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いつまでも夢見る少女ではいられない〜兄の親友への初恋を手放して、新しい恋を選びます〜  作者: 黒猫と珈琲


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13/15

第十三話 さようなら、私の初恋。

 翌朝。


 クレアは、いつもより少し早く目を覚ました。


 窓の外は、まだ淡い朝の色に包まれている。鳥の声も少なく、屋敷の中は静かだった。


 今日は、バーナードと話す約束をしている。


 昔、三人でよく遊んだ樫の木の下で。


 幼い頃から、何度もその木へ登った。枝から足を滑らせそうになれば、バーナードが助けてくれた。降りられなくなって泣いた時も、彼は呆れながら手を伸ばしてくれた。


『まったく、君は本当に危なっかしいな』

『だって、バーニーが助けてくれるもの』


 あの頃の自分は、何の疑いもなくそう言えた。


 バーナードは必ず助けてくれる。いつでも自分を見ていてくれる。そして、いつか自分を好きになってくれる。


 そう信じていた。


 クレアは寝台から起き上がり、窓を開けた。涼しい風が部屋へ入り、蜂蜜色の髪を揺らす。


 机の上には、王都へ持っていく図案がまとめてある。その一番上にあるのは、青紫色のカンパネラの花。フランシスの瞳を思って描いたものだった。


 昨日、彼から告白された。


『私は、君が好きだ』


 その言葉を思い出すだけで、胸が熱くなる。


 けれど同時に、バーナードと過ごした長い時間も浮かんだ。簡単に消えるものではない。消したいとも思わなかった。


 好きだった時間まで、捨てなくていい。


 母がそう言ってくれた。


 だから今日は、過去を否定するためではなく、きちんと終わらせるために話す。


 クレアは、ゆっくりと身支度を整えた。


     ◇


 庭へ出ると、朝露に濡れた草が靴の先へ触れた。


 樫の木は、屋敷の裏手にある。幼い頃は、ここまで来るだけでも冒険だった。けれど今は、ほんの短い道のりに感じる。


 木の下には、すでにバーナードが立っていた。


 灰青色の瞳が、クレアへ向けられる。


「おはようございます、バーナード様」


 その呼び方を耳にした瞬間、彼の表情がわずかに揺れた。


「……おはよう」


 以前なら、ここへ来るなり駆け出していた。遠くにバーナードの姿を見つければ、大きく手を振って声を張り上げた。


『バーニー!』


 けれど今は、静かに彼の前へ立つ。


「待たせてしまいましたか?」

「いや。俺が早く来ただけだ」


 どこかで聞いたような言葉だった。昨日、東屋でフランシスも同じことを言った。


 けれど、胸に生まれる感情はまるで違う。


 バーナードの前では、懐かしさと寂しさが入り交じる。


 フランシスの前では、これから何が始まるのだろうという期待が膨らむ。


「話したいことがあると伺いました」

「ああ」


 バーナードは、すぐには続けなかった。


 いつもなら、言葉に迷うような人ではない。騎士として命令を出す時も、クレアを叱る時も、はっきりと話す。


 けれど今日は、何から言えばよいのか分からないようだった。


「先に、謝りたい」


 やがて、低い声で言った。


「君の気持ちに、きちんと向き合わなかった」

「……はい」

「君が何度好きだと言ってくれても、俺は子どもの思い込みだと決めつけた。本当は、君がいつまでも俺を見ていてくれることに甘えていた」


 クレアは黙って彼を見つめた。


「何度はぐらかしても、また笑って追いかけてくれる。王都から帰れば、玄関まで迎えに来てくれる。ずっと変わらないと思っていた」

「私が離れていかないと?」

「ああ」


 バーナードは逃げずに頷いた。


「自分から答えを出さないくせに、君がほかの男を選ぶことは耐えられなかった。身勝手だった」

「今になって、それに気づいたのですね」

「ああ」


 樫の葉が、風に揺れた。


「遅すぎると分かっている。それでも、今度こそ答えを伝えたかった」


 クレアは胸元で手を重ねた。


「バーナード様」

「ああ」

「今、私を好きなのですか?」


 バーナードは、まっすぐクレアを見た。


「ああ。好きだ」


 長い間、聞きたかった言葉だった。


 夢にまで見た。


 いつか言ってもらえたら、その瞬間が人生で一番幸せな日になると思っていた。


 もし一年前に言われていたら。


 あるいは、ついこの夏の初めに言われていたら。


 クレアは泣いて喜んだかもしれない。何も考えず、彼の胸へ飛び込んだかもしれない。


 けれど今は、嬉しいより先に、遅いと思ってしまった。


「ずっと大切だった」


 バーナードは続ける。


「君が泣けば、誰より先に駆けつけたかった。危ない目に遭えば、守りたかった。君が俺の知らない場所へ行くことも、俺以外の男を好きになることも、耐えられなかった」

「私が離れようとしたから、気づいたのですか?」

「ああ」


 バーナードは誤魔化さなかった。


「俺は、君がそばにいることを当たり前だと思っていた。失うかもしれないと知って、ようやく自分の気持ちから逃げられなくなった」


 クレアは目を閉じた。


 悲しかった。


 けれど、どこかで納得もしていた。


 自分が追いかけ続ける限り、この人は変わらなかった。待ち続けることが二人の関係を守っていたのではない。ただ、答えを先延ばしにしていただけだった。


「私に、何を望んでいるのですか?」


 クレアが尋ねると、バーナードはしばらく答えなかった。


「……本当は、俺を選んでほしい」


 胸が強く痛んだ。


「だが、それを求める資格がないことも分かっている」


 バーナードは視線を落とす。


「君は何度も、俺に選ぶ機会をくれた。それを捨て続けたのは俺だ」

「はい」

「今さら好きだと言ったからといって、君が戻るとは思っていない」

「本当に?」

「期待していないと言えば、嘘になる」


 彼は苦く笑った。


「だが、君に待っていてほしいとは言わない」


 以前のバーナードなら、言えなかった言葉かもしれない。


 遅かった。


 それでもようやく、彼も自分の選択へ責任を持とうとしている。


「君が王都へ行っても、この気持ちをすぐに捨てることはできないと思う」

「……はい」

「だが、それを理由に君を引き止めるつもりはない」


 クレアは、まっすぐ彼を見た。


「私は、もう待ちません」


 風が樫の葉を揺らした。


 昔なら、その言葉を口にするだけで泣いていたかもしれない。けれど今は、静かに言えた。


「あなたがいつか私を選ぶかもしれないと期待して、立ち止まることはしません」

「ああ」

「私は、王都へ行きます」

「ああ」

「自分の絵を学ぶために」

「ああ」


 バーナードは、一つずつ受け止めるように頷いた。


「そして今度は、自分が好きになった人と、きちんと向き合いたいと思っています」


 バーナードの表情が強張る。


「フランシス殿か」


 クレアはすぐには答えなかった。


 けれど、もう誤魔化したくなかった。


「はい」


 静かに頷く。


「私は、フランシスを好きになりかけているのではなく……」


 一度、息を整える。


「もう、好きなのだと思います」


 口にした瞬間、胸の奥へ答えが落ちた。


 祭りで、手を離したくなかった。


 カンパネラを見て、彼の瞳を思い出した。


 王都へ帰ると聞いて寂しかった。


 離れていても会いたいと思った。


 工房で起きたことを話したい。


 新しい図案を見てほしい。


 成功した時だけではなく、失敗した時にも、そばにいてほしい。


 それはもう、恋だった。


「そうか」


 バーナードは、しばらく目を伏せていた。


 やがて、苦しそうに笑う。


「分かっていたつもりだった。だが、君の口から聞くと、思っていたより堪えるな」

「ごめんなさい」

「謝るな」


 バーナードは、すぐに首を振った。


「君は何も悪くない」

「でも」

「俺が遅かっただけだ」


 彼は一度そう言ってから、首を振った。


「いや。遅かったというだけではないな」


 灰青色の瞳が、静かにクレアへ向けられる。


「俺が選ばなかった結果だ」


 クレアの胸が、大きく揺れた。


「フランシス殿に奪われたわけではない。君が勝手に離れたわけでもない」


 バーナードは、ゆっくり息を吐く。


「俺が、君の気持ちへ答えなかった。それだけだ」


 クレアの目に涙が滲んだ。


 それは、昔の自分がずっと聞きたかった言葉でもあった。


 自分の想いが軽かったわけではない。


 子どもだったからでもない。


 魅力が足りなかったからでもない。


 ただ、バーナードが選ばなかった。


 その結果として、二人は同じ道を歩かなかった。


「バーナード様」

「ああ」

「ずっと、あなたが好きでした」


 涙が一筋、頬を伝った。


「幼い頃から、ずっと。あなたが帰ってくる日が、一番楽しみでした。褒めてもらえるだけで嬉しかった。いつか振り向いてもらえると、本当に信じていました」

「……ああ」

「でも」


 クレアは涙を拭う。


「もう、あの頃の私には戻れません」


 バーナードは何も言わなかった。


「あなたを追いかけることしか知らなかった私には、戻りたくないのです」


 今のクレアには、夢がある。


 行きたい場所がある。


 描きたいものがある。


 そして、一緒に未来を見たいと思う人がいる。


「好きだった時間は、捨てません。あなたと過ごした思い出も、大切にします」

「ああ」

「でも、その思い出の中だけで生きていくことはしません」


 バーナードは、ゆっくりと頷いた。


「分かった」


 声が掠れていた。


 彼は目を閉じ、しばらくしてから、もう一度クレアを見る。


「君を困らせることはしない」

「はい」

「フランシス殿への気持ちも、変わらないんだな」

「はい」


 バーナードは苦く笑った。


「昔より、ずっとはっきり言うようになったな」

「バーナード様が、そうしなければ聞いてくださらない方だったからです」


 思わず言うと、バーナードは一瞬目を見開いた。


 それから、本当に少しだけ笑った。


「そのとおりだ」


 クレアも、涙の残る顔で微笑んだ。


 こんなふうに笑い合える日が来るとは思わなかった。


 恋人にはなれない。


 昔のようにも戻れない。


 それでも、互いに本当のことを話せた。


 それだけで、長い初恋がようやく終わる気がした。


「王都で困ったことがあれば、頼ってくれ」

「ありがとうございます」

「危険なことがあれば、すぐに知らせろ」

「また子ども扱いですか?」

「違う」


 バーナードは少し困ったように眉を寄せる。


「好きな女を心配している」


 あまりにまっすぐ言われ、クレアは目を瞬いた。


 以前なら、顔を真っ赤にして喜んだだろう。


 今も胸は少し痛む。


 けれど、心が戻ることはなかった。


「自分でできることは、自分でします」

「ああ。それでいい」


 会話が途切れる。


 朝の光が少しずつ強くなり、樫の葉の隙間から地面へ落ちていた。もう、屋敷へ戻る時間だった。


「そろそろ戻ります」

「送る」

「一人で大丈夫です」

「クレア」


 昔と同じように呼ばれ、クレアは足を止めた。


「最後に、一つだけ聞いてもいいか」

「何でしょう」


 バーナードは、しばらく迷った末に口を開く。


「もう一度、バーニーと呼んでほしいと言ったら、困るか?」


 胸が強く痛んだ。


 その呼び名には、幼い頃のすべてが詰まっている。


 嬉しい時も、泣いた時も、助けを求めた時も、何度も口にした。彼を見つけるたび、何の迷いもなく呼んだ名前。


 けれど、ここで呼び戻してしまえば、二人ともまた過去へ縋ってしまう気がした。


「ごめんなさい」


 クレアは静かに首を振った。


「今は、呼べません」


 バーナードの目に、はっきりと痛みが浮かぶ。


 それでも彼は、ゆっくり頷いた。


「そうか」

「でも」


 クレアは樫の木を見上げた。


「バーニーと呼んでいた時間を、忘れるわけではありません」


 バーナードも同じ木を見上げる。


「ああ」

「大切な思い出です」

「ああ」

「だから、今はバーナード様と呼ばせてください」


 長い沈黙のあと、バーナードは答えた。


「分かった」


 クレアは一礼する。


「それでは、先に戻ります」

「ああ」


 今度こそ背を向ける。


 以前なら、後ろから呼び止められることを期待した。追いかけてきてほしいと思った。


 けれど今日は、まっすぐ屋敷へ向かって歩く。


 呼び止められなくてもいい。


 追いかけてもらわなくてもいい。


 自分の足で進める。


 少し歩いたところで、バーナードの声がした。


「クレア」


 足は止めたが、振り返らなかった。


「王都で、頑張れ」


 クレアは目を閉じた。


 幼い頃から、ずっと追いかけてきた人の声だった。


 けれどその言葉は、引き止めるためのものではない。


 ようやく、自分を送り出してくれる言葉だった。


 涙が一筋、頬を伝う。


「はい」


 それだけ答え、クレアは今度こそ歩き出した。


     ◇


 屋敷へ戻ると、庭園の入口に母ルーシーが立っていた。


 そばでは侍女が花へ水をやっている。ルーシーはその様子を眺めていたが、クレアの姿を見つけると、すぐに穏やかな目を向けた。


「おかえりなさい」

「ただいま戻りました」

「話せた?」

「ええ」


 それ以上、母は何も尋ねなかった。


 クレアの方から、そっと近づく。


「お母様」

「なあに?」

「少しだけ、抱きしめてもらってもいい?」

「もちろんよ」


 ルーシーは何も言わず、娘を抱きしめた。


 その腕の中で、クレアはようやく声を殺して泣いた。


 悲しいからだけではない。


 寂しい。


 苦しい。


 けれど、どこかほっとしていた。


 長い間、胸の中に残っていたものへ、ようやく名前をつけられた。


「終わったのね」


 ルーシーが優しく言う。


「ええ」

「後悔している?」

「まったくないと言ったら、嘘になるわ」

「そう」

「もっと早く、好きだと言ってもらえていたらって、思ってしまうの」

「当然よ」


 母は、否定しなかった。


「でも」


 クレアは母の肩へ顔を寄せたまま、続ける。


「それでも、戻りたいとは思わなかった」

「ええ」

「私、フランシスが好きなの」


 初めて、はっきりと口にした。


 母の腕に、少しだけ力がこもる。


「そうなのね」

「彼と、手をつないでいたい」

「ええ」

「王都へ行っても会いたいし、私の絵を見てほしい」

「ええ」

「嬉しかったことも、うまくいかなかったことも、一番に話したいと思うの」


 ルーシーは娘の髪を優しく撫でた。


「それなら、もう答えは決まっているのではない?」

「ええ」


 クレアは涙を拭い、母を見た。


 胸の中に、もう迷いはなかった。


「私、フランシスを選ぶわ」


 初恋から逃げるためではない。


 バーナードを忘れるためでもない。


 今のクレア自身が、フランシスと一緒にいたいと願っている。


「きちんと伝えなくては」

「そうね」

「手紙に書いた方がいいかしら」


 王都へ出発するまで、まだひと月ほどある。


 それまで気持ちを隠したまま手紙を交わすことを思うと、少し落ち着かなかった。


 ルーシーはしばらく考え、それから微笑んだ。


「急いで手紙に書かなくてもいいのではない?」

「でも……」

「大切なことなのでしょう?」

「ええ」

「それなら、王都で会った時に、きちんと顔を見て伝えなさい」


 クレアは、胸元へ手を当てた。


 好きだと気づいた。


 あなたを選びたい。


 これからも、あなたの隣を歩きたい。


 どれも、文字にするより、自分の声で届けたい言葉だった。


「そうするわ」


 クレアが答えると、ルーシーは穏やかに頷いた。


「ええ。きっと伝えられるわ」

「どうして、そう思うの?」

「今のあなたの顔を見れば分かります」


 母の指が、クレアの目元に残る涙をそっと拭った。


「泣いてはいるけれど、もう迷ってはいないもの」

「……ええ」


 クレアは小さく笑った。


 涙はまだ止まっていない。


 胸の奥には、初恋を終えた寂しさも残っている。


 それでも、進みたい方向は、もうはっきりと見えていた。


 その日の夜。


 クレアは自室の机に向かっていた。


 机の上には、白い紙と鉛筆が置かれている。


 バーナードと話したこと。


 母の腕の中で泣いたこと。


 そして、初めてフランシスが好きだと口にしたこと。


 一日の出来事を思い返しながら、クレアは鉛筆を手に取った。


 真新しい紙へ、一本の線を引く。


 描いたのは、カンパネラの花だった。


 二輪の花と、一つの蕾。


 フランシスへ贈ったティーカップと、同じ組み合わせ。


 けれど今度は、蕾が少しだけ開き始めている。


「もうすぐ、咲くわ」


 クレアは小さくつぶやいた。


 バーナードを好きだった時間は、間違いではなかった。


 いつか振り向いてくれると信じて待ち続けた日々も、クレアにとって大切な時間だった。


 けれど、その恋を抱いたまま立ち止まる時間は、もう終わった。


 初恋を忘れる必要はない。


 なかったことにする必要もない。


 大切な思い出として胸に残したまま、前へ進めばいい。


 これからは、自分で選ぶ。


 自分の夢も。


 自分の行き先も。


 自分が愛する人も。


 クレアは、開きかけた蕾の隣へ、迷わず次の線を引いた。


 さようなら、私の初恋。


 そう心の中で告げても、もう涙はこぼれなかった。


 白い紙の上では、新しい花が静かに咲き始めていた。


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