第十話 妹を見る目ではない
夏祭りの日が近づくにつれ、ラングレー領の町は少しずつ華やいでいった。広場には色とりどりの布飾りが渡され、通り沿いの店先には小さな提灯が並ぶ。毎年、夏の終わりに開かれる祭りだった。収穫を前に、領民たちが無事に夏を越せたことを祝う。
昼間は市場や見世物で賑わい、日が暮れると広場に音楽が流れ、若者たちが輪になって踊る。クレアも幼い頃から、毎年楽しみにしてきた。
けれど今年は、いつもとは少し違っていた。
「こちらのドレスはどうかしら」
母ルーシーが、淡い桃色のドレスをクレアの前へ広げる。午後の自室には、今夜の祭りに着ていくためのドレスが何着も並べられていた。
「可愛いけれど、少し甘すぎる気がするわ」
クレアは鏡の前で首を傾げた。
「以前のあなたなら、すぐに選んでいたのに」
「そうだった?」
「ええ。バーナードが可愛いと言いそうなものを、いつも選んでいたでしょう?」
不意に名前を出され、クレアは少しだけ黙った。母の言う通りだった。祭りのたび、クレアは明るい色のドレスを選んだ。バーナードが似合うと言ってくれるかもしれない。少しは大人になったと気づいてくれるかもしれない。
そんな期待を抱きながら。
「今年は、自分が好きなものを着たいの」
クレアは静かに答えた。ルーシーは目を細める。
「それなら、こちらは?」
次に差し出されたのは、淡い青緑色のドレスだった。胸元や袖には細かな刺繍が施され、華やかすぎず、それでいて夏の夜の灯りに映えそうな色をしている。
「綺麗」
クレアは思わず手を伸ばした。
「この刺繍、水草みたいね」
「あなたも、そう思った?」
「ええ。裾へ向かって流れるように入っているわ」
指先で模様をなぞる。小さな葉が、水の流れに揺れているように並んでいた。森の泉で見た水草を思い出す。フランシスと一緒に見つけ、図案へ描いたものと少し似ている。
「これがいいわ」
「決まったのね」
「ええ。見た瞬間に、好きだと思ったの」
クレアが笑うと、母も微笑んだ。
「そうしたら、髪飾りはどうする?」
「ドレスと同じ色の花はあるかしら?」
「小さな青い花なら用意できるわ」
「では、それでお願い」
侍女たちが支度を始める。蜂蜜色の髪は、普段より少し高い位置でまとめられた。柔らかな巻き髪を背中へ流し、耳の上には青い小花を飾る。鏡の中の自分は、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「似合っているわ」
ルーシーが後ろから言う。
「本当に?」
「ええ。あなたらしいわ」
以前なら、ここで尋ねていたかもしれない。バーナードも可愛いと思ってくれるかしら、と。けれど今日は、その言葉は出てこなかった。
「お母様」
「なあに?」
「フランシスは、どう思うかしら」
口にしたあとで、クレアは自分でも驚いた。ルーシーは笑わなかった。ただ、鏡越しに娘を見つめる。
「それは、本人に聞いてみたら?」
「聞けるわけないでしょう」
「では、顔を見て判断なさい」
「顔に出るかしら」
「あの方は、あなたの前では案外分かりやすいわよ」
母に言われ、クレアの頬が少し熱くなった。
日が傾き始める頃、屋敷の玄関前には祭りへ向かう者たちが集まっていた。父アルバートと母ルーシーは、少し遅れて馬車で向かう。シルヴェスターとバーナードは、領内の見回りも兼ねて徒歩で広場へ行く予定だった。フランシスは、クレアを待って玄関前に立っていた。
濃い青の上着に、銀色の刺繍が入った装いだった。昼間より少し整えられた銀金色の髪が、夕暮れの光を受けて柔らかく輝いている。クレアが玄関から出ると、フランシスは顔を上げた。青紫色の瞳がクレアへ向けられ、そのまま動きを止める。
「フランシス?」
何も言わないため、クレアは不安になった。
「変かしら」
「逆だよ」
「逆?」
ようやく返ってきた声は、いつもより少し低かった。
「思っていたより、ずっと綺麗で」
フランシスは一度、言葉を切った。
「何を言えばいいのか分からなかった」
クレアの胸が大きく鳴った。母の言った通りだった。いつもなら、フランシスはどんな時でも自然に言葉を返す。けれど今は、本当に困ったようにクレアを見つめている。
「そんなに見ないで」
「無理かもしれない」
「どうして?」
「綺麗だから」
重ねて言われ、クレアは視線を逸らした。
「きっと、王都のご令嬢にも、同じことを言っているのでしょう?」
「言うことはあるよ」
「やっぱり」
「でも、今とは違う」
フランシスは少しだけ身を寄せた。
「今は、心から言っている」
クレアは何も返せなくなった。耳まで熱い。
「お前たち、そろそろ行かないと暗くなるぞ」
後ろからシルヴェスターの声がして、クレアははっと振り返った。兄とバーナードが、玄関の階段を下りてくる。シルヴェスターはいつも通り穏やかな表情だった。だがバーナードは、クレアを見ると足を止めた。深い灰青色の瞳が、ドレス姿のクレアへ向けられる。
以前なら、その視線に胸を高鳴らせただろう。褒めてくれるかもしれない。ようやく大人になったと気づいてくれるかもしれない。そう期待したはずだった。けれど今日は、ただ静かに待った。
「よく似合っている」
先に言ったのは、シルヴェスターだった。
「ありがとう、お兄様」
「いつもより少し大人びて見えるな」
「本当?」
「ああ」
クレアは笑い、それからバーナードへ視線を向けた。
「バーナード様は、どう思われますか?」
丁寧な呼び方に、バーナードの表情がわずかに強張った。
「……似合っている」
「ありがとうございます」
クレアは微笑んだ。
それだけだった。
以前のように、嬉しそうに何度も聞き返さない。本当に可愛いと思うか。髪飾りにも気づいたか。誰よりも似合っていると思うか。
もう、答えを求めなかった。
そのことが、バーナードには言葉以上に堪えた。
「クレア」
呼び止めようとしたところで、フランシスが手を差し出した。
「行こうか」
「ええ」
クレアはその手を取り、玄関の階段を下りる。バーナードは、重なった二人の手を見つめた。これまでなら、クレアが段差を下りる時に手を貸すのは自分だった。それがあまりにも自然で、誰かに譲るものだと考えたことさえなかった。だが今は、フランシスがその役目を担っている。
クレアも、それを受け入れていた。
町の広場へ続く道には、すでに多くの人が集まっていた。屋台からは、焼いた肉や菓子の甘い香りが漂う。子どもたちは紙で作られた風車を手に走り回り、広場の中央では楽団が演奏の準備をしていた。
「毎年、こんなに賑やかなの?」
フランシスが辺りを見渡す。
「ええ。でも、今年はいつもより人が多い気がするわ」
「クレアお嬢様!」
通りの向こうから声が飛んでくる。顔見知りの果物屋の娘が、笑顔で手を振っていた。クレアも手を振り返す。
「領地の人と、本当に親しいんだね」
「小さい頃から知っている人が多いもの」
「伯爵令嬢へ、あんなふうに声をかけるのは珍しい」
「失礼だと思う?」
「まさか」
フランシスは穏やかに笑った。
「君が大切にされているのが分かる」
クレアは、その言葉を嬉しく受け取った。
「まずは何を見る?」
「クレアのおすすめは?」
「そうね。あちらに手作りの小物を売る店が並んでいるの」
「図案の参考になりそう?」
「ええ。今年は染織工房も出店すると聞いているわ」
「では、そこから見よう」
二人は人々の間を縫うように歩いた。布小物の店には、刺繍を施した袋や手巾が並んでいる。クレアは一つずつ手に取り、模様の入れ方を確かめた。
「この花、同じ形を繰り返しているのに、色を少しずつ変えているわ」
「本当だ」
「これなら、長い布でも単調に見えないのね」
「王都の工房でも、似た技法を使うところがあるよ」
「そうなの?」
「同じ図案でも、糸の色や太さで印象が変わるんだ」
フランシスは、クレアが興味を示したものについて、知っている限り丁寧に教えてくれる。クレアも次々に質問した。祭りへ来たはずなのに、気づけば工房の見学をしているようだった。
「クレア」
「何?」
「楽しそうだね」
「ええ。とても」
「私といるから?」
不意に尋ねられ、クレアは言葉に詰まった。
「図案を見るのが楽しいのよ」
「それだけ?」
「……フランシスまで、答えにくいことを聞くのね」
「君にいつも聞かれているから、少しくらい仕返ししてもいいでしょう?」
「仕返しだったの?」
「半分はね」
「では、残りの半分は?」
「本当に聞きたかったから」
青紫色の瞳でまっすぐ見つめられ、クレアは視線を逸らした。
「フランシスと一緒だから、もっと楽しいのだと思うわ」
口にした途端、恥ずかしさでいっぱいになる。フランシスは驚いたように目を見開いた。
「それは、反則だな」
「何が?」
「君は時々、こちらが困るようなことを平気で言う」
「本当のことを言っただけよ」
「だから困るんだよ」
そう言いながらも、フランシスは嬉しそうだった。夜が近づくと、広場の提灯へ次々と灯りが入った。赤、橙、青、白。柔らかな光が人々の顔を照らす。楽団の演奏も始まり、広場はさらに賑わっていた。
「少し向こうまで行ってみない?」
フランシスが、人々の間を指差す。
「菓子を売っている店がある」
「どこ?」
「あそこ。木の実を蜂蜜で固めたものみたいだ」
「見てみたいわ」
二人は屋台へ向かおうとした。けれど、ちょうど踊りの輪が広がり、人の流れが急に変わる。クレアの肩へ、誰かがぶつかった。
「あっ」
身体がよろめき、すぐにフランシスが腕を支えた。
「大丈夫?」
「ええ」
「人が増えてきたね」
周囲には多くの人が行き交い、少し離れれば見失ってしまいそうだった。フランシスは一瞬迷ったあと、クレアへ手を差し出した。
「手をつないでも?」
魚釣りの日も、森の散歩でも、フランシスに手を取られたことはある。けれどそれは、立ち上がる時や足場の悪い場所を歩く時だった。
今は違う。
ただ、離れないために手をつなぐ。それだけなのに、クレアの胸は強く鳴った。
「ええ」
そっと手を重ねる。フランシスは、クレアの指を包み込むように握った。強すぎず、けれど決して離れない力だった。
「嫌なら、すぐに言って」
「嫌ではないわ」
クレアが答えると、フランシスの指に少しだけ力が加わった。人の流れに押されながら、二人で歩く。フランシスはクレアの少し前に立ち、人とぶつからないよう守ってくれる。それでも時折振り返り、きちんとついてきているか確かめた。
「大丈夫?」
「ええ」
「足は痛くない?」
「もう治っているわ」
「疲れたら言って」
「分かったわ」
そのやり取りが、何度か続く。クレアは、つないだ手を見つめた。
温かい。安心する。
けれど、バーナードの背中に感じた昔の安心とは違う。
離したくない。もっと長く、このままでいたい。
そんな気持ちが、胸の中に生まれていた。人の流れが少し落ち着いた時、フランシスが手の力を緩めた。
「もう大丈夫そうだね」
手を離そうとしているのだと分かった。その瞬間、クレアは反射的に彼の指を握り返していた。フランシスの動きが止まる。クレア自身も、自分が何をしたのかに気づいて息を呑んだ。
「クレア?」
「まだ、人が多いから」
「そうだね」
フランシスは、それ以上何も言わなかった。ただ、青紫色の瞳を柔らかく細め、もう一度しっかりと手を握る。クレアは顔を上げられなかった。けれど、手を離そうとも思わなかった。
◇
「随分と仲がよさそうね」
少し離れた屋台の前で、赤い髪の女性が声を上げた。ロザリンドだった。騎士団の仲間数人とともに、祭りの警備を手伝うため訪れていたらしい。その隣には、バーナードが立っている。彼は、クレアとフランシスの姿を黙って見ていた。
二人は手をつないだまま、菓子を選んでいる。クレアが何かを言い、フランシスが笑う。フランシスが差し出した菓子を、クレアが一口食べる。以前なら、クレアがあんなふうに笑いかける相手は、バーナードだった。
「聞こえている?」
ロザリンドに声をかけられ、バーナードはようやく視線を動かした。
「何がだ」
「あの二人、よく似合っていると言ったの」
「そうか」
「それだけ?」
「ほかに何を言えばいい」
バーナードは不機嫌そうに答える。ロザリンドは、その横顔をじっと見つめた。
「ひどい顔ね」
「警備中だ。気を抜いていないだけだ」
「祭りを荒らす盗賊でも見つけたような顔をしているわよ」
「放っておけ」
「嫌よ。面白いもの」
ロザリンドは腕を組み、再びクレアたちへ視線を向けた。
「クレアは、もうあなたを追いかけていないのね」
バーナードの眉が動く。
「何を知っている」
「呼び方が変わったのでしょう?」
「シルヴェスターから聞いたのか」
「いいえ。さっきクレアが、あなたのことをバーナード様と呼んでいたから」
祭りへ着いた時、ロザリンドはクレアとも挨拶を交わしていた。以前なら、彼女は何のためらいもなくバーニーと呼んだだろう。
「何があったかは知らないけれど、随分距離を置かれたものね」
「お前には関係ない」
「そうね」
ロザリンドはあっさり頷いた。
「でも、あなたがあまりにも分かりやすいから」
「何がだ」
「嫉妬しているでしょう?」
バーナードは鋭く彼女を見た。
「馬鹿なことを言うな」
「では、なぜあの子がほかの男と手をつないでいるだけで、そんな顔をするの?」
「人混みではぐれないためだろう」
「理由を聞いているのではないわ」
ロザリンドの声から、からかう響きが少し消えた。
「あなたが、なぜあれほど気にしているのかを聞いているの」
「クレアは世間知らずだ」
「侯爵令息が心配?」
「王都の男は、言葉が上手い」
「フランシス様は、少なくともあなたよりは女性の気持ちを考えているでしょうね」
バーナードは何も返さなかった。ロザリンドは小さく息を吐く。
「あなた、あの子を妹だと思っているわけではないでしょう」
「何を言っている」
「妹がほかの男と手をつないだくらいで、そんな顔をする兄はいないわよ」
バーナードの視線が、もう一度クレアへ戻る。フランシスが何かを囁いた。クレアが頬を赤くし、それでも手は離さない。その光景を見ているだけで、胸の奥が焼けるようだった。今すぐ二人の間へ入りたい。
クレアの手を取り戻したい。自分以外の男に、あんな顔を向けてほしくない。
「俺は、昔からあいつを守ってきた」
低い声で言う。
「それは知っているわ」
「危なっかしくて、放っておけない」
「それも知っている」
「だから心配しているだけだ」
「本当に?」
ロザリンドは容赦なく問い返した。
「彼女が危ない目に遭うのが嫌なのかしら。それとも、ほかの男を好きになるのが嫌なの?」
バーナードの喉が詰まる。
答えは分かっている。
認めたくないだけだった。
クレアは昔から大切だった。守ることも、世話を焼くことも、そばにいることも当たり前だった。だから、それが恋なのかどうか考えたことがなかった。いつまでもクレアは自分を好きでいる。笑いながら追いかけてくる。
そう信じていた。
けれど、彼女はもう追いかけないと告げた。自分を「バーニー」と呼ぶこともやめた。そして今、別の男の手を自分から握り返している。
「今さら気づいたの?」
ロザリンドが静かに尋ねる。バーナードは答えなかった。何も言えないことが、答えのようなものだった。
「あなたは、彼女を妹だと思っていたのではないわ」
ロザリンドは続ける。
「妹だと思っていることにしておけば、答えを出さずにすんだからでしょう?」
「……分かったようなことを言うな」
「分かるわよ」
彼女の声は厳しかった。
「クレアは、何度もあなたへ気持ちを伝えていたのでしょう?」
「ああ」
「けれど、あなたは断った」
「子どもの思い込みだと思っていた」
「本当に、それだけ?」
バーナードは拳を握った。クレアが成長していることには、気づいていた。以前より綺麗になったことも。笑いかけられれば、時折胸が揺れることも。それでも見ないふりをした。
幼い頃から知っているクレアを恋愛の相手として考えることに、戸惑いがあった。シルヴェスターの妹でもある。年齢も離れている。自分が受け入れれば、今までの関係が変わってしまう。だから、子どもの恋だと決めつけた。
クレアはいつでもそばにいるのだから、急いで答えを出す必要はないと思っていた。
「あなたは、あの子が待っていてくれることに甘えていたのよ」
ロザリンドの言葉が、胸へ突き刺さる。
「断っても、また好きだと言ってくれる」
「……やめろ」
「王都へ戻っても、帰れば玄関まで走ってきてくれる」
「やめろと言っている」
「自分からは選ばないくせに、誰かに選ばれるのは嫌なの?」
バーナードはロザリンドを睨んだ。だが、彼女は少しも怯まない。
「それは、あまりに身勝手よ」
分かっていた。
クレアにも、似たようなことを言われた。
『私は、ずっと待っていました。あなたが、いつか振り返ってくれるのを』
その言葉を思い出すたび、胸が痛んだ。
「今からでも、追いかければいいと言うつもりか」
バーナードが低く尋ねる。
「いいえ。まさか」
ロザリンドは首を振った。
「自分の気持ちに気づいたからといって、すぐにクレアへぶつければいいとは思わないわ」
意外な答えだった。
「なぜだ」
「今のあの子は、ようやくあなたから離れようとしているのでしょう?」
ロザリンドは、フランシスと並んで歩くクレアを見る。
「そこへ今さら好きだと言えば、また迷わせるかもしれない」
「なら、何も言うなと?」
「そうは言っていないわ」
「どちらなんだ」
「まず、自分が何をしてきたか考えなさいと言っているの」
ロザリンドはまっすぐバーナードを見た。
「クレアの気持ちが戻ることを期待する前に、どうして失ったのかを考えるべきでしょう?」
バーナードは黙った。クレアを失ったわけではない。まだ同じ屋敷にいる。言葉を交わすこともできる。けれど、自分へ向けられていた特別な笑顔は、もう戻らないかもしれない。
「それに」
ロザリンドが少しだけ声を和らげる。
「彼女は楽しそうよ」
バーナードにも、そう見えた。フランシスの隣で、クレアは自分の知らない表情を見せている。恥ずかしそうに頬を染める。図案や王都の話をする時には、瞳を輝かせる。自分を追いかけていた頃よりも、世界が広がっているように見えた。
「それを壊してまで、自分を選べと言える?」
バーナードは答えられなかった。
◇
祭りの終わりが近づく頃、広場では大きな輪が作られていた。楽団の音楽に合わせ、若い男女が踊り始める。
「クレア、踊ろうか?」
フランシスがクレアへ尋ねた。
「ここで?」
「祭りなのだから、いいでしょう」
「でも、皆が見ているわ」
「今さらだよ」
フランシスは笑いながら、クレアへ手を差し出した。
「さっきからずっと手をつないでいたのに」
「それは、人混みではぐれないためでしょう?」
「今は違う」
青紫色の瞳が、まっすぐクレアを見つめる。
「君と踊りたいから」
クレアは差し出された手を見た。夜会で踊るような正式なものではない。皆が思い思いに輪へ入り、音楽に合わせて足を動かしている。子どもも、大人も、身分の違いも関係なく笑っていた。
「上手く踊れなくても、笑わない?」
「私も、この踊りは知らないよ」
「では、二人で間違えるのね」
「それも楽しそうだ」
クレアは笑い、その手を取った。二人で輪へ入る。周囲の動きを真似しながら、音楽に合わせて足を進める。最初は何度も動きがずれた。
クレアが右へ進めば、フランシスも同じ方向へ動く。肩がぶつかり、二人で笑った。
「反対よ」
「君が間違えたんじゃない?」
「私は皆と同じだったわ」
「では、私か」
「王都の貴公子にも、できないことがあるのね」
「はは。君の前では、もう隠す必要もなさそうだ」
音楽が速くなる。フランシスがクレアの腰へ手を添え、くるりと回した。
「きゃっ」
ドレスの裾がふわりと広がる。クレアは驚きながらも、笑っていた。
「今のはちゃんとできたでしょう?」
「ええ。悔しいけど、少しだけ格好よかったわ」
「少しだけ?」
「褒めすぎると、調子に乗るもの」
「もう十分乗っているよ」
フランシスは楽しそうに笑った。踊りの輪の外には、シルヴェスターや両親の姿もあった。母ルーシーは、娘の笑顔を見ながら穏やかに微笑んでいる。その少し離れた場所に、バーナードもいた。クレアは一瞬だけ、彼と目が合った。
以前なら、バーナードが見ていると気づいただけで、足を止めていたかもしれない。自分がほかの男性と踊っている姿をどう思うか。怒っていないか。嫌われないか。そんなことばかり考えたはずだった。
けれど今は、違う。
「クレア?」
フランシスが呼ぶ。クレアはすぐに彼へ顔を戻した。
「ごめんなさい。少しだけ、ぼんやりしていたわ」
「疲れた?」
「いいえ」
クレアは、自分からフランシスの手を握り直した。
「もう少し踊りたいわ」
フランシスの目が、嬉しそうに細められる。
「もちろん」
二人は再び音楽へ合わせて歩き出した。クレアはもう、輪の外を見なかった。
今、自分の手を取っている人。
自分を一人の女性として見つめてくれる人。自分の未来を、一緒に考えてくれる人。
その隣で笑っていたいと、素直に思った。
◇
祭りから戻ったあと。バーナードはすぐには部屋へ戻らず、暗い庭園へ足を向けた。提灯の灯りも届かない場所で、古い樫の木を見上げる。幼いクレアが、あの枝まで登った。降りられなくなって泣き、自分が助けた。
『バーニー、怖かった』
『だから登るなと言っただろう』
『でも、バーニーが助けてくれると思ったから』
あの頃から、クレアは自分を信じ切っていた。何があっても助けてくれる。どれほど離れても、必ず帰ってくる。そして自分もまた、クレアはいつまでも変わらないと信じていた。
「妹ではない」
バーナードは、誰もいない庭でつぶやいた。妹ならほかの男と手をつないでも、これほど苦しくはならない。妹なら別の男を見つめても、その視線を奪い返したいとは思わない。妹なら自分を追いかけなくなっただけで、すべてを失ったようには感じない。
ようやく認めた。
クレアは妹ではない。
昔から大切だった。誰よりも近くにいることが当たり前だった。その気持ちに名前をつけることを、避け続けていただけだった。
けれど、気づいた時には。
クレアはもう、別の男の隣で笑っている。バーナードは拳を握った。今すぐ追いかけ、好きだと告げたい衝動が湧く。けれど、ロザリンドの言葉が蘇る。
『自分の気持ちに気づいたからといって、すぐにクレアへぶつければいいとは思わない』
これまで何度もクレアの気持ちを受け流した。自分が答えを出さなくても、彼女は待ってくれると思っていた。その身勝手さを認めず、今さら気づいた恋心だけをぶつけることはできない。何より、今夜のクレアは本当に楽しそうだった。自分を追いかけていた頃には見せなかったほど、自由に笑っていた。
「遅すぎたのか」
口にした声は、夜の庭へ消えていく。答える者はいなかった。ただ、祭りから戻った人々の笑い声が、遠くから微かに聞こえていた。
一方、屋敷の中では、自室へ戻ったクレアが、外した髪飾りを机の上へ置いていた。手には、祭りでフランシスが買ってくれた小さな包みがある。蜂蜜で固めた木の実の菓子だ。
「半分は明日に取っておいて」
そう言いながら、フランシスが渡してくれた。クレアは包みを開き、一つだけ口へ入れる。香ばしい木の実と蜂蜜の甘さが広がった。そして、つないだ手の温かさを思い出す。人が減ったあとも、離したくなかった。
自分から握り返した。あの時の気持ちを、もうごまかすことはできない。
「私、フランシスのことを……」
最後まで口にすることは、まだできなかった。けれど、胸の中には確かな答えが芽生え始めている。バーナードを追いかけることをやめたからではない。初恋を忘れるためでもない。フランシスといる時間が楽しい。
彼に見つめられると嬉しい。手をつないでいたい。もっと近くで、彼のことを知りたい。その一つ一つが、新しい恋へ形を変えようとしていた。




