなり、お互いに話しをすることも無くなってしまっていた。
鳥羽水族館の迷子未遂から約五年が経過し小松有希は中学一年になった。
お兄ちゃんと優也くんの生徒会選挙週間が始まった。
小松家での、兄妹の会話。
「お兄ちゃんと優也くんで、どっちが票を取れるかな」
今度の生徒会選挙で、生徒会長に立候補する直樹と、文化委員長に立候補する菊池優也で、どちらが票を稼げるかということを、リビングでバラエティー番組のコマーシャルが流れている時に有希が興味津々で言ってきているのだ。
「俺に決まってるだろ」
「カッチーン。そんな訳ないもん。優也くんの方が絶対人気者なんだから」
「出たよ。優也贔屓が。本当にお前は優也のことになると冷静な判断が出来なくなるんだからな」
「ホントのことだもん。お兄ちゃん。カワイソー」
「だったら賭けるか」
「当然」
「一票一円な」
「そんなんじゃ全然足らない。あの商店街のクレープを賭けようよ」
こうして一票一円+クレープで賭けが成立してしまった。
最近ではほとんど話したことも無いはずなのに、勝手に兄妹喧嘩のネタの引き合いに出されてしまう優也なのであった。
翌日、選挙のことがどうしても気になった有希は、生徒会担任の片山先生に話しを聞くことにした。
「先生。生徒会選挙で、過去最高の得票は何票くらいなんですか」
「そうだな。確か去年の紺野の票は凄かったな」
「紺野って?」
「今の文化委員長だよ。いつもポニーテールしている子だよ。ちょっと待って・・・見てみるから」
「文化委員長?」
私は、何故か微妙に「文化委員長の紺野千聡」という人が気になってしまうのだった。
先生が、パソコンで過去の選挙結果を見せてくれた。
「やっぱりそうだ。過去最高は紺野千聡だ、881票を取っているな。そうだな、この学校が900人規模になってからの結果では紺野千聡が過去最高だ」
「これで最高なんですか。相手は39票も取っているじゃないですか」
「選挙には一クラスの壁っていうものがあるんだ。どんなに劣勢な候補者でも、自分のクラスの立候補者を応援するからね。だから一クラスが大体34人だから、クラス以外の票が五票しか取れなかったということでこの数字は歴史的快挙だ。まぁそんなに単純でもないんだが、概ね合っている」
「優也くん、菊池先輩が900票とることは出来ないんですか」
「さっきの話聞いていたか?そんなことはあり得ないよ。紺野の881票ですらも奇跡みたいな数字だよ」
片山先生からそうは聞かされてはいたものの、優也くんなら幻の900票に到達してしまうだろうと、勝手に期待してしまう有希なのであった。
選挙当日、それぞれの選挙演説が終了し、投票のために生徒が各自自分の教室に戻る。
投票の本当の直前に担任の先生による選挙の評論が行われる。
「このクラスからは、綾小路さんが立候補しています。相手は二年生で強敵だけど、せめてウチのクラスの皆は綾小路さんに投票してクラスの意地をみせようじゃありませんか」
有希は片山先生が言っていた言葉の根拠に納得した。投票直前に担任の先生からあのように言われれば、少なくともうちのクラスの生徒は、フミちゃんに投票するはずだと思えるのだった。
教員の先生たちは、いつもこのようにして、選挙で圧倒的不利な生徒に対して少なくとも一クラス分は票が集まるようにアシストしてくれているのだった。
だから「一クラスの壁」というものが存在し、それが崩されることは過去に遡ってもないのだと思えた。
(とは言いながらも私は当然優也くんに投票するのだけれど・・・)
だとしても、あの紺野千聡の881票だけは抜いてほしいと願っていた。
しかし優也くんに対してそんな心配は全く必要ないのだった。優也くんは「一クラスの壁」を軽々と打ち破ってしまった。それこそ過去例を見ない伝説級の902票を獲得したのだった。
全身に鳥肌が立ってしまった。先生からあのように聞かされていたので余計に優也くんの凄さが浮き彫りになってしまった。でも、先生の言葉なんて、全然聞かなくて良かったのだ。私は私の直感を信じればいいだけだった。
一クラスの壁なんてものは、優也くんには全く通用しなかった。しないと思っていた。
やっぱり優也くんは私の期待を絶対に裏切らない。
いや、私だけは小さい時からそのことはとっくに知っていたはずだった。
やっぱり私の目に狂いはなかった。私には初めから優也くんしかいなかった
有希は、完全に菊池優也をロックオンしたのだった。
小さい時の思い出などではない。兄弟喧嘩のネタでもない。私は本当に今の優也くんが好きなのだ。
私は絶対に優也くんを離さない。
そう心に誓う有希なのであった。
イラストは、小松有希小学二年生の鳥羽水族館で、迷子未遂事件が発生した時のイラストです。
AIイラストのアプリを使用しました。




