たった一つの奇跡編
文化委員長に立候補した綾小路文香は、強敵の対戦者の五十嵐君に対抗するべく菊池先輩に応援演説を依頼することになってしまった。
文香は、有希ちゃんに誘われるままに、生徒会室を訪れた。
菊池先輩が私の顔をのぞき込んできた。その真っ直ぐな瞳ときれいな長いまつ毛に呑まれそうになる。
「どうしてボクに応援演説を?」
「有希ちゃんの強い推薦なんです」
こんな理由で本当に良いのだろうか。文香は自分で自分に駄目だしをするのだった。
菊池先輩の真剣な問いに対して、こんないい加減な理由なんて良いわけがない。文香は文化委員長になりたい本当の理由を菊池先輩に打ち明けるのだった。
「弁論大会に出たいんです」
文香には、三つ年上の兄がいた。特別に仲がいい訳ではなかったが、優しくて私の面倒も良く見てくれる兄だった。そんな兄から「中学に入ったら弁論大会には出た方が良い。イヤ、絶対出るべきだ。あれは人生が変わるから」と、私に熱く語ってきたのだ。
普段は頭が良くて冷静な兄さんが、あんなに熱くなるなんて、弁論大会はそれほど凄いところなのかと、小さいながらにその兄の言葉が忘れられない文香なのであった。
「よし、分かった。キミの応援演説を引き受けよう」
「えっ」
私は初め、自分の耳を疑った。聞き間違いかとも思ったが、間違いではなさそうだ。その証拠に菊池先輩が私の手を取って握手をしてきたのだった。隣で有希ちゃんが両手を上げてガッツポーズをしている。
「良かったね。フミちゃん。これで絶対に文化委員長になれるよ」
有希ちゃんの瞳が潤んでいる。有希ちゃんはもう既に為すべきことを果たしたという顔をしているのだった。そんな有希ちゃんの言葉はいつどんなときも間違ったことがない。
大きくて暖かい手だった。この大きくて優しい手に私の体温が一度上昇した。
「ありがとうございます。本当に私なんかのために・・・」
菊池先輩が大きく頷いた。その目は自信に満ち溢れている。まるで「ボクに任せろ」と言っているようだった。
こんなに安心感のある人はいなかった。相手はあの五十嵐君でこちらは圧倒的不利なはずなのに、菊池先輩の自信満々のその笑顔はそれを微塵も感じさせない。
文香は、何か本当にとてつもない人が味方になってくれたような、そんな気がした。
「本当に良かった」
有希ちゃんが握手している私たちの手を更に上から両手で優しく包み込む。
菊池先輩と有希ちゃん。
言葉にできないような絶対の信頼がこの二人にはある。
この三人なら、きっと成し遂げられる。
どうしようもなく感情が高ぶってきた。今、私の体温は、確実にもう一度上昇している。
二人の手に包まれながら、文香の体温は上昇を続けるのだった。
生徒会選挙当日がやってきた。
私は何もしていなかった。ただ、優也先輩に言われた通りに髪の毛をポニーテールでまとめて、普通の原稿を読んだだけだった。
それに対して優也先輩の応援演説は、格の違いをまざまざと感じさせるものだった。本当は何の取り柄もない私を褒めちぎった演説に、私はただ顔を赤くしていただけだった。
こんなにも演説の上手い人はいなかった。ほんの二分程度の短いスピーチだったが、優也先輩はそのたったの二分間で五十嵐君が優勢だった前評判の全てをひっくり返してしまうのだった。
私は本当に何もしないまま、文化委員長に当選してしまうのだった。
有希ちゃんの言葉は本当だった。優也先輩はとてつもなく凄い人だった。今ならわかる。一年前、900票も取られて惨敗した理由が痛いほどわかるのだった。私は、今更ながらに優也先輩の凄さを実感することが出来るのだった。
でもこんなものはまだ序章だった。
この時まだ私は、優也先輩の本当の凄さを一割も理解してはいなかった。
文香にとって選挙の興奮が冷め止まぬ週末に、弁論大会が行われた。今年は優也先輩が弁論するのだが、引継ぎを兼ねて私も参加させてもらうことになった。
兄さんから「弁論大会は人生が変わる」と言われ思い描いてきた弁論大会にいよいよ参加できるのだ。しかも、演説の超上手い優也先輩の弁論が聞けるなんて、その日は朝から文香のテンションが上がりっぱなしになるのだった。
優也先輩の順番が来た。
私は、浮かれた気持ちのまま、優也先輩の演説を聞き始めるのだった。
ハッキリ言って、感動した。
優也先輩は、予鈴のベルどころか、制限時間五分のベルが鳴っても弁論を止める気配は微塵も見せず、強制停止となる六分を超えても尚、しばらく弁論を止めなかった。
弁論大会の配点は、持ち時間の五分を超えると大幅な減点対象となってしまう。しかし、そんな減点なんてくそくらえと言わんばかりに、優也先輩は全く動じなかった。
大人も大勢いる中で、優也先輩は大会のルールを完全に無視したのだった。この人の思考はどのようになっているのか。真面目な私は、初めは理解できなかった。
でも、この弁論大会の本来の趣旨を汲み取った場合。優也先輩の演説が最も聴衆を魅了したに違いなかった。少なくとも私一人は断トツで魅了させられてしまった。優也先輩以外の弁論者なんか一人も思い出せないし、思い出す気にもならなかった。この弁論大会の参加者は初めから優也先輩ただ一人しかいなかったように思えるのだった。これはまさに、優也先輩の独演会だった。
こんなすごい人が私の応援演説を引き受けてくれたのだった。
まさに奇跡だった。
真面目だけが取り柄で、他には何も持っていない私の応援演説を引き受けてくれたこと。それだけが奇跡だった。そんな雲の上の存在の優也先輩にとっては、生徒会選挙で私を当選させることなんて造作もないことなのだと思えた。それほど優也先輩は次元が違いすぎるのだ。
でも、次は私の番だった。私はそんなとんでもない優也先輩の文化委員長の座を受け継いでしまったのだった。
応えなければいけない。背伸びでも何でもして、優也先輩に対して決して恥ずかしくない文化委員長にならなければいけないと強く感じてしまう。
そんな強い使命感とは裏腹に、私はどうしようもなくなった。
優也先輩の演説をしている姿を思い出すたびに、私の中の血液が身体中で沸騰する。もう、今の私の体温は、至るところでピークに達しており、暫く立ち上がることが出来そうになかった。こんな感情は生まれて初めてだった。
もうこの気持ちは止められなかった。
しかも、自分の中学でこの時の優也先輩を知っているのは自分だけだった。優也先輩の本当の凄さを知っているのは自分だけだ。
有希ちゃんは、この時の優也先輩の姿を見ていない。見ていないはずだ。
あんなに凄い優也先輩を見ていないはずなのに、有希ちゃんの優也先輩への入れ込みようは半端じゃなかった。一体どこから彼を見つけてきたのか分からなかったが有希ちゃんの千里眼は大したものだった。
それでもだ。自分以上に、優也先輩の本当の凄さを知っている人なんていないに違いなかった。イヤ、凄いという言葉では表現が全然足らない。優也先輩は、この地球上で最も優れた人だ。そんな優也先輩を知っているのは自分だけしかいないのだ。
私が優也先輩の一番の理解者になったんだ。
文香は優也先輩のことが、世界中の誰よりも好きになってしまっていた。
そしてこの気持ちは決して誰にも負けないと思うのだった。
イラストは、菊池優也が、文香の応援演説を引き受けると約束したときに、有希が渾身のガッツポーズを見せたところです。
編集ソフトの組み合わせで作成しました。




