第九話 好きだった時間まで、捨てなくていい
夕食を終えたクレアは、自室へ戻ると、机の上に図案を広げた。
白磁のカップ。
二輪の花と、小さな蕾。
まだ花の形も色も決まっていない。鉛筆を握り、何本か線を引いてみる。けれど、思うように手が動かなかった。頭の中では、先ほどの食卓での出来事が何度も繰り返されている。
『バーナード様、そのお皿を取っていただけますか』
自分で口にしたのに、今もその響きが胸へ刺さっていた。
ずっと、バーニーと呼んできた。幼い頃から、誰よりも近しい呼び名だった。それを手放したのは、自分だ。必要なことだったと思っている。けれど、必要だからといって、痛くないわけではなかった。
「……駄目ね」
クレアは鉛筆を置いた。描きかけの花は、どれも俯いて見える。まるで初めてフランシスに見せた、寂しそうな薄紫色の花のようだった。
その時、控えめに扉が叩かれた。
「クレア。まだ起きている?」
「はい、お母様」
「入ってもいいかしら」
「もちろんです」
クレアが返事をすると、扉が静かに開いた。
ルーシー・ラングレーは、薄い生成り色の夜着に、淡い水色のガウンを羽織っていた。昼間は伯爵夫人らしく髪を丁寧に結い上げているが、今は蜂蜜色に近い柔らかな茶色の髪を、肩へゆるく流している。クレアとよく似た青緑色の瞳が、机の上へ向けられた。
「まだ絵を描いていたの?」
「少しだけ続きをしようと思って」
「でも、手が止まっているわね」
母は穏やかに言い、クレアの返事を待たずに部屋へ入った。手には小さな盆を持っている。湯気の立つカップが二つと、一口ほどの焼き菓子が載っていた。
「厨房に蜂蜜入りのミルクを用意してもらったの。一緒に飲まない?」
「ありがとうございます」
ルーシーは机のそばにある小さな丸卓へ盆を置いた。クレアも椅子を移し、母と向かい合って座る。カップを手に取ると、温かな甘い香りがした。
「懐かしいわ」
クレアがつぶやく。
「眠れない夜には、よく作ってくださったでしょう?」
「ええ。あなたは小さい頃から、悩み事があると眠れなくなる子だったもの」
「昔は、悩みをうまく言えなくて。でも、お母様はいつもそんな私に気づいてくれたわ」
「今も、ちゃんと気づいているわよ」
母はくすりと笑った。
「そういうところは、変わらないわね」
クレアは少し気まずくなり、カップへ口をつけた。温かなミルクが喉を通り、冷えていた胸の奥へ落ちていく。
「お母様は、どうしてこちらへ?」
「娘の様子を見に来るのに、理由が必要?」
「必要ではないけれど……」
ルーシーは焼き菓子を一つ取り、静かに言った。
「バーナード様と呼んでいたわね」
クレアの指が止まった。
「……やっぱり聞こえていた?」
「同じ食卓にいたもの」
母は少しだけ眉を下げる。
「気づかない母親はいないわ」
クレアはカップを両手で包み込み、視線を落とした。
「お兄様も驚いていたわ」
「お父様もよ。あの方は表情に出にくいけれど」
「もしかして、お母様も?」
「ええ」
ルーシーは正直に頷いた。
「あなたが小さい頃から、ずっとバーニーと呼んでいたことを知っているから」
その呼び名を母の口から聞いた途端、胸がきゅっと締めつけられた。
「もう、そう呼ばないことにしたの」
「そう」
母はすぐに理由を尋ねなかった。ただ静かにクレアを見つめている。その優しさに、クレアの方が耐えられなくなった。
「私、もうバーナード様を追いかけないと伝えました」
「そうなのね」
「ずっと子どものままではいられないから」
「ええ」
「何度好きだと言っても、きちんと向き合ってもらえなかった」
言葉にすると、昼間は流れなかった涙が、少しだけ目の奥へ滲んだ。
「私はずっと、いつか振り向いてもらえると思っていたの」
ルーシーは何も挟まず、娘の声を待った。
「十八歳になったら。もっと綺麗になったら。大人らしく振る舞えるようになったら」
クレアは小さく笑った。
「でも、何をしても、バーナード様の中では昔の私のままだったわ」
「それが悲しかったのね」
「はい」
頷いた途端、涙が一粒、頬を伝った。クレアは慌てて指先で拭う。
「泣くつもりはなかったの」
「泣いてもいいのよ」
「でも、自分で決めたことだから」
「自分で決めたことなら、悲しんではいけないの?」
クレアは顔を上げた。ルーシーは穏やかに微笑んでいた。
「前へ進むと決めたからといって、痛みまでなくなるわけではないでしょう?」
「……はい」
「長い間、大切にしてきた気持ちだもの。簡単に切り替えられなくて当然よ」
母は手を伸ばし、クレアの頬に残った涙をそっと拭った。
「あなたは、本当にバーナードが好きだったものね」
「今も、嫌いではありません」
「そうでしょうね」
「追いかけるのをやめると決めたのに、まだ好きな気持ちが残っているのは、おかしいかしら」
「少しもおかしくないわ」
ルーシーは迷わず答えた。
「誰かを好きでなくなることと、その人を大切に思わなくなることは、同じではないもの」
クレアは母の言葉を、胸の中で繰り返した。
「大切に思っていても、その人を選ばないことがあるの?」
「あるわ」
「好きだったのに?」
「ええ」
ルーシーはカップを卓上へ戻した。
「好きな人が、必ずしも自分と同じ未来を見てくれるとは限らないでしょう?」
「……はい」
「それに、昔好きだった人を大切な思い出として残したまま、別の人を愛することもあるわ」
「そんなことをしてもいいの?」
「どうして駄目なの?」
クレアは答えられなかった。どこかで、次の恋を選ぶなら、バーナードへの気持ちを綺麗に消さなければならないと思っていた。幼い頃の思い出も、好きだった時間も。すべて手放してからでなければ、フランシスへ向き合ってはいけないのだと。
「好きだった時間まで、捨てなくていいのよ」
母の声が、静かに胸へ届いた。
「あの人を好きだったから、今のあなたがいるのでしょう?」
「今の私……」
「誰かを一途に想えることも、何度断られても明るく振る舞おうとしたことも、すべてあなたの一部よ。あなたは、思っているよりずっと強いわ」
「強くなんてありません」
「そうかしら」
ルーシーは少し首を傾げた。
「振られても笑うことが強さだったかどうかは、私にも分からないわ」
母の言葉に、クレアは目を瞬いた。
「けれど今日、自分から終わりを告げたことは、とても勇気が必要だったでしょう?」
「……とても、怖かったです」
「そうでしょうね」
「バーナード様に、もう追いかけないと言ったら、本当にすべて終わってしまう気がして」
「それでも伝えたのね」
「はい」
「なら、あなたは十分に強いわ」
母の声音は柔らかかった。褒められたというより、自分でも気づいていなかった事実を教えられた気がした。
「お母様は、前から気づいていたの?」
「何に?」
「バーナード様が、私を一人の女性として見ていないこと」
ルーシーは少しだけ考えた。
「そうね。少なくとも、今のあなたの気持ちに向き合う準備はしていないように見えていたわ」
「では、どうして私を止めなかったの?」
「あなたが、自分で気づく必要があると思ったから」
クレアは少し驚いた。
「止めてほしかった?」
「分からないわ」
「きっと止めても、聞かなかったでしょうね」
ルーシーは懐かしそうに笑った。
「あなたは小さい頃から、バーナードのことになると頑固だったもの」
「そうかもしれません」
「それに、好きでいること自体は悪いことではないわ」
母は続けた。
「私は、あなたが彼を想うことで幸せなら、それでよいと思っていたの」
「でも、途中から苦しくなっていました」
「ええ。だから、あなた自身がその苦しさに気づくのを待っていたのよ」
クレアは俯いた。
「もっと早く諦めるべきだったのかしら」
「そうは思わないわ」
「どうして?」
「あの頃のあなたには、あの恋が必要だったのでしょう」
母の言葉に、クレアは顔を上げる。
「バーナードを追いかけることが楽しかった時もあった。帰ってくる日を待つことが幸せだった時もあったでしょう?」
「はい」
玄関へ駆けていった日。
大きな背中に負ぶわれた帰り道。
頭を撫でられただけで、一日中嬉しかった頃。
すべて本物の思い出だった。
「なら、その時間を間違いだったことにしなくていいの」
「間違いではなかった?」
「ええ」
ルーシーは微笑んだ。
「ただ、今のあなたには、もう合わなくなっただけよ」
その表現が、クレアの心へすんなりと入った。間違いだったのではない。幼い頃の自分には大切だった。けれど成長した今は、同じ形のままでは苦しくなってしまったのだ。
「私、変わってしまったのね」
「変わったわ。いい方にね」
母は当然のように言った。
「変わってしまったことが、少し寂しい?」
「ええ。少しだけ」
「私は嬉しいわよ」
「どうして?」
「あなたが、自分の人生を考え始めたから」
ルーシーの視線が、机の上へ向けられる。白磁のカップの図案。水草や魚の鱗を使った模様。クレアが王都へ持っていこうとしているもの。
「今までのあなたは、バーナードがどこへ行くかばかり考えていたでしょう?」
「……はい」
「王都へ行くならついていく。領地へ戻るなら一緒に戻る」
「そのつもりでした」
「でも、今は違う」
母は水草の図案を一枚手に取った。
「自分が学びたいから、王都へ行きたいのでしょう?」
「はい」
「それが嬉しいのよ」
ルーシーは図案へ目を落とした。
「こんなにたくさん描いていたのね」
「今まで、お母様にもあまり見せなかったわ」
「見せてほしかったわ」
「ただの落書きだと思っていたから」
「フランシス様が、そうではないと教えてくれたの?」
「はい」
その名前を口にすると、胸の痛みとは違う熱が生まれた。母はその変化にも気づいたようだった。
「フランシス様のことが気になっているのね」
「……分かりますか?」
「母親ですもの」
また同じ言葉が返ってきた。
「それに、あの方を見ていれば分かるわ」
「フランシスを?」
「あなたを見る目が、ほかの人へ向けるものとは違うもの」
湖で顔を赤くしていたフランシス。
森で抱き上げてくれた腕。
図案を一枚ずつ真剣に見てくれた眼差し。
思い出しただけで、クレアの頬が熱くなった。
「でも、私はまだ、バーナード様を完全に忘れたわけではないの」
「フランシス様は、それを知っているのでしょう?」
「はい」
「何とおっしゃったの?」
クレアは少し迷ったあと、あの日の言葉を思い出しながら答えた。
「私を選ぶなら、誰かを忘れるためではなく、私を好きになったから選んでほしい、と」
ルーシーは目を細めた。
「誠実な方ね」
「はい」
「急かされているようには感じた?」
「いいえ」
「なら、今すぐ答えを決めなくてもよいのではないかしら」
クレアは目を瞬いた。
「でも、フランシスはもうすぐ王都へ帰ります」
「帰れば、もう会えないの?」
「私が王都へ行けるなら、また会えます」
「手紙も書けるでしょう?」
「はい」
「それなら、ゆっくり知っていけばいいわ」
ルーシーは焼き菓子を半分に割った。
「恋は、いつも一目で答えが出るものではないもの」
「お母様とお父様も?」
「私たちは少し違うわね」
「どう違うの?」
「私は初めて会った時から、あの人は話が長いと思っていたわ」
思いがけない返事に、クレアは笑った。
「お父様が?」
「領地の作物について、延々と話し続けたのよ。私が興味を持っていると思ったらしいわ」
「お父様らしいわ」
「でも、私が何気なく言ったことを覚えていてくれたの」
「何を?」
「寒いのが苦手だと」
ルーシーは遠い日のことを思い出すように微笑んだ。
「次に会った時、足元へ置く小さな湯たんぽを用意してくれていたわ」
「それで好きになったの?」
「まさか」
「違うの?」
「少し見直しただけよ」
母の澄ました顔に、クレアはまた笑う。
「好きになったのは、もっとあと。何度も会って、あの人が誰に対しても同じように誠実だと知ってから」
「時間がかかったのね」
「ええ」
ルーシーは娘の目を見つめた。
「だから、あなたも急がなくていいのよ」
その言葉に、胸の奥にあった焦りが少しほどけた。
バーナードへの気持ちをすぐに消さなくてもいい。
フランシスへの気持ちを、今すぐ恋だと決めなくてもいい。
誰かを選ぶ前に、自分の心を見つめてもいいのだ。
「私、王都へ行ってもいいと思う?」
クレアは母へ尋ねた。
「お父様は、まだ調べてからとおっしゃっていますけれど」
「私は賛成よ」
ルーシーは迷わなかった。
「心配ではないの?」
「心配よ」
「それでも?」
「心配だからといって、娘をずっと屋敷へ閉じ込めておくわけにはいかないでしょう?」
昼間、バーナードへ言った言葉を思い出す。
『心配だからという理由で、私をいつまでも子どものままにしないで』
母は同じ心配を抱きながらも、クレアの未来を止めようとはしない。
「あなたは何度も転ぶでしょうね」
「もう、最初から失敗すると決めつけているの?」
「王都で道に迷うかもしれないし、工房で思うようにいかなくて泣くかもしれない」
「そこまで言わなくても」
「でも、そのたびに自分で起き上がればいいのよ」
ルーシーは柔らかく笑った。
「どうしても起き上がれない時は、私たちを頼ればいいわ」
「帰ってきてもいいの?」
「もちろん」
「途中で諦めても?」
「諦めることが、いつも悪いわけではないでしょう?」
クレアは今日、自分で一つの恋を諦めた。けれどそれは、逃げたのではない。前へ進むために選んだことだった。
「お母様」
「なあに?」
「私、バーナード様を好きだったことを、忘れなくてもいいのね」
「ええ」
「それでも、フランシスを好きになってもいい?」
「それを決めるのは、私ではないわ」
ルーシーは微笑んだ。
「でも、あなたが心からその方を好きになったのなら、何も悪いことはないでしょうね」
クレアは、ゆっくりと頷いた。
「ありがとう、お母様」
「どういたしまして」
母はカップへ残ったミルクを飲み干すと、立ち上がった。
「今夜はもう休みなさい」
「でも、図案がまだ」
「目の下に少し疲れが出ているわ」
「え、そんなに?」
「ええ。王都へ行く前に体調を崩したら、お父様が心配して許してくださらないかもしれないわよ」
「それは困ります」
「なら、今日はここまで」
ルーシーは机の上の鉛筆を取り、そっと紙の横へ置いた。
「明日になれば、今日よりよい花が描けるかもしれないでしょう?」
「はい」
クレアも素直に立ち上がった。母は扉へ向かいかけ、ふと振り返る。
「それから、クレア」
「何でしょう?」
「バーナード様も、今夜は眠れないかもしれないわね」
クレアの胸が、かすかに揺れた。
「どうして?」
「あの方も、ようやく自分が何を失いかけているのか、考え始めたように見えたから」
「お母様にも、分かるの?」
「ええ。あの方の様子を見ていれば、分かるわ」
ルーシーは少しだけ困ったように笑った。
「ただし、彼が気づいたからといって、あなたが待ち続ける必要はないわ」
「……はい」
「気づくのが遅かったことも、彼自身が引き受けるべきことよ」
その言葉は厳しいようでいて、バーナードを責めてはいなかった。ただ、クレアの痛みを彼女だけに背負わせないための言葉だった。
「あなたは、あなたの道を選びなさい」
ルーシーはそう言い残し、部屋を出ていった。
静かになった部屋で、クレアはしばらく扉を見つめていた。それから机へ戻り、描きかけのカップを手に取る。
二輪の花と、小さな蕾。
先ほどまでは、俯いた花しか描けなかった。けれど今は、少しだけ上を向いた花が描けそうな気がした。
クレアは鉛筆を握り直す。しかし、すぐに母との約束を思い出し、苦笑して手を止めた。
「今日はここまでね」
図案を重ね、机の端へ置く。引き出しの中には、三人で魚釣りをした幼い日の絵が入っている。クレアはそれを取り出さなかった。けれど、捨てようとも思わなかった。
好きだった時間まで、捨てなくていい。
母の言葉が、胸の奥へ静かに灯っている。
バーナードを好きだった自分も。
フランシスに心を揺らされている今の自分も。
王都で学びたいと願う自分も。
どれか一つだけが、本当のクレアなのではない。
すべてを抱えながら、それでも新しい道を選んでいけばいい。
クレアは窓辺へ歩き、夜空を見上げた。遠くに小さな星が輝いている。
「おやすみなさい、バーニー」
誰にも聞こえない声で、最後に一度だけ懐かしい呼び名を口にした。
それは、まだ消せない恋への別れではなかった。ただ、少女だった自分へ贈る、優しい夜の挨拶だった。
そして明日からは、またバーナード様と呼ぶ。
自分の心を守り、自分の足で進んでいくために。




