第十四話 夢見る少女ではいられない
それから、ひと月ほどが過ぎた。
王都へ向かう準備は、少しずつ整っていった。
通う意匠学校が正式に決まり、見学を希望していた工房からも受け入れの返事が届いた。王都で滞在する屋敷には、衣類や画材の一部を先に送ってある。
その間、フランシスとは何度も手紙を交わした。
学校で学べること。工房で扱っている品。王都で必要になるもの。
フランシスの手紙には、クレアが不安にならないよう、細かなことまで丁寧に書かれていた。クレアも、新しく描いた図案のことや、出発の準備について返事を書いた。
けれど、自分の気持ちだけは、まだ一度も手紙に書いていない。
好きだと気づいた。
あなたを選びたい。
王都で、あなたの隣を歩きたい。
それだけは、顔を見て伝えたかった。
そして、出発の日が来た。
◇
朝から、ラングレー家の屋敷は慌ただしかった。
玄関前には王都へ向かう馬車が止まり、使用人たちが最後の荷物を積み込んでいる。
クレアは旅装に身を包み、長く暮らした屋敷を見上げた。
生まれ育った場所。
庭園も、廊下も、自室の窓から見える景色も、今日からは毎日目にするものではなくなる。
胸の奥に、寂しさが込み上げた。
「お嬢様」
声をかけられて振り向くと、これまで身の回りの世話をしてくれた侍女が立っていた。
「どうしたの?」
「これを、お持ちください」
差し出されたのは、小さな布袋だった。中には、香りのよい乾燥花が詰められている。
「王都で眠れない夜がありましたら、枕元へ置いてください」
「あなたが作ってくれたの?」
「はい。庭園で摘んだ花を使いました」
「ありがとう。大切にするわ」
クレアが布袋を胸元へ抱くと、侍女の目が少し潤んだ。
「お嬢様が王都へ行かれるのは、とても嬉しいのです。でも、やはり寂しくもあります」
「私もよ」
クレアは侍女の手を取った。
「でも、ずっと帰ってこないわけではないわ」
「ええ。お帰りをお待ちしております」
「手紙も書くわ」
「必ずですよ」
「約束するわ」
二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。
玄関前では、父と母も待っていた。
母ルーシーは、クレアの外套の襟元を整える。
「向こうへ着いたら、すぐに手紙をちょうだい」
「ええ」
「食事を抜いてはいけませんよ」
「分かっているわ」
「夜更かしもほどほどに」
「お母様」
クレアが苦笑すると、ルーシーは少しだけ寂しそうに目を細めた。
「言えるうちに、言っておきたいのよ」
「心配しなくても大丈夫よ」
「心配するのが母親の仕事ですもの」
ルーシーはクレアを抱きしめた。
子どもの頃とは違う。それでも、母の腕の中は変わらず温かかった。
「行ってらっしゃい、クレア」
「行ってきます、お母様」
母から離れると、父アルバートがクレアを見つめていた。
「王都へ行っても、無理をする必要はない」
「はい」
「だが、簡単に諦める必要もない」
「……はい」
相反するような言葉だった。
けれど今のクレアには、父が何を伝えたいのか分かった。
「辛くなったら戻ってきてもいい。学び続けたいなら、向こうに残ってもいい」
アルバートは静かに続けた。
「お前の人生だ。これからは、お前自身が決めなさい」
「お父様」
以前の父なら、クレアの進む道を先に決めようとしたかもしれない。
けれど今は、クレアへ選ぶ権利を渡してくれている。
「ありがとう、お父様」
クレアは深く頭を下げた。
「必ず、自分で選びます」
「ああ」
父は短く答え、それから少しだけ目を逸らした。その横顔が、どこか寂しそうに見えた。
クレアが馬車へ向かおうとした、その時だった。
屋敷の門の向こうから、馬の蹄の音が響いてくる。
一頭の馬が、朝の光の中を駆けてきた。
馬上の人物を見て、クレアは目を見開く。
「……フランシス?」
馬に乗ったフランシスが、門をくぐった。
ひと月前、王都へ戻ったはずの人。
青紫色の瞳がクレアを見つけ、嬉しそうに細められる。
「うそ。どうして?」
馬を降りると、フランシスはまっすぐクレアの前まで歩いてきた。
「おはよう、クレア」
「おはよう……ではなくて」
驚きで、うまく言葉が出てこない。
「どうしてここにいるの?」
「迎えに来た」
「王都で待っていると言っていたでしょう?」
「ああ。そのつもりだったよ」
「では、どうして?」
フランシスは少しだけ困ったように笑った。
「待っているだけでは、足りないと思ったんだ」
「足りない?」
「君が王都へ来ることは分かっている。もうすぐ会えることも」
「ええ」
「それでも、君が今日ここを出るところを見届けたかった」
クレアは何も言えず、フランシスを見つめた。
「君が自分で選んだ未来へ向かって、初めてここを旅立つ日だから」
フランシスの声は、いつもより静かだった。
「その最初の一歩を、どうしても隣で見届けたかった」
胸の奥が、強く鳴った。
驚いたままのクレアをよそに、フランシスは家族へ向き直った。
「突然伺い、申し訳ありません」
「構わない」
アルバートが答える。
「娘の護衛が増えるなら、こちらとしても安心だ」
「王都まで、責任を持ってお送りします」
「ああ。頼んだ」
フランシスは丁寧に頭を下げた。
その姿を見ながら、クレアは胸の中にあった答えを、もう抑えられないことに気づいた。
◇
出発まで、少しだけ時間をもらった。
クレアとフランシスは、馬車から少し離れた庭園の入口に立っていた。家族の姿は見えるが、声までは届かない距離だった。
「本当に、迎えに来たのね」
「うん」
「王都からここまで遠かったでしょう……体は大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
フランシスは少しだけ笑った。
「フランシス」
「何?」
青紫色の瞳が、クレアへ向けられる。
これから言うことは、恥ずかしくないわけではない。勇気もいる。
けれど、この言葉を伝えるために、ひと月待った。
もう逃げたくなかった。
「私、あなたが好き」
初めて、はっきりと伝えた。
フランシスの目が大きく見開かれる。
「誰かを忘れるためではないわ」
クレアは彼の瞳を見たまま、言葉を続ける。
「あなたと一緒にいたいと思ったの。王都へ行くのも、あなたを追いかけるためではない。自分の夢のために行くわ」
一度、息を吸う。
「でも、その未来で、あなたの隣を歩きたいの」
フランシスは何も答えなかった。
いつもなら、すぐに言葉を返してくれる。けれど今は、青紫色の瞳を見開いたまま、クレアを見つめている。
クレアは少し不安になった。
「何も言ってくれないの?」
「……少し待って」
「どうして?」
「今、思っていた以上に嬉しくて、うまく話せそうにない」
フランシスは片手で口元を覆った。
よく見ると、耳が赤くなっている。
「フランシスでも、そんな顔をするのね」
「君の前では、何度もしていると思うけれど」
「そうだったかしら」
「全身ずぶ濡れの君を見た時も、抱き上げた時も、カップをもらった時も」
「もう、前半のことは思い出させないで」
今度は、クレアの頬も熱くなる。
フランシスはようやく手を下ろした。
「クレア。もう一度、言ってくれないか」
「何を?」
「私のことが好きだと」
「なぜ?」
「あまりにも夢のようで……もう一度、聞かせてほしい」
クレアは少し恥ずかしくなった。
けれど、もう逃げるつもりはなかった。
「フランシスが好きよ」
今度は、彼の目を見たまま告げる。
「あなたと、これからも一緒にいたい」
フランシスの顔に、ゆっくりと笑みが広がった。
これまで見たどの笑顔よりも、嬉しそうだった。
「ずっと、その言葉を待っていた」
彼はクレアへ手を差し出す。
夏祭りの人混みで差し出された時と同じ手。
けれど、今は意味が違う。
はぐれないためではない。
段差を下りるためでもない。
これから同じ未来を歩くための手だった。
「クレア」
「なあに?」
「王都でも、私の隣を歩いてくれる?」
クレアは差し出された手を見つめた。
誰かに連れていってもらうのではない。
誰かの背中を追いかけるのでもない。
自分で行きたい場所を選び、自分で愛する人の手を取る。
「ええ」
クレアは自分から、フランシスの手を取った。
「あなたの隣を歩きたい」
フランシスの指が、クレアの手を包む。
祭りの夜と同じように温かい。
けれど今度は、クレアも迷わず握り返した。
「抱きしめてもいい?」
フランシスが尋ねる。
「皆が見ているわ」
「だから聞いている」
少し離れた玄関前では、家族や使用人たちがこちらを見ている。
母は嬉しそうに微笑み、父はわざとらしく視線を逸らしていた。侍女たちは、今にも声を上げそうな顔をしている。
「……少しだけなら」
クレアが答えると、フランシスは大切なものを扱うように、そっと彼女を抱きしめた。
強すぎず、けれど離したくないという気持ちが伝わる腕だった。
クレアも、ためらいながら彼の背中へ腕を回す。
「クレア」
「なあに?」
「迎えに来てよかった」
「迎えに来なくても、王都できちんと伝えるつもりだったわ」
「それでも、今日聞けてよかった」
「ひと月も待ったものね」
「とても長かったよ」
「手紙は何度も書いたでしょう?」
「手紙と、君に会うことは違うから」
耳元でそう言われ、クレアは小さく笑った。
「もう、離れてもいい?」
「まだ少し早い」
「皆が見ているわ」
「知っているよ」
「フランシス」
「では、あと少しだけ」
仕方のない人。
そう思いながらも、クレアはすぐには離れなかった。
◇
やがて、出発の時刻が来た。
クレアは家族や使用人たちへ、もう一度別れを告げた。
馬車へ乗る前に、屋敷を振り返る。
窓辺。
庭園。
遠くに見える東屋。
ここで過ごした時間が、なくなるわけではない。
初恋も、迷った時間も、すべて今のクレアへ続いている。
「クレア」
フランシスが手を差し出した。
「行こうか」
「ええ」
クレアは、その手を取って馬車へ乗り込んだ。
故郷を離れることは、やはり寂しい。
それでも今は、その寂しさよりも、これから始まる未来への期待の方が大きかった。
馬車がゆっくりと動き出す。
家族や使用人たちが、いつまでも手を振っている。クレアも窓から身を乗り出し、見えなくなるまで手を振り返した。
やがて屋敷が小さくなり、門も、庭園も、すべて遠ざかっていく。
クレアは前を向いた。
隣には、フランシスがいる。
「寂しい?」
「ええ。思ったよりも寂しいわ」
「戻りたくなった?」
「いいえ」
クレアは迷わず答えた。
「帰りたい場所があるからこそ、安心して前へ進めるのだと思うわ」
「そうだね」
フランシスが柔らかく笑う。
「王都には、私もいる」
「ええ」
「困ったことがあれば、何でも言って」
「全部あなたに頼るつもりはないわ」
「分かっているよ」
「自分でできることは、自分でやってみたいの」
「うん。それでいい」
フランシスは、クレアの選んだ言葉を否定しなかった。
「でも、一人で抱えきれなくなった時は、頼ってくれる?」
「その時は、お願いするわ」
「約束だよ」
「ええ。約束するわ」
二人は顔を見合わせて笑った。
馬車は、王都へ続く道を進んでいく。
誰かの背中を追いかけるのではない。誰かが振り向いてくれるのを待つのでもない。
いつまでも、夢見るだけの少女ではいられない。
自分で選んだ未来へ、自分の足で向かっていく。
クレアは隣にいるフランシスの手を、もう一度握った。
その手は、すぐに優しく握り返された。




