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いつまでも夢見る少女ではいられない〜兄の親友への初恋を手放して、新しい恋を選びます〜  作者: 黒猫と珈琲


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第八話 もう、追いかけない

 父へ王都で意匠を学びたいと伝えてから、クレアの日々は少しずつ変わり始めた。


 朝食を終えると、これまで描いた図案を整理する。同じ花を食器と刺繍へ使う場合、どのように線を変えればよいのか。水草の模様を織物へ仕立てるなら、どの色を重ねると綺麗に見えるのか。


 思いついたことを紙へ書き留め、分からないことはフランシスへ尋ねた。


 フランシスも、王都へ手紙を書いてくれている。侯爵家と付き合いのある工房や、女性が意匠を学べる場所について問い合わせているのだという。


「返事が届くまで、少し時間がかかると思う」


 庭園の東屋で、フランシスはそう言った。


「急がなくていいわ。まだ王都へ行けると決まったわけではないもの」

「でも、準備はしておいた方がいい」

「準備?」

「今まで描いた図案を、工房の人に見せられるようにまとめておくんだ」


 フランシスは、机の上に並んだ紙を指差した。


「花、魚、水草、鳥。それぞれ分けた方が見やすいだろうね」

「このままでは駄目かしら」

「駄目ではないけれど、君が何を考えて描いたのか、簡単な説明も添えた方がいい」

「説明……」


 クレアは水草の図案を手に取った。


「森の泉に生えていた水草を、食器の縁飾りにしました、では簡単すぎる?」

「悪くないよ。どうしてその形を選んだのかも書いてみたら?」

「水の流れに合わせて、葉が揺れているように見えたから……」

「それだよ」


 フランシスが笑う。


「君が見たものを、そのまま書けばいい」

「そんなことでいいの?」

「そんなことが大切なんだ。王都に同じ水草があったとしても、君と同じように見る人ばかりではないから」


 クレアは紙の余白へ、言われた通り書き込んでみた。最初は何を書けばよいのか迷ったが、一つ言葉が浮かぶと、その先は自然に続いた。


 朝露をまとった花。


 陽射しを受けて光る魚の鱗。


 湖面へ落ちた雫から広がる波紋。


 絵を描いた時に感じたことを、一つずつ言葉へ変えていく。


「楽しい」


 思わず口にすると、フランシスが顔を上げた。


「何が?」

「絵を描くだけではなくて、どうして描きたいと思ったのかを考えることが」

「今までは考えなかった?」

「ええ。綺麗だから、可愛いから。それだけだと思っていたわ」


 クレアは書きかけの文字を見つめた。


「でも、本当は一つずつ違うのね」

「君の中には、最初からあったんだよ」

「そうなのかしら」

「言葉にしていなかっただけだ」


 フランシスは、クレアが書いた説明を覗き込む。


「やっぱり、君は王都で学ぶべきだと思う」

「まだ、こんなに拙いのに?」

「拙いから学ぶんだろう?」


 以前にも言われた言葉だった。


 上手な人から学べることもある。


 知らないことがあるから、知りに行く。


 フランシスと話していると、できないことを恥じる必要はないように思えた。


「そうね」


 クレアは素直に頷いた。


「もっと学びたいわ」


 以前なら、何かを望む時には、いつもバーナードの顔が浮かんだ。


 バーナードに褒めてもらいたい。


 バーナードの隣に立ちたい。


 バーナードに選ばれたい。


 けれど今、胸の中にあるのは、自分の描いた模様を本物の食器や布へ変えたいという願いだった。その願いを口にすると、不思議なほど心が軽くなる。


「今日は、随分進んだね」


 フランシスが整理した紙を重ねる。


「少し休んだ方がいい」

「もう少しできるわ」

「足の怪我が治ったと思ったら、今度は机にかじりつくつもり?」

「座っているだけだから、足には負担がないでしょう?」

「目と肩が疲れるよ」

「フランシスは、時々侍女みたいなことを言うのね」

「君の侍女は、私よりずっと苦労していそうだ」

「どういう意味?」

「そのままの意味だよ」


 クレアが頬を膨らませると、フランシスは楽しそうに笑った。


「クレア、少し散歩をしない?」

「散歩?」

「庭の中だけ。医師も、そのくらいなら問題ないと言っていたでしょう?」

「ええ」

「ずっと部屋や東屋にいるより、気分転換になると思うよ」


 クレアは机の上を見た。まだ整理したい図案は残っている。けれど、夏の柔らかな風が東屋を通り抜けると、外を歩きたい気持ちも湧いてきた。


「では、少しだけ」

「うん」


 フランシスは先に立ち上がり、クレアへ手を差し出した。


 足はもうほとんど治っている。一人でも立てる。それでもクレアは、少し迷ったあと、その手を取った。


 フランシスの手は温かかった。強く引くのではなく、クレアが自分で立ち上がるのをそっと支えてくれる。


「痛くない?」

「大丈夫よ」

「本当に?」

「何度聞くの?」

「君の『大丈夫』は、あまり信用できないからね」

「バーニーと同じことを言うのね」


 口にしたあと、クレアはわずかに目を伏せた。


 最近、バーナードとまともに話していない。食事の席では顔を合わせる。足の具合を尋ねられることもある。


 けれど以前のように、自分から彼のそばへ行くことはなくなった。王都の話を聞きたいとも思わない。バーナードがどこで何をしているのか、気にならなくなったわけではない。ただ、以前ほど心のすべてを占めなくなっていた。


「クレア?」


 フランシスに呼ばれ、顔を上げる。


「何でもないわ。行きましょう」


 クレアはフランシスの手を離し、並んで東屋を出た。


 庭園の奥には、幼い頃から変わらない大きな樫の木がある。夏になると枝いっぱいに葉が茂り、その下には広い木陰ができた。


 クレアとシルヴェスター、バーナードの三人は、よくそこで休んだ。


 虫取りに疲れた時。


 釣った魚の数を競った時。


 林で拾った木の実を並べた時。


 数え切れないほどの思い出がある。


「大きな木だね」


 フランシスが幹を見上げる。


「私が生まれる前からあるのよ」

「登ったことは?」

「もちろん。数えきれないくらい登ったわ」

「やっぱり」

「どうして、納得したような顔をするの?」

「君なら登っていると思ったから」


 フランシスは幹へ手を触れた。


「どの枝まで?」

「あそこよ」


 クレアは少し高い位置にある太い枝を指差した。


「お兄様とバーニーは、もっと上まで登ったわ。でも私は、あの枝までしか許してもらえなかったの」

「なぜ?」

「危ないから駄目だって」

「それは正しいと思う」

「フランシスまで」

「去年も木から落ちかけたのでしょう?」


 クレアは目を見開いた。


「どうして知っているの?」

「何度も聞いたから、覚えてしまったよ」

「バーニーったら」

「心配だったんだろうね」

「昔から心配性なのよ」


 クレアは樫の木の下へ置かれた長椅子へ腰を下ろした。フランシスも隣へ座る。


「ここで、よく三人で遊んだの」

「シルヴェスター殿と、バーナードと?」

「ええ」


 木漏れ日が、足元に揺れている。


「バーニーは四人兄弟だから、面倒を見るのが上手だったの。私が疲れると、すぐに気づいてくれたわ」

「疲れたら、この前みたいに背負ってくれたり?」

「ええ」


 森から戻った日のことを思い出す。


 フランシスに正面から抱き上げられたあと、バーナードの背中へ乗った。


 昔と同じ安心感。


 けれど、昔と同じではなかった自分の心。


「バーニーの背中は、今も安心するわ」


 クレアは静かに言った。


「そう」


 フランシスは、嫉妬した様子もなく頷いた。


「大切な思い出なんだね」

「ええ。ずっと忘れないと思う」

「忘れなくていいんじゃない?」


 思いがけない言葉に、クレアは隣を見た。


「フランシスは、嫌ではないの?」

「何が?」

「私がバーニーとの思い出を大切にしていること」


 フランシスは少し考えた。


「君が彼を好きだった時間まで、なかったことにしてほしいとは思わないよ」

「今も好きかもしれないわ」


 試すつもりではなかった。ただ、正直に言っておきたかった。


 バーナードへの気持ちが、完全に消えたわけではない。幼い頃から長く抱いてきた想いが、数日でなくなるはずもない。


「うん」


 フランシスは穏やかに頷いた。


「分かっている」

「それでも、私と一緒にいてくれるの?」

「私が君と一緒にいたいからね」


 あまりにも迷いのない答えだった。


「君の心が、今すぐ全部こちらへ向かなくても構わない」

「苦しくないの?」

「全くないと言ったら、嘘になるけど」


 フランシスは苦笑した。


「私も、そこまで余裕があるわけではないから」

「では、どうして?」

「君が自分で決めるのを待ちたいから」


 青紫色の瞳が、真っ直ぐクレアへ向けられる。


「私を選ぶなら、誰かを忘れるためじゃなくて、私を好きになったから選んでほしい」


 胸の奥が、強く鳴った。


 フランシスは急がせない。クレアの迷いも、過去の恋も、無理に切り捨てようとしない。ただ、一人の女性として見つめながら、クレア自身の答えを待ってくれる。


「フランシスは、ずるいわ」

「どうして?」

「そんなことを言われたら、もっと意識してしまうもの」


 フランシスは一瞬目を見開き、それから嬉しそうに笑った。


「それなら、言った甲斐があった」

「やっぱり、ずるい」


 クレアは顔を逸らした。


 頬が熱い。


 けれど、嫌ではなかった。


 午後になると、フランシスは父との視察へ出かけた。


 クレアは自室へ戻り、図案の整理を続けるつもりだったが、途中で新しい紙が足りないことに気づいた。侍女へ頼もうかとも思ったものの、足もほとんど治っている。少し歩きたくなり、自分で屋敷の書庫へ向かうことにした。


 廊下を進み、階段を下りる。足首にはまだわずかな違和感があるが、痛みはなかった。


 書庫へ続く角を曲がったところで、向こうからバーナードが歩いてきた。鍛錬を終えたばかりなのか、白いシャツの袖を肘まで捲っている。


「クレア」


 バーナードは彼女の姿を見つけると、すぐに歩み寄った。


「一人で歩いていいのか?」

「ええ。もう大丈夫よ」

「どこへ行く」

「書庫へ。新しい紙を取りに行くの」

「侍女に頼めばいいだろう」

「これくらい、自分でできるわ」


 クレアが答えると、バーナードは眉を寄せた。


「無理をするな。足が悪化したらどうする」

「無理はしていないわ」

「お前の大丈夫は信用できない」


 フランシスにも似たようなことを言われた。けれど、その響きはまるで違った。


 フランシスはクレアの意思を認めたうえで、体調を気遣う。バーナードの言葉には、クレア自身の判断を最初から信じていないような響きがあった。


 以前なら、それも愛情だと思って喜んだだろう。心配されることが、特別に大切にされている証のように思えた。


 けれど今は、少し息苦しい。


「本当に大丈夫よ」

「駄目だ。俺が取ってくる」

「場所は分かるの?」

「紙くらい探せる」

「私が使いたいものは、厚さも大きさも決まっているの」

「なら、どれか教えろ」

「じゃあ、ついてくる?」

「ああ」


 当然のように答えられ、クレアは小さく息を吐いた。


「そこまでしなくても平気なのに」

「怪我をしたばかりだろう」

「もう三日も経っているわ」

「三日しか、だ」


 バーナードはクレアの隣へ並び、歩く速さを緩めた。


 子どもの頃から、彼はいつもこうだった。


 クレアが走れば止める。


 重いものを持てば取り上げる。


 危ない場所へ行こうとすれば、自分が先に立つ。


 その優しさに、何度も胸をときめかせた。


 いつか、この人のお嫁さんになれたら。


 ずっと守ってもらえたら。


 そう願っていた。


「図案は、まとまったのか?」


 バーナードが尋ねた。


「少しずつまとめているところ」

「父君から、王都の学校や工房について調べていると聞いた」

「ええ、そうよ」

「本当に行くつもりなのか?」

「まだ決まっていないけれど、行けるなら行きたいと思っているわ」


 バーナードの表情が硬くなる。


「お前にはまだ早い」


 クレアの足が止まった。


「何が?」

「王都で一人で暮らすことだ」

「一人ではないわ。お兄様もいるし、お父様も滞在先をきちんと決めてくださる」

「そういう意味ではない」

「では、どういう意味?」

「王都は、ここほど穏やかではない。貴族同士の付き合いも複雑だ。お前は人を疑うことを知らない」

「何も知らない子どもだから、王都へ行くべきではないということ?」

「そこまでは言っていない」

「同じことよ」


 クレアは、まっすぐバーナードを見た。


 彼が心配してくれていることは分かる。悪意がないことも。けれどバーナードは、いつもクレアを昔のまま見ている。


 木から落ちかけた少女。


 川へ落ちて泣いた少女。


 疲れれば背中で眠った少女。


 十八歳になった今も、一人では何も決められないと思っている。


「バーニー。私だって、ずっと子どものままではいられないの」


 静かな声が、廊下へ落ちた。


 バーナードが眉を寄せる。


「分かっている」

「いいえ。分かっていないわ」

「何を――」

「私が何をしたいのか聞く前に、危ない、まだ早い、やめておけと言うでしょう?」

「心配しているだけだ」

「ええ。知っているわ」


 クレアは小さく笑った。


「バーニーは、ずっと私に優しかったもの」


 その笑顔に、バーナードはなぜか不安を覚えた。


「怪我をすれば背負ってくれた。泣けば慰めてくれた。私がどれほど我がままを言っても、最後には笑って許してくれた」

「それが、どうした」

「私は、その優しさが大好きだったわ」


 過去形のように聞こえ、バーナードの胸がざわつく。


「クレア」

「だから、いつか私を一人の女性として見てくれると思っていたの」


 バーナードは黙った。


 クレアは幼い頃から、何度も好きだと告げてきた。結婚したいとも言った。けれどバーナードは、そのたびに笑って受け流した。


 子どもの思い込みだ。


 兄のように慕っているだけだ。


 いつか同じ年頃の男と出会えば、自然に忘れる。


 そう決めつけていた。


「私は、何度も伝えたわ」

「分かっている」

「いいえ」


 クレアは首を振った。


「分かっていたら、あんなふうに笑わなかったでしょう?」

「俺は……」

「バーニーを困らせたかったわけではないの。好きだと伝えれば、いつか私の気持ちを真剣に考えてくれると思っていたのよ」


 明るく言い続けてきた。断られても、次があると思って笑った。


 バーナードが帰るたび、玄関まで駆けていった。今度こそ少しは女性として見てもらえるかもしれないと、髪を整え、リボンを選んだ。


 けれど、彼の目に映るクレアは、いつも同じだった。


「でも、もうやめるわ」


 バーナードの顔から、表情が消えた。


「何を?」

「バーニーを追いかけること」


 一度口にすると、不思議なほど静かな気持ちになった。


 胸が痛まないわけではない。長い間、大切に抱えてきた恋だ。簡単に手放せるはずもない。それでも、もう以前のように、振り向いてもらえる日だけを待ち続けることはできなかった。


「急に、何を言っている」

「急ではないわ」

「フランシス殿に何か言われたのか?」


 その言葉に、クレアの胸へ小さな痛みが走った。


「どうして、フランシスのせいだと思うの?」

「彼が来てから、お前は変わった」

「ええ。変わったわ」


 クレアは否定しなかった。


「フランシスに出会って、知らなかったことをたくさん教えてもらったもの」

「だから、俺への気持ちまで変わったと?」

「フランシスに変えられたのではないわ」


 クレアは、はっきりと言った。


「私が、自分で考えたの」


 バーナードが言葉を失う。


「私の絵が、将来につながるかもしれないこと。王都へ行けば、もっと学べること。誰かが選んでくれるのを待たなくても、自分で行きたい場所を選んでいいこと」

「クレア」

「私は今まで、バーニーが選んだ場所へついていくことしか考えていなかったわ」


 王都で騎士を続けるなら、王都へ。


 領地へ戻るなら、領地へ。


 バーナードの妻になれれば、それでよいと思っていた。


「でも今は、自分が王都へ行きたいの」

「フランシス殿がいるからだろう」

「違うわ」


 クレアは少し迷い、それから正直に続けた。


「フランシスと一緒にいたい気持ちもある。彼のことをもっと知りたいと思っているわ」


 バーナードの顔が険しくなる。


「でも、それだけではないわ。自分の絵を学びたい。工房を見たい。今まで知らなかったものに触れてみたいの」


 バーナードの胸に、焦りが広がった。


 クレアが自分の知らない場所へ行こうとしている。


 自分ではない男と、未来を語っている。


 そして、そのことを止める言葉が見つからない。


「俺は、お前が心配なんだ」

「分かっているわ」

「なら――」

「でも、心配だからという理由で、私をいつまでも子どものままにしないで」


 その言葉に、バーナードは息を呑んだ。


「そんなつもりはない」

「では、私が王都で学びたいと言った時、どうして最初に絵を見てくれなかったの?」

「それは……」

「どんな場所で学びたいのか、何を作りたいのか、聞いてくれなかったでしょう?」


 返す言葉がなかった。


 危険だ。早すぎる。フランシスを信じるな。


 そう言うばかりで、クレアが抱えていた図案を見ようともしなかった。


「バーニーに悪気がないことは知っているわ」


 クレアの声は穏やかだった。


「きっと、これからも私を大切にしてくれると思う」

「当たり前だ」

「妹のように?」


 バーナードの喉が詰まる。


 これまでなら、迷わず頷いていたはずだった。


 妹のようなものだ。


 そう言えば、すべてを曖昧にできた。クレアの告白へ答えなくてすむ。自分の感情を考えなくてすむ。彼女がいつまでもそばにいると信じていられる。


「俺は……」


 言葉が続かない。


 クレアはその沈黙を見つめ、寂しそうに微笑んだ。


「やっぱり、答えられないのね」

「違う。そうではない」

「では、何?」


 バーナードは唇を開いた。だが、自分でも答えが分からなかった。


 クレアは大切だ。


 誰よりも守りたい。


 ほかの男と親しくする姿を見ると苛立つ。


 フランシスに抱き上げられている姿を見た時は、今すぐ奪い返したいと思った。


 けれど、それが恋なのかと問われれば、すぐに認めることができない。幼いクレアの姿が、あまりにも深く記憶に残っている。恋人として求めてよい相手なのか、考えたことさえなかった。


「ごめんなさい」


 クレアは静かに言った。


「責めるつもりはなかったの」

「謝るな」

「でも、私が勝手に好きになって、勝手に期待していただけだもの」

「勝手では――」

「もう、告白はしないわ」


 はっきりと告げられ、バーナードの胸が大きく揺れた。


「どうして」


 自分でも驚くほど、掠れた声が出た。


「あなたが望んでいたことでしょう?」

「俺が?」

「いつも、同じ年頃の男性を見た方がいいと言っていたわ」


 確かに言った。


 何度も言った。


 クレアの恋は思い込みだと。


 いつか別の男を好きになると。


 そうなればよいと思っていたはずだった。


「これからは、そうするわ」

「フランシス殿を選ぶのか」

「まだ分からない」


 クレアは正直に答えた。


「フランシスのことを、もっと知りたいと思っている。でも、すぐに誰かを選ぶつもりはないわ」

「なら、今まで通りでいいだろう」


 思わず口にした言葉に、クレアが目を見開く。


「今まで通り?」

「ああ。急いで何かを変える必要はない」

「私があなたを好きだと言い続けて、バーニーが笑って受け流す関係を続けるの?」


 バーナードは黙り込んだ。


「私は、もうそれを続けたくないの」


 クレアは真っ直ぐ彼を見た。青緑色の瞳には、涙は浮かんでいない。


 泣かれるよりも、その静かな決意の方が、バーナードには恐ろしかった。


「好きだと言うたび、少しだけ期待したわ。今日こそ真剣に考えてもらえるかもしれないって」

「クレア……」

「それで、また笑われても、次があると思っていた」


 クレアは胸元で手を組んだ。


「でも、ずっと待っているだけでは、何も変わらないもの」


 変わらないどころか、自分自身が何を望んでいるのかさえ、見えなくなっていた。


「だから、もう追いかけないわ」


 バーナードの中で、何かが音を立てて崩れた。


 クレアは、いつでも自分を見ていた。王都から帰れば、誰よりも先に駆けてきた。何をしていても、視線を向ければ目が合った。どれほどはぐらかしても、翌日にはまた笑っていた。


 その笑顔がなくなる可能性を、一度も考えたことがなかった。


「クレア」


 名前を呼び、手を伸ばす。


 けれどクレアは、ほんの少しだけ後ろへ下がった。そのわずかな距離に、バーナードの手が止まる。


「何でしょう、バーナード様」


 バーナードは、息をすることさえ忘れた。


 聞き慣れない呼び方だった。


 クレアは幼い頃から、ずっと彼をバーニーと呼んだ。初めて会った頃、バーナードという名前をうまく言えず、そう呼び始めた。成長してからも変わらなかった。人前でさえ、何のためらいもなくバーニーと呼んだ。


 その呼び名は、自分だけに与えられたものだった。


「どうして、急にそんな呼び方をする」

「もう、昔と同じではいられませんから」

「呼び方まで変える必要はないだろう」

「私にとっては、必要なのです」


 丁寧な言葉。


 穏やかな声。


 けれど、そこには今までになかった距離があった。


「私は、あなたの妹ではありません」

「分かっている」

「本当に?」


 すぐに問われ、また答えられなくなる。


 クレアは小さく微笑んだ。


「私も、ようやく分かったのです」

「何がだ」

「どれほど好きだと伝えても、一人の女性として見てもらえないことがあります」


 その言葉は、責めるものではなかった。だからこそ、バーナードの胸へ深く刺さった。


「それは、私が幼かったからでも、魅力がなかったからでもないのでしょう」


 フランシスは、クレアを一人の女性として見た。


 バーナードとは違う未来を見つけた。


 そのことでクレアは、自分の想いが届かなかった理由を、自分の価値の低さだと思わずにすむようになった。


「ただ、バーナード様は私を選ばなかった。それだけなのだと思います」

「まだ、選ばないと決めたわけでは――」


 口にしてから、バーナードは自分の言葉の身勝手さに気づいた。


 今まで何度も告白されながら、答えを出さなかった。それなのに、クレアが離れようとした途端、まだ決めていないと言う。


 クレアも同じことを感じたのだろう。悲しそうに目を伏せた。


「私は、ずっと待っていました。あなたが、いつか振り返ってくれるのを」


 その一言に、バーナードは何も言えなくなった。


「でも、正直疲れました。だから、もう待つのはやめます」


 クレアは静かに一礼した。


「紙を取りに行きますので、失礼します」

「クレア、待て」


 呼び止めても、クレアは足を止めなかった。廊下の向こうへ、ゆっくりと歩いていく。


 追いかければ、すぐに追いつける距離だった。腕をつかみ、今まで通りの呼び方へ戻せと言うこともできた。


 けれど、そんな権利はない。


 バーナードはその場に立ち尽くし、遠ざかる後ろ姿を見送った。


 クレアは一度も振り返らなかった。


     ◇


 書庫で必要な紙を受け取ったあと、クレアは自室へ戻った。


 扉を閉めると、急に全身から力が抜ける。机へ紙を置き、椅子へ腰を下ろした。


 涙は出なかった。


 泣くと思っていた。


 もう追いかけないと告げれば、胸が張り裂けるほど苦しくなると思っていた。


 実際、痛みはある。幼い頃から抱き続けた想いを、自分の手で終わらせようとしているのだから。


 それでも同時に、どこかほっとしていた。


 もう、次こそ振り向いてもらえるかもしれないと期待しなくていい。


 髪を褒めてもらえなかった理由を考えなくていい。


 告白を笑って流されるたび、自分の何が足りないのかと悩まなくていい。


「バーナード様……」


 新しい呼び方を、口の中で確かめる。


 ひどく遠い。


 けれど、今の二人には必要な距離だった。


 クレアは机の引き出しを開けた。


 中には、幼い頃に描いた一枚の絵が入っている。三人で魚釣りをした日の絵だ。


 真ん中にクレア。


 左右にシルヴェスターとバーナード。


 三人とも丸い顔で、バーナードだけが熊のように大きく描かれている。


 昔、同じ絵を二枚描き、一枚をバーナードへ渡した。彼は今も持っているだろうか。


「楽しかったわ、とっても」


 クレアは絵の中の三人へ微笑んだ。


 あの日々を嫌いになる必要はない。


 バーナードを好きだった自分を、恥じる必要もない。


 大切だった。


 本当に、大好きだった。


 けれど、昔の幸せな思い出と、これから選ぶ未来は別のものだ。


 クレアは絵を引き出しへ戻し、そっと閉じた。代わりに新しい紙を机へ広げる。


 白磁のカップ。


 二輪の花と、小さな蕾。


 まだ花の種類も、色も決めていない。


 けれど、それを考える時間が楽しかった。


 クレアは鉛筆を手に取る。


 今度は誰かに選んでもらうためではなく、自分が美しいと思うものを描くために。


 夕食の席で、クレアはいつも通りに振る舞った。


 父へ、図案の整理が進んだことを話す。母とシルヴェスターには、王都で暮らす際に必要なものを尋ねた。


 フランシスとは、工房へ送る図案を何枚に絞るか相談した。バーナードにも、必要な時には礼儀正しく話しかけた。


「バーナード様、そのお皿を取っていただけますか」


 食卓の空気が、一瞬だけ止まった。


 シルヴェスターが驚いたように妹を見る。フランシスもわずかに目を見開いた。


 バーナードは皿へ伸ばしかけた手を止めた。


「……ああ」


 低く答え、クレアへ皿を渡す。


「ありがとうございます」


 クレアは微笑んだ。


 けれど、もう「バーニー」とは呼ばなかった。


 シルヴェスターは二人を交互に見たものの、食事中に尋ねることはしなかった。フランシスも何も言わない。ただ、クレアが無理をしていないか確かめるように、時折静かな視線を向けていた。


 バーナードには、食事の味がほとんど分からなかった。


 クレアはすぐ近くにいる。以前と同じ食卓で、同じように笑っている。


 それなのに、自分からひどく遠い。


 たった一つ、呼び方が変わっただけ。


 そのはずなのに。


 幼い頃から自分だけのものだった呼び名を失ったことで、クレアとの間にあった年月まで、すべて遠ざかってしまったように感じた。


 食事を終え、クレアが立ち上がる。


「ごちそうさまでした。私は図案の続きをします」

「まだ作業をするの?」


 フランシスが尋ねる。


「少しだけよ」

「根を詰めすぎないようにね」

「分かっているわ」


 クレアは楽しそうに笑った。


 その笑顔は、以前なら真っ先にバーナードへ向けられていた。


 今はフランシスへ向けられている。


「おやすみなさい、お父様、お母様。お兄様、フランシス」


 そこで一度、クレアの視線がバーナードへ移った。


「バーナード様も、よい夜を」


 彼女は静かに一礼し、食堂を出ていった。


 扉が閉じる。


 しばらく誰も口を開かなかった。


「何があった?」


 やがて、シルヴェスターがバーナードへ尋ねた。


「何も」

「何もないわけがないだろう。クレアがお前を、あんなふうに呼ぶのは初めてだ」


 バーナードは答えられなかった。


 自分が何を失ったのか、まだ言葉にできない。ただ、クレアが告げた言葉だけが、頭の中で繰り返されていた。


『もう、追いかけないわ』


 それは、自分が望んでいたはずのことだった。


 クレアには、同じ年頃の男を見た方がいい。


 いつまでも自分へ子どものような恋をしているべきではない。


 何度もそう言った。


 そしてクレアは、ようやくその言葉を受け入れた。


 それなのに。


 胸の奥にあるのは安堵ではなく、息ができなくなるほどの喪失感だった。


 クレアはもう、追いかけてこない。


 王都から帰っても、玄関まで駆けてこないかもしれない。


 何をしていても、バーナードを探さないかもしれない。


 好きだと、笑わないかもしれない。


「俺は……」


 掠れた声が漏れる。


 けれど、その先に続ける言葉は見つからなかった。


 今までクレアの好意は、そこにあって当然のものだった。どれほど受け流しても、決してなくならないと思っていた。失う可能性を考えたことさえなかった。だから、自分の気持ちを確かめる必要もなかった。


 けれど今。


 初めてバーナードは、クレアが自分のもとから離れていくのだと知った。


 そして、そのことが耐え難いほど苦しい理由を、もう見ないふりはできなくなり始めていた。


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