第十一話 カンパネラのティーカップ
夏祭りから二日後。
クレアは自室の机に向かい、白い紙の上へ何度も花を描いていた。釣鐘のように俯いて咲く、青紫色の花。庭園にも咲いているカンパネラだ。
一輪では寂しく見える。三輪並べると、少し窮屈だった。二輪の花と、小さな蕾を一つ。その組み合わせが、いちばんしっくりくる。
「また描き直すのですか?」
机のそばで見守っていた侍女が、重ねられた紙へ目を向けた。
「ええ。今度は花の向きを少し変えてみるわ」
「先ほどのものも、とても綺麗でしたよ」
「でも、ティーカップに描いたら、持ち手の近くが詰まって見えるかもしれないでしょう?」
クレアは新しい紙へ白磁のティーカップの輪郭を描き、その側面へ二輪の花を置いた。さらに、持ち手のそばへ蕾を一つ添える。
蔓を長く伸ばしすぎると、上品というより賑やかに見えてしまう。少し線を引いては消し、また描き直した。
「フランシス様への贈り物でしたら、どの図案でも喜んでくださると思いますが」
「だからこそ、きちんとしたものを渡したいの」
クレアは手を止めずに答えた。フランシスが王都へ戻る日まで、もうあまり時間がない。
あと数日。
そう聞いた時、胸の奥が思いのほか強く沈んだ。
最初は、領地を案内するだけの相手だった。王都から来た、少し変わった侯爵令息。
それが今では、朝になれば顔を見たいと思う。図案を描けば、最初に感想を聞きたくなる。何か面白いものを見つければ、フランシスにも見せたいと考える。祭りの夜に握った手の温かさも、まだ覚えていた。
だから、帰る前に何かを贈りたかった。市場で買ったものではなく、クレア自身が考えたものを。
「できたわ」
クレアは鉛筆を置いた。
二輪のカンパネラは、少しだけ向かい合うように咲いている。そのそばに、小さな蕾。まだ花開く前の未来を思わせる形だった。
侍女が図案を覗き込み、微笑む。
「とても綺麗です」
「本当に?」
「はい。フランシス様の瞳に似た色になさるのですよね」
クレアの頬が、わずかに熱くなった。
「よく分かったわね」
「これだけ何度も描いておられれば」
「誰にも言わないで」
「承知いたしました」
侍女は楽しそうに笑う。クレアは図案を胸元へ抱えた。
「では、工房へ行ってくるわ」
◇
ラングレー領の職人街は、夏祭りの名残でまだ賑わっていた。通りには布飾りが残り、店先では職人たちが祭りの片づけをしながら仕事を続けている。
クレアが訪れたのは、白磁の食器を扱う陶工房だった。フランシスを案内した時にも、一度立ち寄っている。店主のマルセルは、白い髭を蓄えた穏やかな老人だった。
「これは、クレアお嬢様」
工房へ入ると、マルセルが驚いたように顔を上げた。
「今日はお一人ですか?」
「侍女も一緒よ。少しお願いしたいことがあって来たの」
「私どもにできることでしたら、何なりと」
クレアは持ってきた図案を、作業台の上へ広げた。
「この絵を、白磁のティーカップに描きたいの」
「お嬢様ご自身で?」
「ええ。フランシスへの贈り物にしたいのよ」
名前を口にすると、マルセルの目元が少しだけ緩んだ。
「なるほど」
「何かしら」
「いえ。心を込めてお手伝いしなくてはと思いまして」
何かを察したような笑みだったが、クレアはあえて尋ねなかった。マルセルは図案を手に取り、じっくりと眺める。
「こちらを、そのままカップへ?」
「そのつもりだけれど、難しいかしら」
「難しいというより、少し調整が必要でしょうな」
「どこを?」
マルセルは工房の棚から、何も描かれていない白磁のカップを取り出した。
「紙は平らですが、カップには丸みがあります」
そう言って、図案をカップの側面へ添える。
「正面からは美しく見えても、横へ回り込む部分は少し歪んで見えることがあるのです」
「では、花を小さくした方がいい?」
「一輪ずつを小さくするより、間を少し空ける方がよいかもしれません」
「持ち手の近くの蕾は?」
「こちらも、もう少し内側へ寄せた方がよいでしょう」
クレアはすぐに新しい紙を取り出した。マルセルの話を聞きながら、花と花の間を少し広げ、蕾の位置を変える。蔓の流れも、持ち手へ近づきすぎないよう調整した。
「これならどう?」
「ずいぶんよくなりました」
「本当?」
「ええ。ただ、もう一つ」
「まだあるの?」
クレアが目を丸くすると、マルセルは苦笑した。
「絵付けに使う色は、焼く前と焼いたあとで、少し違って見えるのです」
「違う?」
「薄くなるものもあれば、深く出るものもあります。特にこの青紫色は、焼き上がりを考えて少し濃く置いた方がよいでしょう」
「それなら、最初からフランシスの瞳と同じ色にしても、焼いたら変わってしまうのね」
思わずつぶやくと、マルセルが微笑んだ。
「やはり、ご令息の瞳を思って選ばれた色でしたか」
「……なぜ分かったのですか?」
「この領地で、あの方ほど鮮やかな青紫の瞳を持つ方はおりませんから」
クレアは少し恥ずかしくなり、図案へ視線を落とした。
「できるだけ、あの色に近づけたいの」
「でしたら、試し焼きをいたしましょう」
「間に合うかしら」
「お帰りになるのは、四日後と伺っています」
「ええ」
「急げば、前日の朝には仕上がります」
それを聞き、クレアはほっとした。
「お願いするわ」
「では、まず色を選びましょう」
マルセルは何種類もの顔料を用意した。青に近いもの。紫が強いもの。少し灰色を含んだもの。一つずつ白い板へ置き、焼き上がりの見本と見比べる。
「この色は、少し冷たすぎるわ」
「では、こちらは?」
「紫が強すぎる気がする」
「ずいぶん細かく見ておられますな」
「だって、フランシスの瞳は、青にも紫にも見えるもの」
陽射しの下では、澄んだ青紫。少し暗い場所では、深い菫色。楽しそうに笑う時には明るく見え、真剣な話をする時には濃くなる。
クレアは、いつの間にかその色をよく知っていた。
「こちらはいかがです?」
マルセルが示したのは、青の中に淡い紫を含んだ色だった。焼成後の見本を見ると、フランシスの瞳に最も近い。
「これがいいわ」
「では、この色で」
クレアは何度も練習したあと、実際のカップへ筆を入れた。紙へ描く時とは、まるで勝手が違う。筆先が少し震えるだけで、線が思う方向から外れてしまう。
「難しい……」
「急がなくてよろしいですよ」
マルセルが隣から声をかける。
「一度に長い線を引こうとなさらず、少しずつつなげてください」
「つなぎ目が見えない?」
「そこを自然に見せるのが、絵付けの技です」
クレアは息を整え、再び筆を動かした。一枚目の練習では、花びらが少し太くなった。二枚目では、蔓の線が途切れた。三枚目でようやく、紙に描いた図案へ近づいた。
思っていたより、ずっと難しい。
けれど、楽しかった。
どうすれば平らな絵を、丸い器へ美しく置けるのか。線の太さや花の向きによって、見え方がどれほど変わるのか。今まで知らなかったことばかりだった。
「もっと学びたいわ」
気づけば、声に出していた。
「絵付けをですか?」
「それだけではなくて」
クレアは、目の前のカップを見つめる。
「紙の上に描いた図案を、どうすれば本当の品物にできるのか。布や家具なら、また違うのでしょう?」
「ええ。素材が変われば、必要な線も色も変わります」
「王都へ行けば、もっとたくさん学べるのね」
「この領地にも腕のよい職人はおりますが、王都にはさまざまな品と技法が集まりますからな」
マルセルは穏やかに頷いた。
「お嬢様が学んで戻られれば、私どもへも新しい風を運んでくださるかもしれません」
「私が?」
「ええ」
その言葉に、胸が熱くなった。
王都へ行くことは、この領地を捨てることではない。学んだものを、いつかここへ持ち帰ることもできる。自分が見た草花や生き物を、王都の技法で形へ変え、それをまたラングレー領へ戻す。
未来が、少しずつ具体的になっていく。
「頑張るわ」
クレアはもう一度、筆を握り直した。
◇
完成したカップが焼き上がったのは、フランシスが王都へ戻る前日の朝だった。工房から届いた箱を開けた瞬間、クレアは小さく息を呑んだ。
白磁の側面に、青紫色のカンパネラが二輪咲いている。そのそばには、小さな蕾が一つ。持ち手へ続くように、細い蔓が柔らかな曲線を描いていた。
焼く前よりも、色は少し淡くなっている。けれど、それがかえってフランシスの瞳に似て見えた。
「綺麗に仕上がりましたね」
侍女が嬉しそうに言う。
「ええ」
クレアはティーカップを両手で持ち上げた。自分の紙の上にしかなかった図案が、本物の器になっている。そのことが信じられないほど嬉しかった。
「フランシスは、喜んでくれるかしら」
「きっと喜んでくださいますよ」
「でも、少し地味ではない?」
「お嬢様」
「何?」
「昨日まで、花を増やしすぎると賑やかになるとおっしゃっていたではありませんか」
「そうだけれど」
「もう十分です」
侍女に言い切られ、クレアは苦笑した。
「分かったわ」
カップを箱へ戻し、青い布で包む。細い銀色の紐を結び、贈り物の形に整えた。
「フランシスは、今どこにいるの?」
「午前中は、旦那様と最後の打ち合わせをなさっているそうです」
「では、午後に渡すわ」
そう答えたものの、昼食の席で顔を合わせると、急に緊張してしまった。
フランシスは明日帰る。
それを考えるだけで寂しいのに、贈り物を渡せば、別れが近いことをもっと実感してしまいそうだった。
「クレア」
食事の途中で名前を呼ばれ、クレアは顔を上げた。
「何?」
「さっきから、私の顔ばかり見ているけれど」
「見ていないわ」
「見ていたよ」
「気のせいでは?」
「今日は何度も目が合っている」
青紫色の瞳に見つめ返され、クレアは慌てて自分の皿へ視線を落とした。
「明日帰ってしまうから、少し気になっただけよ」
口にしてから、あまりにも素直に言いすぎたと気づく。フランシスの表情が柔らかくなった。
「私が帰るのは、寂しい?」
また答えにくいことを聞く。けれど、以前のようにごまかしたくはなかった。
「ええ」
クレアは小さく頷いた。
「寂しいわ」
フランシスは一瞬、言葉を失った。それから、どこか困ったように笑う。
「本当に、君は時々ずるいね」
「フランシスにだけは言われたくないわ」
「私は、これでも加減しているつもりだよ」
「そうなの?」
「君が思っている以上に」
意味ありげな言葉だった。尋ね返したかったが、食卓には家族もバーナードもいる。クレアは黙って食事を続けた。
ただ、向かい側に座るバーナードの手が一瞬止まったことには、気づかなかった。
午後。
クレアは贈り物を抱え、庭園の東屋へ向かった。フランシスは、すでにそこで待っていた。
最初に二人きりで話した場所。クレアが寂しそうな花の絵を見せ、名前で呼び合うようになった場所だ。
「呼び出してごめんなさい」
「君に呼ばれるなら、どこへでも行くよ」
「また、そういうことを言う」
「本当のことだけれど」
フランシスは、クレアが抱えている箱へ視線を向けた。
「それは?」
「フランシスに渡したいものがあるの」
「私に?」
「ええ」
クレアは向かい側の席へ座り、箱を差し出した。
「この夏、色々教えてくれたお礼よ」
「開けてもいい?」
「もちろん」
フランシスは銀色の紐を丁寧に解き、青い布を開いた。白磁のティーカップが姿を見せる。彼の青紫色の瞳が、わずかに見開かれた。
「これは……」
「私が図案を考えて、工房で絵付けをしたの」
「君が?」
「マルセルに随分助けてもらったけれど」
フランシスは箱からカップを取り出し、両手で持ち上げた。しばらく何も言わない。
クレアは急に不安になった。
「気に入らなかった?」
「まさか」
フランシスはすぐに顔を上げた。
「驚いているんだ」
「変なところがあった?」
「違うよ」
彼はもう一度、カップへ目を落とす。指先で触れることはせず、ただ大切なものを見るように花を見つめている。
「この花は、カンパネラだね」
「ええ」
「どうして、この花を?」
尋ねられ、クレアは少しだけ迷った。
別の理由を言うこともできた。
庭園に咲いていたから。形がカップに合うと思ったから。夏の思い出になると思ったから。
どれも嘘ではない。
けれど、いちばんの理由は違う。
「フランシスの瞳と同じ色だと思ったから」
素直に答えると、フランシスの動きが止まった。いつもなら、すぐに何か返してくる。けれど今は、目を見開いたままクレアを見つめている。
「……フランシス?」
「君は……」
彼は一度、言葉を切った。
「私の瞳は、君にはこんな色に見えていたんだね」
「変だった?」
「いや」
ようやく返ってきた声は、少し掠れていた。
「今まで受け取った、どんな贈り物より嬉しいよ」
「それはまた、大げさではない?」
「大げさではない」
フランシスは、きっぱりと答えた。
「侯爵家の方なら、もっと高価なものをたくさんもらっているでしょう?」
「高価かどうかは関係ないよ」
青紫色の瞳が、まっすぐクレアへ向けられる。
「君が私を思いながら描いてくれた。それだけで、ほかの何より特別だ」
胸の奥が熱くなる。クレアは、彼の視線から逃れられなかった。
「それに」
フランシスはティーカップの蕾を見つめる。
「どうして、蕾を一つ入れたの?」
「花が二輪だけでは、少し寂しいと思ったの」
「それだけ?」
「最初は、そう思って描いたわ」
クレアは蕾へ視線を落とした。
「でも、描いているうちに、これから咲く花みたいだと思ったの」
「これから咲く?」
「ええ。まだ形になっていないもの」
王都で学びたいという夢。
自分の図案を本物の品物へ変えること。
そして、フランシスへ向けて芽生え始めた気持ち。
どれも、まだ花開く前だった。
「これからのことを、思いながら描いたのかもしれないわ」
クレアが言うと、フランシスの目が柔らかく細められた。
「それなら、ますます大切にしなくては」
「使ってくれる?」
「もちろん」
「飾るだけではなく?」
「きちんと使うよ」
フランシスは微笑んだ。
「ただし、私以外には使わせない」
「誰かが使いたいと言うかしら」
「私の姉や妹なら、面白がって手に取るかもしれない」
「では、きちんと隠しておかなくてはね」
「隠しはしないよ」
「どうして?」
「自慢したいから」
クレアは思わず笑った。
「私が作ったと話すの?」
「当然でしょう?」
「失敗したところもあるのよ」
「どこ?」
「花びらの線が少し太くなっているところや、蔓が思っていたより曲がっているところ」
クレアが指差そうとすると、フランシスはカップを少し遠ざけた。
「教えなくていい」
「でも」
「私には、どれも失敗には見えないから」
その言葉に、胸が温かくなった。
「ありがとう」
「礼を言うのは、私の方だよ。クレア、本当にありがとう」
フランシスは大切そうにカップを箱へ戻す。
「王都へ戻ったら、毎日使う」
「ふふ、割らないようにね」
「君からもらったものを、簡単に割ると思う?」
「うっかり落とすかもしれないわ」
「それなら、両手で持つよ」
「飲みにくそう」
「では、使う時は座って、机の上から動かさない」
「そこまでしなくても」
「君が割るなと言ったんでしょう?」
二人は顔を見合わせて笑った。けれど、笑いが落ち着くと、フランシスは少しだけ寂しそうにカップの箱を見つめた。
「明日、王都に帰る」
「ええ」
「あっという間だったな」
「三週間もいたのに?」
「君と過ごすには短すぎた」
クレアの胸が、きゅっと締めつけられる。
「王都へ行けば、また会えるわ」
「ああ」
「工房も探してくれているのでしょう?」
「いくつか候補が見つかった。伯爵にも、昨日手紙を見せたよ」
「本当に?」
「女性を受け入れている工房が二つある。学校へ通いながら、工房を見学する方法もあるそうだ」
フランシスは詳しく説明してくれた。工房の場所。扱っている品。教えている技法。王都へ行ったあと、どこから見学すればよいか。
彼は、本当にクレアの未来を考えている。自分が帰ったあとも、クレアの夢が続くように準備してくれている。
「フランシス」
「何?」
「私、王都へ行きたいわ」
「うん」
「前より、もっと強くそう思っているの」
今日、初めて図案をカップへ描いた。思うようにいかないことばかりだった。けれど、難しいからこそ知りたくなった。
「もっと学びたい。紙の上だけではなくて、いろいろなものへ自分の図案を使ってみたい」
「君ならできるよ」
「また、すぐそう言う」
「本心だよ」
「失敗するかもしれないわ」
「失敗は、するだろうね」
迷いなく言われ、クレアは目を丸くした。
「そこは、否定してくれないの?」
「私だって、何度も失敗しているから」
「フランシスが?」
「君は私を何だと思っているの?」
「何でも上手くできる人」
「魚釣りでは木を釣ったのに?」
「確かに。あれは忘れられないわ」
「なら、分かるよね?」
フランシスは笑う。
「誰でも失敗はする。失敗しても、そこからやり直せばいい」
その言葉に、クレアも笑った。
「そうね」
「それに」
フランシスは少し身を乗り出した。
「王都では、私がいる」
胸が大きく鳴った。
「失敗するところまで見られるの?」
「全部見たいな」
「恥ずかしいわ」
「成功したところだけを見せてもらっても、面白くないでしょう?」
「フランシスは、少し意地悪ね」
「知っているよ」
彼は楽しそうに笑った。クレアは、その顔を見つめる。
明日になれば、もう同じ屋敷にはいない。朝食の席でも、庭園でも、気軽に顔を合わせられない。そう思うと、急に寂しさが込み上げてくる。
「クレア。また、そんな顔をしている」
フランシスが静かに言った。
「どんな顔?」
「寂しそうな顔」
「明日、フランシスが帰ってしまうもの」
クレアは、今度もごまかさなかった。
「寂しいわ」
フランシスはしばらく何も言わなかった。青紫色の瞳が、これまでにないほど真剣にクレアを見つめている。何かを言おうとしているように見えた。
けれど彼は、わずかに息を吐くと立ち上がった。
「今日は、これ以上ここにいると、明日まで待てなくなりそうだ」
「何を?」
「それは、明日話すよ」
「何よ、気になるじゃない」
「明日になれば分かるよ」
フランシスは箱を胸元へ抱えた。
「明日、時間をもらえる?」
「ええ」
「最初に会った時と同じ、この東屋で」
「分かったわ」
何を話されるのか。分からないわけではなかった。けれど、はっきりと考えるのが怖くて、クレアは頷くだけにした。
「ありがとう、クレア」
フランシスはもう一度、箱を見つめる。
「本当に嬉しいよ」
「大切にしてね」
「ああ。約束する」
彼は柔らかく笑い、東屋を出ていった。その姿が見えなくなるまで、クレアは立ったまま見送った。
◇
同じ頃。
バーナードは客室で、王都へ戻る荷物を整理していた。
夏季休暇は、もう終わる。フランシスが帰る翌日には、シルヴェスターとバーナードも王都へ戻る予定だった。
衣類を鞄へ詰め、机の上に置かれた細かなものを片づける。引き出しの奥へ手を入れた時、指先が薄い紙へ触れた。
取り出してみると、何度も折り畳まれた小さな絵だった。
三人で魚釣りをした日の絵。
真ん中に、三つ編みのクレア。左右には、シルヴェスターとバーナード。三人とも顔は丸く、バーナードだけが熊のように大きく描かれている。
『バーニーにあげる』
『俺だけ熊みたいだな』
『バーニーは大きくて強いから』
『これは人間なのか?』
『人間よ。失礼ね』
あの時も、クレアは頬を膨らませた。
それから何度も引っ越しや異動があったが、この絵だけは捨てなかった。王都の宿舎でも、引き出しの奥へ入れていた。
クレアからもらったものだから。
その理由を、深く考えたことはなかった。
「まだ持っていたのか」
後ろから声がして、バーナードは振り返った。扉の前に、シルヴェスターが立っている。
「勝手に入るな」
「何度か声をかけた」
「聞こえなかった」
シルヴェスターは部屋へ入り、バーナードの手元を見た。
「その絵、懐かしいな」
「ああ」
「俺も、同じような絵をもらった」
「知っている」
バーナードは紙を折り直そうとした。けれど、シルヴェスターは静かに尋ねる。
「バーナード。クレアが好きなのか?」
手が止まった。
祭りの夜から、何度も自分へ問い続けた言葉だった。ロザリンドにも、容赦なく突きつけられた。
もう、答えは分かっている。
「……ああ」
初めて、はっきりと口にした。
シルヴェスターの表情は変わらなかった。驚いているのか、怒っているのかも分からない。
「いつからだ?」
「分からない」
「分からない?」
「気づいたのは最近だ。だが、気持ちが生まれたのが最近なのかは分からない」
バーナードは幼い絵を見下ろした。
クレアは、ずっと大切だった。
誰よりも守りたかった。帰郷するたび、クレアの笑顔を見ると安心した。縁談の話が出れば、なぜか気に入らなかった。
けれど、それらすべてを、妹のような存在だからだと決めつけてきた。
「クレアが成長していることにも、気づいていた」
バーナードは低い声で続ける。
「以前より綺麗になったことも、笑いかけられると胸が揺れることも」
「それでも、考えないようにしていた?」
「ああ」
「なぜだ」
「お前の妹だからだ。年も離れている。幼い頃から面倒を見てきた」
シルヴェスターは、しばらく黙っていた。
「それだけか?」
すぐに聞き返され、バーナードは答えられなかった。
「妹のようにしか思えないなら、そう言えばよかった」
シルヴェスターの声は静かだった。
「今後も気持ちは変わらないと、はっきり伝えることもできたはずだ」
「……ああ」
「だが、お前はしなかった」
言い返す言葉はなかった。
子どもの思い込みだ。兄のように慕っているだけだ。いつか別の男を好きになる。
そう決めつけて、クレアの言葉を真正面から受け取らなかった。
「俺は、あいつがいつまでも俺を好きでいると思っていた」
バーナードは、ゆっくりと言った。
「それで、今さら気づいたのか」
「ああ」
「遅すぎるな」
「分かっている」
シルヴェスターは、親友をまっすぐ見た。
「本当に分かっているなら、今すぐクレアへ好きだと告げて、答えを求めたりはしないな?」
バーナードは黙った。
その考えが、一度も浮かばなかったわけではない。
今なら、まだ間に合うかもしれない。長い間好きだった自分が、ようやく振り向いたのだから、クレアも喜ぶかもしれない。
そんな期待が、胸のどこかに残っていた。
だが、祭りでフランシスと踊るクレアは、心から楽しそうだった。
「お前を信頼していたから、クレアを任せていた」
シルヴェスターが言う。
「幼い頃から、お前なら妹を守ってくれると思っていた」
「……ああ」
「それと、妹の気持ちに甘えることは別だぞ」
バーナードは唇を引き結んだ。
「クレアは、お前に何度も選ぶ機会を与えた」
「分かっている」
「だが、お前は選ばなかった」
「分かっている」
今度は、声を荒らげなかった。その言葉を受け入れることから逃げてはいけないと思った。
「なら、クレアがお前を待たずに進むことも受け入れろ」
バーナードは何も言えなかった。
手の中には、幼いクレアが描いた絵がある。この頃のクレアは、いつでも自分のあとを追いかけてきた。
けれど今は、もう違う。
「フランシス殿を選ぶと思うか」
バーナードが尋ねると、シルヴェスターは少しだけ目を細めた。
「それを俺に聞くのか?」
「兄として、何か聞いていないのか」
「クレアは、誰かを追いかけるためではなく、自分のために王都へ行くと言った」
「それは知っている」
「ただ……」
シルヴェスターは一度、言葉を切った。
「フランシス殿といる時のクレアは、楽しそうだ」
祭りの夜の笑顔を思い出す。恥ずかしそうに頬を染め、それでもフランシスの手を離さなかった。
自分には向けられなくなった、柔らかな表情。
「そうだな」
「それを壊したいのか?」
「壊したくはない」
「なら、どうするつもりだ」
バーナードは手の中の絵を、ゆっくりと折り畳んだ。
「謝る」
「それだけか?」
「自分の気持ちも伝える」
シルヴェスターの眉がわずかに動く。
「今さらだと分かっている」
「なら、なぜ言う」
「何も言わずに王都へ戻れば、また逃げることになる」
今までずっと、クレアの気持ちから目を逸らしてきた。自分の感情にも向き合わなかった。
ここで黙って見送れば、最後まで何も引き受けないままになる。
「選んでほしいとは言わない」
バーナードは静かに続けた。
「答えも求めない」
「クレアを迷わせるかもしれないぞ」
「ああ」
「それでも?」
「それでも、謝りたい」
バーナードは、折り畳んだ絵を見つめた。
「俺がどう思っていたのかも、今度こそ曖昧にせず伝える」
「自分が楽になるためではなく?」
「ああ」
バーナードは、はっきりと頷いた。
「俺の気持ちを受け入れてほしいからではない。今まで答えを出さなかったことに、俺自身が責任を持つためだ」
シルヴェスターは、しばらく何も言わなかった。
「クレアが、別の人を選んでも?」
「受け入れる」
「その覚悟はあるのか?」
「苦しいとは思う」
バーナードは正直に答えた。
「だが、それを理由に引き止めるつもりはない」
「そうか」
シルヴェスターは小さく息を吐いた。バーナードは引き出しを開け、幼い絵を丁寧にしまう。
「ただ、あいつが王都へ行く前に、一度だけきちんと話したい」
シルヴェスターは、黙って親友を見つめた。やがて、低い声で言う。
「止めはしない」
「そうか」
「だが、覚えておけ」
その声は、静かで重かった。
「お前が今になって気づいたからといって、クレアの時間まで巻き戻るわけではない」
「ああ」
「昔のように好きだと言ってもらえると思うな」
「分かっている」
「クレアが別の人を選んでも、それはお前から奪われたのではない」
バーナードは目を伏せた。
「お前が、選ばなかった結果だ」
胸へ深く刺さる言葉だった。それでも、目を逸らすわけにはいかなかった。
「分かっている」
今度は、静かに答えた。
◇
夕暮れ。
クレアは自室で、王都へ持っていく図案を整理していた。花。水草。魚の鱗。波紋。フランシスへ贈ったカンパネラの図案も、控えとして一枚残してある。
それを手に取ると、カップを見た時のフランシスの顔が浮かんだ。いつもの余裕をなくし、本当に嬉しそうに笑っていた。
『今まで受け取った、どんな贈り物より嬉しいよ』
思い出すだけで、胸が温かくなる。けれど同時に、明日には彼が帰るのだという寂しさも込み上げてきた。
王都へ行けば会える。手紙も書ける。分かっているのに、今までのように毎日会えなくなることが苦しかった。
窓の外では、夏の終わりを告げる虫が鳴いている。
「明日、何を話すのかしら」
東屋で待っていてほしいと言われた。フランシスの表情を思い出せば、答えは分かる気がする。それでも、胸の高鳴りを抑えられなかった。
クレアはカンパネラの図案を、ほかの紙とは別にして机へ置く。
夏の終わりが近づいていた。
それは同時に、フランシスと過ごせる時間の終わりが近づいているということだった。
けれど、クレアはもう知っている。
終わるものがあれば、その先に始まるものもある。
二輪の花のそばへ描いた、小さな蕾のように。
まだ形になっていない未来が、静かに花開く時を待っていた。




