第十三話 さようなら、私の初恋。
翌朝。
クレアは、いつもより少し早く目を覚ました。
窓の外は、まだ淡い朝の色に包まれている。鳥の声も少なく、屋敷の中は静かだった。
今日は、バーナードと話す約束をしている。
昔、三人でよく遊んだ樫の木の下で。
幼い頃から、何度もその木へ登った。枝から足を滑らせそうになれば、バーナードが助けてくれた。降りられなくなって泣いた時も、彼は呆れながら手を伸ばしてくれた。
『まったく、君は本当に危なっかしいな』
『だって、バーニーが助けてくれるもの』
あの頃の自分は、何の疑いもなくそう言えた。
バーナードは必ず助けてくれる。いつでも自分を見ていてくれる。そして、いつか自分を好きになってくれる。
そう信じていた。
クレアは寝台から起き上がり、窓を開けた。涼しい風が部屋へ入り、蜂蜜色の髪を揺らす。
机の上には、王都へ持っていく図案がまとめてある。その一番上にあるのは、青紫色のカンパネラの花。フランシスの瞳を思って描いたものだった。
昨日、彼から告白された。
『私は、君が好きだ』
その言葉を思い出すだけで、胸が熱くなる。
けれど同時に、バーナードと過ごした長い時間も浮かんだ。簡単に消えるものではない。消したいとも思わなかった。
好きだった時間まで、捨てなくていい。
母がそう言ってくれた。
だから今日は、過去を否定するためではなく、きちんと終わらせるために話す。
クレアは、ゆっくりと身支度を整えた。
◇
庭へ出ると、朝露に濡れた草が靴の先へ触れた。
樫の木は、屋敷の裏手にある。幼い頃は、ここまで来るだけでも冒険だった。けれど今は、ほんの短い道のりに感じる。
木の下には、すでにバーナードが立っていた。
灰青色の瞳が、クレアへ向けられる。
「おはようございます、バーナード様」
その呼び方を耳にした瞬間、彼の表情がわずかに揺れた。
「……おはよう」
以前なら、ここへ来るなり駆け出していた。遠くにバーナードの姿を見つければ、大きく手を振って声を張り上げた。
『バーニー!』
けれど今は、静かに彼の前へ立つ。
「待たせてしまいましたか?」
「いや。俺が早く来ただけだ」
どこかで聞いたような言葉だった。昨日、東屋でフランシスも同じことを言った。
けれど、胸に生まれる感情はまるで違う。
バーナードの前では、懐かしさと寂しさが入り交じる。
フランシスの前では、これから何が始まるのだろうという期待が膨らむ。
「話したいことがあると伺いました」
「ああ」
バーナードは、すぐには続けなかった。
いつもなら、言葉に迷うような人ではない。騎士として命令を出す時も、クレアを叱る時も、はっきりと話す。
けれど今日は、何から言えばよいのか分からないようだった。
「先に、謝りたい」
やがて、低い声で言った。
「君の気持ちに、きちんと向き合わなかった」
「……はい」
「君が何度好きだと言ってくれても、俺は子どもの思い込みだと決めつけた。本当は、君がいつまでも俺を見ていてくれることに甘えていた」
クレアは黙って彼を見つめた。
「何度はぐらかしても、また笑って追いかけてくれる。王都から帰れば、玄関まで迎えに来てくれる。ずっと変わらないと思っていた」
「私が離れていかないと?」
「ああ」
バーナードは逃げずに頷いた。
「自分から答えを出さないくせに、君がほかの男を選ぶことは耐えられなかった。身勝手だった」
「今になって、それに気づいたのですね」
「ああ」
樫の葉が、風に揺れた。
「遅すぎると分かっている。それでも、今度こそ答えを伝えたかった」
クレアは胸元で手を重ねた。
「バーナード様」
「ああ」
「今、私を好きなのですか?」
バーナードは、まっすぐクレアを見た。
「ああ。好きだ」
長い間、聞きたかった言葉だった。
夢にまで見た。
いつか言ってもらえたら、その瞬間が人生で一番幸せな日になると思っていた。
もし一年前に言われていたら。
あるいは、ついこの夏の初めに言われていたら。
クレアは泣いて喜んだかもしれない。何も考えず、彼の胸へ飛び込んだかもしれない。
けれど今は、嬉しいより先に、遅いと思ってしまった。
「ずっと大切だった」
バーナードは続ける。
「君が泣けば、誰より先に駆けつけたかった。危ない目に遭えば、守りたかった。君が俺の知らない場所へ行くことも、俺以外の男を好きになることも、耐えられなかった」
「私が離れようとしたから、気づいたのですか?」
「ああ」
バーナードは誤魔化さなかった。
「俺は、君がそばにいることを当たり前だと思っていた。失うかもしれないと知って、ようやく自分の気持ちから逃げられなくなった」
クレアは目を閉じた。
悲しかった。
けれど、どこかで納得もしていた。
自分が追いかけ続ける限り、この人は変わらなかった。待ち続けることが二人の関係を守っていたのではない。ただ、答えを先延ばしにしていただけだった。
「私に、何を望んでいるのですか?」
クレアが尋ねると、バーナードはしばらく答えなかった。
「……本当は、俺を選んでほしい」
胸が強く痛んだ。
「だが、それを求める資格がないことも分かっている」
バーナードは視線を落とす。
「君は何度も、俺に選ぶ機会をくれた。それを捨て続けたのは俺だ」
「はい」
「今さら好きだと言ったからといって、君が戻るとは思っていない」
「本当に?」
「期待していないと言えば、嘘になる」
彼は苦く笑った。
「だが、君に待っていてほしいとは言わない」
以前のバーナードなら、言えなかった言葉かもしれない。
遅かった。
それでもようやく、彼も自分の選択へ責任を持とうとしている。
「君が王都へ行っても、この気持ちをすぐに捨てることはできないと思う」
「……はい」
「だが、それを理由に君を引き止めるつもりはない」
クレアは、まっすぐ彼を見た。
「私は、もう待ちません」
風が樫の葉を揺らした。
昔なら、その言葉を口にするだけで泣いていたかもしれない。けれど今は、静かに言えた。
「あなたがいつか私を選ぶかもしれないと期待して、立ち止まることはしません」
「ああ」
「私は、王都へ行きます」
「ああ」
「自分の絵を学ぶために」
「ああ」
バーナードは、一つずつ受け止めるように頷いた。
「そして今度は、自分が好きになった人と、きちんと向き合いたいと思っています」
バーナードの表情が強張る。
「フランシス殿か」
クレアはすぐには答えなかった。
けれど、もう誤魔化したくなかった。
「はい」
静かに頷く。
「私は、フランシスを好きになりかけているのではなく……」
一度、息を整える。
「もう、好きなのだと思います」
口にした瞬間、胸の奥へ答えが落ちた。
祭りで、手を離したくなかった。
カンパネラを見て、彼の瞳を思い出した。
王都へ帰ると聞いて寂しかった。
離れていても会いたいと思った。
工房で起きたことを話したい。
新しい図案を見てほしい。
成功した時だけではなく、失敗した時にも、そばにいてほしい。
それはもう、恋だった。
「そうか」
バーナードは、しばらく目を伏せていた。
やがて、苦しそうに笑う。
「分かっていたつもりだった。だが、君の口から聞くと、思っていたより堪えるな」
「ごめんなさい」
「謝るな」
バーナードは、すぐに首を振った。
「君は何も悪くない」
「でも」
「俺が遅かっただけだ」
彼は一度そう言ってから、首を振った。
「いや。遅かったというだけではないな」
灰青色の瞳が、静かにクレアへ向けられる。
「俺が選ばなかった結果だ」
クレアの胸が、大きく揺れた。
「フランシス殿に奪われたわけではない。君が勝手に離れたわけでもない」
バーナードは、ゆっくり息を吐く。
「俺が、君の気持ちへ答えなかった。それだけだ」
クレアの目に涙が滲んだ。
それは、昔の自分がずっと聞きたかった言葉でもあった。
自分の想いが軽かったわけではない。
子どもだったからでもない。
魅力が足りなかったからでもない。
ただ、バーナードが選ばなかった。
その結果として、二人は同じ道を歩かなかった。
「バーナード様」
「ああ」
「ずっと、あなたが好きでした」
涙が一筋、頬を伝った。
「幼い頃から、ずっと。あなたが帰ってくる日が、一番楽しみでした。褒めてもらえるだけで嬉しかった。いつか振り向いてもらえると、本当に信じていました」
「……ああ」
「でも」
クレアは涙を拭う。
「もう、あの頃の私には戻れません」
バーナードは何も言わなかった。
「あなたを追いかけることしか知らなかった私には、戻りたくないのです」
今のクレアには、夢がある。
行きたい場所がある。
描きたいものがある。
そして、一緒に未来を見たいと思う人がいる。
「好きだった時間は、捨てません。あなたと過ごした思い出も、大切にします」
「ああ」
「でも、その思い出の中だけで生きていくことはしません」
バーナードは、ゆっくりと頷いた。
「分かった」
声が掠れていた。
彼は目を閉じ、しばらくしてから、もう一度クレアを見る。
「君を困らせることはしない」
「はい」
「フランシス殿への気持ちも、変わらないんだな」
「はい」
バーナードは苦く笑った。
「昔より、ずっとはっきり言うようになったな」
「バーナード様が、そうしなければ聞いてくださらない方だったからです」
思わず言うと、バーナードは一瞬目を見開いた。
それから、本当に少しだけ笑った。
「そのとおりだ」
クレアも、涙の残る顔で微笑んだ。
こんなふうに笑い合える日が来るとは思わなかった。
恋人にはなれない。
昔のようにも戻れない。
それでも、互いに本当のことを話せた。
それだけで、長い初恋がようやく終わる気がした。
「王都で困ったことがあれば、頼ってくれ」
「ありがとうございます」
「危険なことがあれば、すぐに知らせろ」
「また子ども扱いですか?」
「違う」
バーナードは少し困ったように眉を寄せる。
「好きな女を心配している」
あまりにまっすぐ言われ、クレアは目を瞬いた。
以前なら、顔を真っ赤にして喜んだだろう。
今も胸は少し痛む。
けれど、心が戻ることはなかった。
「自分でできることは、自分でします」
「ああ。それでいい」
会話が途切れる。
朝の光が少しずつ強くなり、樫の葉の隙間から地面へ落ちていた。もう、屋敷へ戻る時間だった。
「そろそろ戻ります」
「送る」
「一人で大丈夫です」
「クレア」
昔と同じように呼ばれ、クレアは足を止めた。
「最後に、一つだけ聞いてもいいか」
「何でしょう」
バーナードは、しばらく迷った末に口を開く。
「もう一度、バーニーと呼んでほしいと言ったら、困るか?」
胸が強く痛んだ。
その呼び名には、幼い頃のすべてが詰まっている。
嬉しい時も、泣いた時も、助けを求めた時も、何度も口にした。彼を見つけるたび、何の迷いもなく呼んだ名前。
けれど、ここで呼び戻してしまえば、二人ともまた過去へ縋ってしまう気がした。
「ごめんなさい」
クレアは静かに首を振った。
「今は、呼べません」
バーナードの目に、はっきりと痛みが浮かぶ。
それでも彼は、ゆっくり頷いた。
「そうか」
「でも」
クレアは樫の木を見上げた。
「バーニーと呼んでいた時間を、忘れるわけではありません」
バーナードも同じ木を見上げる。
「ああ」
「大切な思い出です」
「ああ」
「だから、今はバーナード様と呼ばせてください」
長い沈黙のあと、バーナードは答えた。
「分かった」
クレアは一礼する。
「それでは、先に戻ります」
「ああ」
今度こそ背を向ける。
以前なら、後ろから呼び止められることを期待した。追いかけてきてほしいと思った。
けれど今日は、まっすぐ屋敷へ向かって歩く。
呼び止められなくてもいい。
追いかけてもらわなくてもいい。
自分の足で進める。
少し歩いたところで、バーナードの声がした。
「クレア」
足は止めたが、振り返らなかった。
「王都で、頑張れ」
クレアは目を閉じた。
幼い頃から、ずっと追いかけてきた人の声だった。
けれどその言葉は、引き止めるためのものではない。
ようやく、自分を送り出してくれる言葉だった。
涙が一筋、頬を伝う。
「はい」
それだけ答え、クレアは今度こそ歩き出した。
◇
屋敷へ戻ると、庭園の入口に母ルーシーが立っていた。
そばでは侍女が花へ水をやっている。ルーシーはその様子を眺めていたが、クレアの姿を見つけると、すぐに穏やかな目を向けた。
「おかえりなさい」
「ただいま戻りました」
「話せた?」
「ええ」
それ以上、母は何も尋ねなかった。
クレアの方から、そっと近づく。
「お母様」
「なあに?」
「少しだけ、抱きしめてもらってもいい?」
「もちろんよ」
ルーシーは何も言わず、娘を抱きしめた。
その腕の中で、クレアはようやく声を殺して泣いた。
悲しいからだけではない。
寂しい。
苦しい。
けれど、どこかほっとしていた。
長い間、胸の中に残っていたものへ、ようやく名前をつけられた。
「終わったのね」
ルーシーが優しく言う。
「ええ」
「後悔している?」
「まったくないと言ったら、嘘になるわ」
「そう」
「もっと早く、好きだと言ってもらえていたらって、思ってしまうの」
「当然よ」
母は、否定しなかった。
「でも」
クレアは母の肩へ顔を寄せたまま、続ける。
「それでも、戻りたいとは思わなかった」
「ええ」
「私、フランシスが好きなの」
初めて、はっきりと口にした。
母の腕に、少しだけ力がこもる。
「そうなのね」
「彼と、手をつないでいたい」
「ええ」
「王都へ行っても会いたいし、私の絵を見てほしい」
「ええ」
「嬉しかったことも、うまくいかなかったことも、一番に話したいと思うの」
ルーシーは娘の髪を優しく撫でた。
「それなら、もう答えは決まっているのではない?」
「ええ」
クレアは涙を拭い、母を見た。
胸の中に、もう迷いはなかった。
「私、フランシスを選ぶわ」
初恋から逃げるためではない。
バーナードを忘れるためでもない。
今のクレア自身が、フランシスと一緒にいたいと願っている。
「きちんと伝えなくては」
「そうね」
「手紙に書いた方がいいかしら」
王都へ出発するまで、まだひと月ほどある。
それまで気持ちを隠したまま手紙を交わすことを思うと、少し落ち着かなかった。
ルーシーはしばらく考え、それから微笑んだ。
「急いで手紙に書かなくてもいいのではない?」
「でも……」
「大切なことなのでしょう?」
「ええ」
「それなら、王都で会った時に、きちんと顔を見て伝えなさい」
クレアは、胸元へ手を当てた。
好きだと気づいた。
あなたを選びたい。
これからも、あなたの隣を歩きたい。
どれも、文字にするより、自分の声で届けたい言葉だった。
「そうするわ」
クレアが答えると、ルーシーは穏やかに頷いた。
「ええ。きっと伝えられるわ」
「どうして、そう思うの?」
「今のあなたの顔を見れば分かります」
母の指が、クレアの目元に残る涙をそっと拭った。
「泣いてはいるけれど、もう迷ってはいないもの」
「……ええ」
クレアは小さく笑った。
涙はまだ止まっていない。
胸の奥には、初恋を終えた寂しさも残っている。
それでも、進みたい方向は、もうはっきりと見えていた。
その日の夜。
クレアは自室の机に向かっていた。
机の上には、白い紙と鉛筆が置かれている。
バーナードと話したこと。
母の腕の中で泣いたこと。
そして、初めてフランシスが好きだと口にしたこと。
一日の出来事を思い返しながら、クレアは鉛筆を手に取った。
真新しい紙へ、一本の線を引く。
描いたのは、カンパネラの花だった。
二輪の花と、一つの蕾。
フランシスへ贈ったティーカップと、同じ組み合わせ。
けれど今度は、蕾が少しだけ開き始めている。
「もうすぐ、咲くわ」
クレアは小さくつぶやいた。
バーナードを好きだった時間は、間違いではなかった。
いつか振り向いてくれると信じて待ち続けた日々も、クレアにとって大切な時間だった。
けれど、その恋を抱いたまま立ち止まる時間は、もう終わった。
初恋を忘れる必要はない。
なかったことにする必要もない。
大切な思い出として胸に残したまま、前へ進めばいい。
これからは、自分で選ぶ。
自分の夢も。
自分の行き先も。
自分が愛する人も。
クレアは、開きかけた蕾の隣へ、迷わず次の線を引いた。
さようなら、私の初恋。
そう心の中で告げても、もう涙はこぼれなかった。
白い紙の上では、新しい花が静かに咲き始めていた。




