第十二話 君を、この夏の思い出だけにはしない
翌朝。
クレアが食堂へ入ると、いつもフランシスが座っている席は空いていた。思わず足を止める。
「フランシス様でしたら、早くから旦那様とお話しされていますよ」
侍女に声をかけられ、クレアは小さく頷いた。
「そうなのね」
帰る日の朝くらい、いつものように顔を見られると思っていた。それだけのことなのに、寂しさが広がる。
クレアは席に着き、スープへ匙を入れた。けれど、なかなか口へ運ぶ気になれない。
「食欲がないの?」
隣に座る母ルーシーが、静かに尋ねた。
「少しだけ」
「何か、気がかりなのね」
「……分かる?」
「ええ。ずっとあなたを見てきたもの」
ルーシーは微笑む。
昨夜、フランシスから東屋へ来てほしいと言われた。何を話されるのか。考えないようにしても、答えは胸の奥に浮かんでいる。
「お母様」
「なあに?」
「王都へ行くことは、もう決めているの」
「ええ」
「でも、それとフランシスのことは、別に考えた方がいいのよね」
ルーシーはすぐには答えなかった。クレアの顔を見つめ、それから穏やかに口を開く。
「別に考えた方がいいというより、どちらも自分で選ぶことが大切なのではないかしら」
「自分で選ぶ?」
「王都へ行くのは、あなたが学びたいから」
「ええ」
「フランシス様のそばにいたいと思うのなら、それはあなたがあの方を好きだから」
クレアは目を伏せた。
フランシスと一緒に王都へ行きたい。その気持ちは、確かにある。
けれど、それだけではない。
陶工房で絵付けをした時、もっと学びたいと強く思った。布や食器、家具へ自分の図案を使ってみたい。王都の工房を見て、新しい技法を知りたい。
それはフランシスがいなくても、もう消えない願いだった。
「大丈夫よ」
ルーシーが、クレアの手へそっと触れる。
「あなたはもう、誰かに連れていってもらうためだけに王都へ行くのではないもの」
クレアは母を見た。
「そう見える?」
「ええ」
その答えに、少し安心する。
「でも、恋の答えを出すのは怖いわ」
「なぜ?」
「間違えたくないから」
「恋に、絶対に間違わない方法なんてないわ」
ルーシーは困ったように笑った。
「それでも、自分の気持ちを誤魔化さずに選んだのなら、たとえいつか形が変わっても、その時のあなたにとっては本当だったはずよ」
「お母様は、強いのね」
「いいえ。たくさん迷ってきたから、そう思うだけ」
クレアは母の言葉を胸の中で繰り返した。
自分の気持ちを誤魔化さずに選ぶ。
今の自分は、誰を見ているのか。誰の隣にいたいと思っているのか。
答えは、以前よりもずっと近くにあった。
朝食のあと、父アルバートから書斎へ呼ばれた。
部屋へ入ると、机の上には何通もの手紙と、王都の地図が広げられていた。フランシスもそこにいる。
姿を見た瞬間、クレアの胸が大きく鳴った。
「おはよう、クレア」
「おはよう、フランシス」
いつもどおりの挨拶なのに、今日は少しだけぎこちない。フランシスも同じように見えた。
「座りなさい」
父に促され、クレアは机の前へ座る。
「王都で学ぶ件だが、ひとまず受け入れてくれそうな工房が見つかった」
「本当ですか?」
「ああ」
アルバートは一通の手紙を取り上げた。
「ローゼンバーグ侯爵家から紹介を受けた工房だ。主に食器や家具、織物の意匠を扱っている」
クレアは身を乗り出す。
「女性でも学べるのですか?」
「見習いとして正式に入るには審査があるが、まずは学校で基礎を学びながら、工房へ通うことができるそうだ」
「学校にも通うの?」
「週に何度か、図案や色彩について学ぶ授業があるらしい」
フランシスが地図の一角を指差した。
「ここだよ。学校と工房は、どちらも歩いて行ける距離にある」
「お兄様の宿舎からも近いの?」
「馬車なら、それほど時間はかからないよ」
シルヴェスターも王都にいる。住む場所については、侯爵家と父が相談してくれていた。最初のうちは、ラングレー家と親交のある夫人の屋敷へ滞在する予定になっている。
「本当に、行ってもよいのですか?」
クレアは父へ尋ねた。アルバートは、娘の顔を真剣に見つめる。
「遊びではないと、分かっているな」
「はい」
「王都へ行けば、思いどおりにならないことも多い。お前より技術のある者ばかりだろう」
「分かっています」
「注意されることも、描き直しを命じられることもある。自分の好きな図柄を描くだけではない」
「それでも、学びたいです」
迷いなく答える。
父はしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「なら、行きなさい」
クレアは息を呑んだ。
「お父様」
「ただし、無理はするな。困った時は、必ず家族を頼ること」
「はい」
「帰りたくなったなら、いつでも帰ってきていい」
「……はい」
父の優しさに嬉しさが込み上げ、声が震えた。
「ありがとうございます」
アルバートは少しだけ目元を和らげる。
「礼を言うのは、学んでからでいい」
「必ず、たくさん学んできます」
「ああ」
書斎を出ると、廊下でフランシスと二人になった。クレアは嬉しさを抑えきれず、彼を振り返る。
「ねえ、私、王都に行けるわ」
「うん」
「夢ではないのよね?」
「夢ではないよ。確かめたいなら、私の頬をつねってみる?」
「ふふ、何それ」
フランシスは、自分のことのように嬉しそうに笑い、クレアを見つめた。
「クレア、よかったね」
「フランシスがいろいろ調べてくれたのでしょう?」
「少しだけね」
「少しではないわ」
「私がそうしたかったから、いいんだ」
その言葉に、クレアの頬が緩む。
「ありがとう、フランシス」
「どういたしまして」
フランシスは一度、廊下の窓へ視線を向けた。庭園の向こうに、東屋が見える。
「ところで、午後の約束を覚えている?」
「ええ。覚えているわ」
「それなら、またあとで」
それだけ言って、彼は自室へ戻っていった。
昼を過ぎた頃。
クレアは一人で庭園の東屋へ向かった。空はよく晴れていたが、真夏の頃より風が少しだけ涼しい。花壇に咲く夏の花も、盛りを越え始めている。
東屋へ近づくと、フランシスが立っているのが見えた。昨日贈ったカンパネラのカップは、当然ながら持っていない。それでもクレアは、なぜか彼の瞳に花の色を重ねてしまった。
「フランシス。待たせた?」
「いいや。私が早く来ただけだよ」
「いつから?」
「少し前から」
「少し前から待っていた顔ではないわ」
「ばれた?」
フランシスは笑った。けれど、その笑顔にはいつもの余裕があまりない。
二人は東屋の椅子へ座る。
最初にここで話した時、クレアはフランシスへスケッチを見せた。あの時は、こんな日が来るとは思っていなかった。
「王都行きが決まってよかったね」
「ええ」
「不安はある?」
「あるけれど、それよりも楽しみの方が大きいわ」
「君らしい」
「そうかしら」
「ああ。魚釣りでも、絵付けでも、うまくいかない時も君は楽しんでいたから」
「見ていたのね」
「ああ。君のことは、ずっと見ていたよ」
声が少し低くなり、クレアの鼓動が跳ねた。
フランシスは一度、息を整える。
「クレア」
「なあに?」
「私は今日、王都へ戻る」
「ええ」
「君も、少し遅れて王都へ来る」
「準備があるから、ひと月ほどあとになると思うわ」
「ひと月か」
「長い?」
「とてもね」
即答され、クレアは頬を赤くした。
「手紙を書くわ」
「私も書く」
「工房のことも教えてね」
「もちろん」
そこで会話が途切れた。庭園を渡る風が、木々の葉を揺らす。
フランシスは何かを決意したように、クレアへ向き直った。
「クレア。君を、この夏の思い出だけにしたくない」
クレアは息を止めた。青紫色の瞳が、まっすぐ自分を見つめている。
「最初は、父の友人の領地で、少しでも学べればいいと思っていた」
フランシスは静かに続ける。
「王都とは違う暮らしを知ることができれば、それで十分だと思っていたんだ」
「ええ」
「でも、ここへ来て君と出会った」
クレアの指先が、わずかに震えた。
「君は、私の知らないことをたくさん教えてくれた」
魚釣り。森の草花。水辺の生き物。領民たちの暮らし。
フランシスが何度失敗しても、クレアは笑いながら一緒に楽しんだ。
「君といると、王都では気づけなかったものが見えた」
「フランシス……」
「それだけではない」
彼は少しだけ身を乗り出した。
「君が笑うと嬉しい。君が誰かに傷つけられると腹が立つ。君が自分の未来を話す時は、誰より近くで聞いていたい」
一つずつ、隠さずに告げられる。クレアは目を逸らせなかった。
「私は、君が好きだ」
はっきりとした言葉だった。
胸の奥へ、まっすぐ届く。
これまで何度も、自分からバーナードへ好きだと伝えてきた。けれど、誰かにこれほど真剣に想いを告げられたのは初めてだった。
「王都へ行っても、私の隣を歩いてくれないか?」
フランシスは静かに尋ねる。クレアの心が大きく揺れた。
けれど彼は、すぐに続けた。
「君が王都へ来るのは、君自身の夢のためだ」
「ええ」
「私がいるからではなく、君が学びたいから来る。それは分かっている」
フランシスの声が、少しだけ柔らかくなる。
「そのうえで、これからの君の隣に、私がいたい」
クレアは膝の上で手を握った。
「クレア。私のことを、ずるいと思う?」
「どうして?」
「君がバーナードを諦めようとしている時に、好きだと言っている」
クレアは首を振った。
「フランシスは、一度も私を急かさなかったわ」
「急かしたくなかった」
「どうして?」
「君が長い間、彼を好きだったことを知っているから」
フランシスは少しだけ視線を落とした。
「私が好きだからといって、その時間まで消してほしいとは思わない」
母の言葉が蘇る。
『好きだった時間まで、捨てなくていいのよ』
フランシスもまた、クレアの過去を否定しなかった。
「君が誰を好きだったかは知っている」
彼は再びクレアを見る。
「忘れなくてもいい」
「フランシス」
「私を選ぶなら、誰かを忘れるためではなく、私を好きになったから選んでほしい」
以前にも聞いた言葉。けれど今は、正式な告白のあとで、さらに重く響いた。
フランシスは、クレアが傷ついている隙に手を伸ばしているのではない。今のクレアを見て、選んでいる。
だからこそ、クレアにも自分の意思で選んでほしいと願っている。
「王都へは行くわ」
クレアは、はっきりと答えた。
「自分の絵を学びたいから」
フランシスの目が柔らかく細められる。
「うん」
「もっとたくさんの技法を知りたい。自分の図案を、いろいろなものへ使ってみたい」
「うん」
「失敗しても、やってみたい」
「君なら、そう言うと思っていた」
フランシスは嬉しそうに笑った。その笑顔を見ていると、クレアも嬉しくなる。
けれど、恋への返事だけは簡単には口にできなかった。
「私も、あなたと一緒にいたい。そう思っているのは本当よ」
正直に伝えると、フランシスの表情がわずかに変わった。
「王都へ行っても、会いたい」
「クレア」
「手紙も欲しいし、工房であったことを話したい。今日のように、絵を見てほしい」
「それは、期待してもいい?」
「ええ」
クレアは小さく頷いた。
「私も、あなたを好きになっているのだと思う」
フランシスが息を止める。
「でも」
クレアは一度、息を整えた。
「このまま答えたら、バーナード様から離れるために、あなたの手を取ったような気がしてしまうの」
フランシスは黙って聞いている。
「私は、そうしたくない」
「うん」
「あなたを選ぶなら、初恋から逃げるためではなく、あなたと一緒にいたいから選びたい」
自分で口にすると、胸の奥にある気持ちが少しずつ形になっていく。
「だから、もう少しだけ考えさせて」
「分かった」
フランシスは静かに頷いた。
「君が自分で選んだ答えなら、きちんと受け止めるよ」
「怒ってない?」
「まさか」
「残念?」
「それは少し」
正直な答えに、クレアは思わず目を瞬いた。
「少しなの?」
「いや。本当は、かなり」
フランシスは苦笑する。
「でも、君らしい答えだと思っている」
「私らしい?」
「自分の気持ちを曖昧にしたまま、誰かを選ぼうとしないところが」
彼は、ゆっくりと手を差し出した。
「待つよ」
クレアはその手を見つめる。
「ただし、諦めるつもりはない」
「強気なのね」
「君を好きだと気づいてしまったからね。諦める理由なんてないよ」
「私が、違う答えを出すかもしれないわ」
「それでも、答えを聞くまでは諦めない」
フランシスらしい言葉だった。
押しつけはしない。けれど、自分の気持ちを引っ込めるつもりもない。
クレアは、差し出された手へ自分の手を重ねた。
「王都で会いましょう」
「うん」
「今度は、私が案内してもらう番ね」
「お安い御用だよ」
「魚釣りよりは上手?」
「それは保証するよ」
二人で笑う。けれど、手は離れなかった。フランシスの指が、クレアの手を大切そうに包んでいる。
「クレア」
「なあに?」
「王都で待っている」
「ええ」
「君の夢も」
一度言葉を切り、彼は少し笑った。
「君の答えも」
クレアは熱くなった頬を隠すように、少しだけ俯いた。
「分かったわ」
◇
出発の時刻が近づくと、屋敷の玄関前にはフランシスを乗せる馬車が用意された。
使用人たちが荷物を積み、父アルバートと母ルーシーも見送りに出ている。シルヴェスターとバーナードは翌日に王都へ戻る予定のため、この日は屋敷に残っていた。
フランシスは家族へ一人ずつ挨拶をする。
「このたびは、長い間お世話になりました」
「またいつでも来なさい」
アルバートが答える。
「次は、魚釣りの腕を上げてから参ります」
「それは楽しみだ」
ルーシーにも丁寧に礼を述べ、最後にフランシスはクレアの前へ立った。
皆が見ている。それでも、二人の間には先ほどまでとは違う空気があった。
「では、また王都で」
「ええ」
「手紙を書く」
「私も書くわ」
「毎日でも?」
「毎日は無理よ」
「残念だな」
「できるだけ書くようにするわ」
「楽しみにしている」
「ええ、楽しみに待っていて」
フランシスは、少しだけ安心したように笑った。
その時、彼の視線がクレアの後ろへ向く。バーナードが立っていた。
二人の目が合う。
以前なら、互いに牽制するような空気が流れただろう。けれど、フランシスは何も言わなかった。ただクレアへ視線を戻す。
「クレア。行ってくる」
その言い方が、別れではなく、戻ってくる人のものに聞こえた。
「いってらっしゃい」
クレアも自然に答える。
フランシスは馬車へ乗り込んだ。扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き出す。クレアは見えなくなるまで、その姿を見送った。
寂しくないわけではない。
けれど、以前のように、ただ待つだけではなかった。
自分も王都へ行く。学びたいものがあり、会いたい人がいる。同じ場所へ向かって、自分の足で進んでいける。
「クレア」
後ろから声をかけられ、振り返る。
バーナードが立っていた。その表情は、いつもよりずっと真剣だった。
「明日、少し話せないか」
クレアは一瞬だけ黙った。
何を言われるのか、分からないわけではなかった。
「分かりました」
静かに答える。
「場所はどうしますか?」
「昔よく遊んだ樫の木の下で」
「はい」
バーナードはそれ以上何も言わず、屋敷へ戻っていった。
クレアは遠ざかる背中を見つめる。
幼い頃から、何度も追いかけてきた背中。
けれど明日は、追いかけるために会うのではない。
自分の初恋へ、きちんと別れを告げるために会う。
胸の中は痛んだ。それでも、逃げたくはなかった。
フランシスへの答えを、自分の心で選ぶためにも。
クレアは、もう一度だけ馬車が消えた道へ目を向けた。
王都へ行くことは、もう決めている。
けれど、その隣を誰と歩くかは、自分の心で選びたい。
その答えは、もうすぐ見つかる気がしていた。




