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いつまでも夢見る少女ではいられない〜兄の親友への初恋を手放して、新しい恋を選びます〜  作者: 黒猫と珈琲


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10/12

第十話 妹を見る目ではない

 夏祭りの日が近づくにつれ、ラングレー領の町は少しずつ華やいでいった。広場には色とりどりの布飾りが渡され、通り沿いの店先には小さな提灯が並ぶ。毎年、夏の終わりに開かれる祭りだった。収穫を前に、領民たちが無事に夏を越せたことを祝う。


 昼間は市場や見世物で賑わい、日が暮れると広場に音楽が流れ、若者たちが輪になって踊る。クレアも幼い頃から、毎年楽しみにしてきた。


 けれど今年は、いつもとは少し違っていた。


「こちらのドレスはどうかしら」


 母ルーシーが、淡い桃色のドレスをクレアの前へ広げる。午後の自室には、今夜の祭りに着ていくためのドレスが何着も並べられていた。


「可愛いけれど、少し甘すぎる気がするわ」


 クレアは鏡の前で首を傾げた。


「以前のあなたなら、すぐに選んでいたのに」

「そうだった?」

「ええ。バーナードが可愛いと言いそうなものを、いつも選んでいたでしょう?」


 不意に名前を出され、クレアは少しだけ黙った。母の言う通りだった。祭りのたび、クレアは明るい色のドレスを選んだ。バーナードが似合うと言ってくれるかもしれない。少しは大人になったと気づいてくれるかもしれない。


 そんな期待を抱きながら。


「今年は、自分が好きなものを着たいの」


 クレアは静かに答えた。ルーシーは目を細める。


「それなら、こちらは?」


 次に差し出されたのは、淡い青緑色のドレスだった。胸元や袖には細かな刺繍が施され、華やかすぎず、それでいて夏の夜の灯りに映えそうな色をしている。


「綺麗」


 クレアは思わず手を伸ばした。


「この刺繍、水草みたいね」

「あなたも、そう思った?」

「ええ。裾へ向かって流れるように入っているわ」


 指先で模様をなぞる。小さな葉が、水の流れに揺れているように並んでいた。森の泉で見た水草を思い出す。フランシスと一緒に見つけ、図案へ描いたものと少し似ている。


「これがいいわ」

「決まったのね」

「ええ。見た瞬間に、好きだと思ったの」


 クレアが笑うと、母も微笑んだ。


「そうしたら、髪飾りはどうする?」

「ドレスと同じ色の花はあるかしら?」

「小さな青い花なら用意できるわ」

「では、それでお願い」


 侍女たちが支度を始める。蜂蜜色の髪は、普段より少し高い位置でまとめられた。柔らかな巻き髪を背中へ流し、耳の上には青い小花を飾る。鏡の中の自分は、いつもより少しだけ大人びて見えた。


「似合っているわ」


 ルーシーが後ろから言う。


「本当に?」

「ええ。あなたらしいわ」


 以前なら、ここで尋ねていたかもしれない。バーナードも可愛いと思ってくれるかしら、と。けれど今日は、その言葉は出てこなかった。


「お母様」

「なあに?」

「フランシスは、どう思うかしら」


 口にしたあとで、クレアは自分でも驚いた。ルーシーは笑わなかった。ただ、鏡越しに娘を見つめる。


「それは、本人に聞いてみたら?」

「聞けるわけないでしょう」

「では、顔を見て判断なさい」

「顔に出るかしら」

「あの方は、あなたの前では案外分かりやすいわよ」


 母に言われ、クレアの頬が少し熱くなった。


 日が傾き始める頃、屋敷の玄関前には祭りへ向かう者たちが集まっていた。父アルバートと母ルーシーは、少し遅れて馬車で向かう。シルヴェスターとバーナードは、領内の見回りも兼ねて徒歩で広場へ行く予定だった。フランシスは、クレアを待って玄関前に立っていた。


 濃い青の上着に、銀色の刺繍が入った装いだった。昼間より少し整えられた銀金色の髪が、夕暮れの光を受けて柔らかく輝いている。クレアが玄関から出ると、フランシスは顔を上げた。青紫色の瞳がクレアへ向けられ、そのまま動きを止める。


「フランシス?」


 何も言わないため、クレアは不安になった。


「変かしら」

「逆だよ」

「逆?」


 ようやく返ってきた声は、いつもより少し低かった。


「思っていたより、ずっと綺麗で」


 フランシスは一度、言葉を切った。


「何を言えばいいのか分からなかった」


 クレアの胸が大きく鳴った。母の言った通りだった。いつもなら、フランシスはどんな時でも自然に言葉を返す。けれど今は、本当に困ったようにクレアを見つめている。


「そんなに見ないで」

「無理かもしれない」

「どうして?」

「綺麗だから」


 重ねて言われ、クレアは視線を逸らした。


「きっと、王都のご令嬢にも、同じことを言っているのでしょう?」

「言うことはあるよ」

「やっぱり」

「でも、今とは違う」


 フランシスは少しだけ身を寄せた。


「今は、心から言っている」


 クレアは何も返せなくなった。耳まで熱い。


「お前たち、そろそろ行かないと暗くなるぞ」


 後ろからシルヴェスターの声がして、クレアははっと振り返った。兄とバーナードが、玄関の階段を下りてくる。シルヴェスターはいつも通り穏やかな表情だった。だがバーナードは、クレアを見ると足を止めた。深い灰青色の瞳が、ドレス姿のクレアへ向けられる。


 以前なら、その視線に胸を高鳴らせただろう。褒めてくれるかもしれない。ようやく大人になったと気づいてくれるかもしれない。そう期待したはずだった。けれど今日は、ただ静かに待った。


「よく似合っている」


 先に言ったのは、シルヴェスターだった。


「ありがとう、お兄様」

「いつもより少し大人びて見えるな」

「本当?」

「ああ」


 クレアは笑い、それからバーナードへ視線を向けた。


「バーナード様は、どう思われますか?」


 丁寧な呼び方に、バーナードの表情がわずかに強張った。


「……似合っている」

「ありがとうございます」


 クレアは微笑んだ。


 それだけだった。


 以前のように、嬉しそうに何度も聞き返さない。本当に可愛いと思うか。髪飾りにも気づいたか。誰よりも似合っていると思うか。


 もう、答えを求めなかった。


 そのことが、バーナードには言葉以上に堪えた。


「クレア」


 呼び止めようとしたところで、フランシスが手を差し出した。


「行こうか」

「ええ」


 クレアはその手を取り、玄関の階段を下りる。バーナードは、重なった二人の手を見つめた。これまでなら、クレアが段差を下りる時に手を貸すのは自分だった。それがあまりにも自然で、誰かに譲るものだと考えたことさえなかった。だが今は、フランシスがその役目を担っている。


 クレアも、それを受け入れていた。


 町の広場へ続く道には、すでに多くの人が集まっていた。屋台からは、焼いた肉や菓子の甘い香りが漂う。子どもたちは紙で作られた風車を手に走り回り、広場の中央では楽団が演奏の準備をしていた。


「毎年、こんなに賑やかなの?」


 フランシスが辺りを見渡す。


「ええ。でも、今年はいつもより人が多い気がするわ」

「クレアお嬢様!」


 通りの向こうから声が飛んでくる。顔見知りの果物屋の娘が、笑顔で手を振っていた。クレアも手を振り返す。


「領地の人と、本当に親しいんだね」

「小さい頃から知っている人が多いもの」

「伯爵令嬢へ、あんなふうに声をかけるのは珍しい」

「失礼だと思う?」

「まさか」


 フランシスは穏やかに笑った。


「君が大切にされているのが分かる」


 クレアは、その言葉を嬉しく受け取った。


「まずは何を見る?」

「クレアのおすすめは?」

「そうね。あちらに手作りの小物を売る店が並んでいるの」

「図案の参考になりそう?」

「ええ。今年は染織工房も出店すると聞いているわ」

「では、そこから見よう」


 二人は人々の間を縫うように歩いた。布小物の店には、刺繍を施した袋や手巾が並んでいる。クレアは一つずつ手に取り、模様の入れ方を確かめた。


「この花、同じ形を繰り返しているのに、色を少しずつ変えているわ」

「本当だ」

「これなら、長い布でも単調に見えないのね」

「王都の工房でも、似た技法を使うところがあるよ」

「そうなの?」

「同じ図案でも、糸の色や太さで印象が変わるんだ」


 フランシスは、クレアが興味を示したものについて、知っている限り丁寧に教えてくれる。クレアも次々に質問した。祭りへ来たはずなのに、気づけば工房の見学をしているようだった。


「クレア」

「何?」

「楽しそうだね」

「ええ。とても」

「私といるから?」


 不意に尋ねられ、クレアは言葉に詰まった。


「図案を見るのが楽しいのよ」

「それだけ?」

「……フランシスまで、答えにくいことを聞くのね」

「君にいつも聞かれているから、少しくらい仕返ししてもいいでしょう?」

「仕返しだったの?」

「半分はね」

「では、残りの半分は?」

「本当に聞きたかったから」


 青紫色の瞳でまっすぐ見つめられ、クレアは視線を逸らした。


「フランシスと一緒だから、もっと楽しいのだと思うわ」


 口にした途端、恥ずかしさでいっぱいになる。フランシスは驚いたように目を見開いた。


「それは、反則だな」

「何が?」

「君は時々、こちらが困るようなことを平気で言う」

「本当のことを言っただけよ」

「だから困るんだよ」


 そう言いながらも、フランシスは嬉しそうだった。夜が近づくと、広場の提灯へ次々と灯りが入った。赤、橙、青、白。柔らかな光が人々の顔を照らす。楽団の演奏も始まり、広場はさらに賑わっていた。


「少し向こうまで行ってみない?」


 フランシスが、人々の間を指差す。


「菓子を売っている店がある」

「どこ?」

「あそこ。木の実を蜂蜜で固めたものみたいだ」

「見てみたいわ」


 二人は屋台へ向かおうとした。けれど、ちょうど踊りの輪が広がり、人の流れが急に変わる。クレアの肩へ、誰かがぶつかった。


「あっ」


 身体がよろめき、すぐにフランシスが腕を支えた。


「大丈夫?」

「ええ」

「人が増えてきたね」


 周囲には多くの人が行き交い、少し離れれば見失ってしまいそうだった。フランシスは一瞬迷ったあと、クレアへ手を差し出した。


「手をつないでも?」


 魚釣りの日も、森の散歩でも、フランシスに手を取られたことはある。けれどそれは、立ち上がる時や足場の悪い場所を歩く時だった。


 今は違う。


 ただ、離れないために手をつなぐ。それだけなのに、クレアの胸は強く鳴った。


「ええ」


 そっと手を重ねる。フランシスは、クレアの指を包み込むように握った。強すぎず、けれど決して離れない力だった。


「嫌なら、すぐに言って」

「嫌ではないわ」


 クレアが答えると、フランシスの指に少しだけ力が加わった。人の流れに押されながら、二人で歩く。フランシスはクレアの少し前に立ち、人とぶつからないよう守ってくれる。それでも時折振り返り、きちんとついてきているか確かめた。


「大丈夫?」

「ええ」

「足は痛くない?」

「もう治っているわ」

「疲れたら言って」

「分かったわ」


 そのやり取りが、何度か続く。クレアは、つないだ手を見つめた。


 温かい。安心する。


 けれど、バーナードの背中に感じた昔の安心とは違う。


 離したくない。もっと長く、このままでいたい。


 そんな気持ちが、胸の中に生まれていた。人の流れが少し落ち着いた時、フランシスが手の力を緩めた。


「もう大丈夫そうだね」


 手を離そうとしているのだと分かった。その瞬間、クレアは反射的に彼の指を握り返していた。フランシスの動きが止まる。クレア自身も、自分が何をしたのかに気づいて息を呑んだ。


「クレア?」

「まだ、人が多いから」

「そうだね」


 フランシスは、それ以上何も言わなかった。ただ、青紫色の瞳を柔らかく細め、もう一度しっかりと手を握る。クレアは顔を上げられなかった。けれど、手を離そうとも思わなかった。


     ◇


「随分と仲がよさそうね」


 少し離れた屋台の前で、赤い髪の女性が声を上げた。ロザリンドだった。騎士団の仲間数人とともに、祭りの警備を手伝うため訪れていたらしい。その隣には、バーナードが立っている。彼は、クレアとフランシスの姿を黙って見ていた。


 二人は手をつないだまま、菓子を選んでいる。クレアが何かを言い、フランシスが笑う。フランシスが差し出した菓子を、クレアが一口食べる。以前なら、クレアがあんなふうに笑いかける相手は、バーナードだった。


「聞こえている?」


 ロザリンドに声をかけられ、バーナードはようやく視線を動かした。


「何がだ」

「あの二人、よく似合っていると言ったの」

「そうか」

「それだけ?」

「ほかに何を言えばいい」


 バーナードは不機嫌そうに答える。ロザリンドは、その横顔をじっと見つめた。


「ひどい顔ね」

「警備中だ。気を抜いていないだけだ」

「祭りを荒らす盗賊でも見つけたような顔をしているわよ」

「放っておけ」

「嫌よ。面白いもの」


 ロザリンドは腕を組み、再びクレアたちへ視線を向けた。


「クレアは、もうあなたを追いかけていないのね」


 バーナードの眉が動く。


「何を知っている」

「呼び方が変わったのでしょう?」

「シルヴェスターから聞いたのか」

「いいえ。さっきクレアが、あなたのことをバーナード様と呼んでいたから」


 祭りへ着いた時、ロザリンドはクレアとも挨拶を交わしていた。以前なら、彼女は何のためらいもなくバーニーと呼んだだろう。


「何があったかは知らないけれど、随分距離を置かれたものね」

「お前には関係ない」

「そうね」


 ロザリンドはあっさり頷いた。


「でも、あなたがあまりにも分かりやすいから」

「何がだ」

「嫉妬しているでしょう?」


 バーナードは鋭く彼女を見た。


「馬鹿なことを言うな」

「では、なぜあの子がほかの男と手をつないでいるだけで、そんな顔をするの?」

「人混みではぐれないためだろう」

「理由を聞いているのではないわ」


 ロザリンドの声から、からかう響きが少し消えた。


「あなたが、なぜあれほど気にしているのかを聞いているの」

「クレアは世間知らずだ」

「侯爵令息が心配?」

「王都の男は、言葉が上手い」

「フランシス様は、少なくともあなたよりは女性の気持ちを考えているでしょうね」


 バーナードは何も返さなかった。ロザリンドは小さく息を吐く。


「あなた、あの子を妹だと思っているわけではないでしょう」

「何を言っている」

「妹がほかの男と手をつないだくらいで、そんな顔をする兄はいないわよ」


 バーナードの視線が、もう一度クレアへ戻る。フランシスが何かを囁いた。クレアが頬を赤くし、それでも手は離さない。その光景を見ているだけで、胸の奥が焼けるようだった。今すぐ二人の間へ入りたい。


 クレアの手を取り戻したい。自分以外の男に、あんな顔を向けてほしくない。


「俺は、昔からあいつを守ってきた」


 低い声で言う。


「それは知っているわ」

「危なっかしくて、放っておけない」

「それも知っている」

「だから心配しているだけだ」

「本当に?」


 ロザリンドは容赦なく問い返した。


「彼女が危ない目に遭うのが嫌なのかしら。それとも、ほかの男を好きになるのが嫌なの?」


 バーナードの喉が詰まる。


 答えは分かっている。


 認めたくないだけだった。


 クレアは昔から大切だった。守ることも、世話を焼くことも、そばにいることも当たり前だった。だから、それが恋なのかどうか考えたことがなかった。いつまでもクレアは自分を好きでいる。笑いながら追いかけてくる。


 そう信じていた。


 けれど、彼女はもう追いかけないと告げた。自分を「バーニー」と呼ぶこともやめた。そして今、別の男の手を自分から握り返している。


「今さら気づいたの?」


 ロザリンドが静かに尋ねる。バーナードは答えなかった。何も言えないことが、答えのようなものだった。


「あなたは、彼女を妹だと思っていたのではないわ」


 ロザリンドは続ける。


「妹だと思っていることにしておけば、答えを出さずにすんだからでしょう?」

「……分かったようなことを言うな」

「分かるわよ」


 彼女の声は厳しかった。


「クレアは、何度もあなたへ気持ちを伝えていたのでしょう?」

「ああ」

「けれど、あなたは断った」

「子どもの思い込みだと思っていた」

「本当に、それだけ?」


 バーナードは拳を握った。クレアが成長していることには、気づいていた。以前より綺麗になったことも。笑いかけられれば、時折胸が揺れることも。それでも見ないふりをした。


 幼い頃から知っているクレアを恋愛の相手として考えることに、戸惑いがあった。シルヴェスターの妹でもある。年齢も離れている。自分が受け入れれば、今までの関係が変わってしまう。だから、子どもの恋だと決めつけた。


 クレアはいつでもそばにいるのだから、急いで答えを出す必要はないと思っていた。


「あなたは、あの子が待っていてくれることに甘えていたのよ」


 ロザリンドの言葉が、胸へ突き刺さる。


「断っても、また好きだと言ってくれる」

「……やめろ」

「王都へ戻っても、帰れば玄関まで走ってきてくれる」

「やめろと言っている」

「自分からは選ばないくせに、誰かに選ばれるのは嫌なの?」


 バーナードはロザリンドを睨んだ。だが、彼女は少しも怯まない。


「それは、あまりに身勝手よ」


 分かっていた。


 クレアにも、似たようなことを言われた。


『私は、ずっと待っていました。あなたが、いつか振り返ってくれるのを』


 その言葉を思い出すたび、胸が痛んだ。


「今からでも、追いかければいいと言うつもりか」


 バーナードが低く尋ねる。


「いいえ。まさか」


 ロザリンドは首を振った。


「自分の気持ちに気づいたからといって、すぐにクレアへぶつければいいとは思わないわ」


 意外な答えだった。


「なぜだ」

「今のあの子は、ようやくあなたから離れようとしているのでしょう?」


 ロザリンドは、フランシスと並んで歩くクレアを見る。


「そこへ今さら好きだと言えば、また迷わせるかもしれない」

「なら、何も言うなと?」

「そうは言っていないわ」

「どちらなんだ」

「まず、自分が何をしてきたか考えなさいと言っているの」


 ロザリンドはまっすぐバーナードを見た。


「クレアの気持ちが戻ることを期待する前に、どうして失ったのかを考えるべきでしょう?」


 バーナードは黙った。クレアを失ったわけではない。まだ同じ屋敷にいる。言葉を交わすこともできる。けれど、自分へ向けられていた特別な笑顔は、もう戻らないかもしれない。


「それに」


 ロザリンドが少しだけ声を和らげる。


「彼女は楽しそうよ」


 バーナードにも、そう見えた。フランシスの隣で、クレアは自分の知らない表情を見せている。恥ずかしそうに頬を染める。図案や王都の話をする時には、瞳を輝かせる。自分を追いかけていた頃よりも、世界が広がっているように見えた。


「それを壊してまで、自分を選べと言える?」


 バーナードは答えられなかった。


     ◇


 祭りの終わりが近づく頃、広場では大きな輪が作られていた。楽団の音楽に合わせ、若い男女が踊り始める。


「クレア、踊ろうか?」


 フランシスがクレアへ尋ねた。


「ここで?」

「祭りなのだから、いいでしょう」

「でも、皆が見ているわ」

「今さらだよ」


 フランシスは笑いながら、クレアへ手を差し出した。


「さっきからずっと手をつないでいたのに」

「それは、人混みではぐれないためでしょう?」

「今は違う」


 青紫色の瞳が、まっすぐクレアを見つめる。


「君と踊りたいから」


 クレアは差し出された手を見た。夜会で踊るような正式なものではない。皆が思い思いに輪へ入り、音楽に合わせて足を動かしている。子どもも、大人も、身分の違いも関係なく笑っていた。


「上手く踊れなくても、笑わない?」

「私も、この踊りは知らないよ」

「では、二人で間違えるのね」

「それも楽しそうだ」


 クレアは笑い、その手を取った。二人で輪へ入る。周囲の動きを真似しながら、音楽に合わせて足を進める。最初は何度も動きがずれた。


 クレアが右へ進めば、フランシスも同じ方向へ動く。肩がぶつかり、二人で笑った。


「反対よ」

「君が間違えたんじゃない?」

「私は皆と同じだったわ」

「では、私か」

「王都の貴公子にも、できないことがあるのね」

「はは。君の前では、もう隠す必要もなさそうだ」


 音楽が速くなる。フランシスがクレアの腰へ手を添え、くるりと回した。


「きゃっ」


 ドレスの裾がふわりと広がる。クレアは驚きながらも、笑っていた。


「今のはちゃんとできたでしょう?」

「ええ。悔しいけど、少しだけ格好よかったわ」

「少しだけ?」

「褒めすぎると、調子に乗るもの」

「もう十分乗っているよ」


 フランシスは楽しそうに笑った。踊りの輪の外には、シルヴェスターや両親の姿もあった。母ルーシーは、娘の笑顔を見ながら穏やかに微笑んでいる。その少し離れた場所に、バーナードもいた。クレアは一瞬だけ、彼と目が合った。


 以前なら、バーナードが見ていると気づいただけで、足を止めていたかもしれない。自分がほかの男性と踊っている姿をどう思うか。怒っていないか。嫌われないか。そんなことばかり考えたはずだった。


 けれど今は、違う。


「クレア?」


 フランシスが呼ぶ。クレアはすぐに彼へ顔を戻した。


「ごめんなさい。少しだけ、ぼんやりしていたわ」

「疲れた?」

「いいえ」


 クレアは、自分からフランシスの手を握り直した。


「もう少し踊りたいわ」


 フランシスの目が、嬉しそうに細められる。


「もちろん」


 二人は再び音楽へ合わせて歩き出した。クレアはもう、輪の外を見なかった。


 今、自分の手を取っている人。


 自分を一人の女性として見つめてくれる人。自分の未来を、一緒に考えてくれる人。


 その隣で笑っていたいと、素直に思った。


     ◇


 祭りから戻ったあと。バーナードはすぐには部屋へ戻らず、暗い庭園へ足を向けた。提灯の灯りも届かない場所で、古い樫の木を見上げる。幼いクレアが、あの枝まで登った。降りられなくなって泣き、自分が助けた。


『バーニー、怖かった』

『だから登るなと言っただろう』

『でも、バーニーが助けてくれると思ったから』


 あの頃から、クレアは自分を信じ切っていた。何があっても助けてくれる。どれほど離れても、必ず帰ってくる。そして自分もまた、クレアはいつまでも変わらないと信じていた。


「妹ではない」


 バーナードは、誰もいない庭でつぶやいた。妹ならほかの男と手をつないでも、これほど苦しくはならない。妹なら別の男を見つめても、その視線を奪い返したいとは思わない。妹なら自分を追いかけなくなっただけで、すべてを失ったようには感じない。


 ようやく認めた。


 クレアは妹ではない。


 昔から大切だった。誰よりも近くにいることが当たり前だった。その気持ちに名前をつけることを、避け続けていただけだった。


 けれど、気づいた時には。


 クレアはもう、別の男の隣で笑っている。バーナードは拳を握った。今すぐ追いかけ、好きだと告げたい衝動が湧く。けれど、ロザリンドの言葉が蘇る。


『自分の気持ちに気づいたからといって、すぐにクレアへぶつければいいとは思わない』


 これまで何度もクレアの気持ちを受け流した。自分が答えを出さなくても、彼女は待ってくれると思っていた。その身勝手さを認めず、今さら気づいた恋心だけをぶつけることはできない。何より、今夜のクレアは本当に楽しそうだった。自分を追いかけていた頃には見せなかったほど、自由に笑っていた。


「遅すぎたのか」


 口にした声は、夜の庭へ消えていく。答える者はいなかった。ただ、祭りから戻った人々の笑い声が、遠くから微かに聞こえていた。


 一方、屋敷の中では、自室へ戻ったクレアが、外した髪飾りを机の上へ置いていた。手には、祭りでフランシスが買ってくれた小さな包みがある。蜂蜜で固めた木の実の菓子だ。


「半分は明日に取っておいて」


 そう言いながら、フランシスが渡してくれた。クレアは包みを開き、一つだけ口へ入れる。香ばしい木の実と蜂蜜の甘さが広がった。そして、つないだ手の温かさを思い出す。人が減ったあとも、離したくなかった。


 自分から握り返した。あの時の気持ちを、もうごまかすことはできない。


「私、フランシスのことを……」


 最後まで口にすることは、まだできなかった。けれど、胸の中には確かな答えが芽生え始めている。バーナードを追いかけることをやめたからではない。初恋を忘れるためでもない。フランシスといる時間が楽しい。


 彼に見つめられると嬉しい。手をつないでいたい。もっと近くで、彼のことを知りたい。その一つ一つが、新しい恋へ形を変えようとしていた。


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