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いつまでも夢見る少女ではいられない〜兄の親友への初恋を手放して、新しい恋を選びます〜  作者: 黒猫と珈琲


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第七話 君にしか描けないもの

 足をくじいてから三日が過ぎた。


 腫れはほとんど引き、クレアは室内なら不自由なく歩けるようになっていた。けれど医師から、長く歩き回るのはまだ控えるようにと言われている。そのため、この三日間は自室や庭園の東屋で過ごすことが多かった。


 最初の一日は、フランシスが持ってきてくれた花を描いた。細い茎の先に集まって咲く白い花。花びらの縁にだけ滲んだ、淡い水色。


 次の日には、その花を組み合わせた刺繍模様を考えた。円を描くように花と葉を並べ、その間へ小さな蕾を入れる。布に刺しても綺麗だが、白磁の皿の縁に描いても似合いそうだった。描き始めると、次々に新しい形が浮かんでくる。花の模様だけではない。


 森の泉で見た水草。魚釣りの日に見つけた、光を受けて輝く鱗。湖の水面に広がった波紋。フランシスと話したことを思い出しながら描いていると、どれもただの草花や生き物ではなく、暮らしの中で使われる模様へ変わっていった。クレアは机へ向かい、細かな線を描き込んでいた。


「お嬢様」


 侍女が扉を叩き、顔を覗かせる。


「フランシス様がお見えです」

「フランシスが?」


 クレアは思わず顔を上げた。その拍子に、指先から鉛筆が転がり落ちる。侍女はそれを拾い、机の上へ戻した。


「お通ししてもよろしいですか?」

「ええ。もちろんよ」


 答えてから、クレアは慌てて机の上を見た。描きかけの紙が何枚も散らばっている。湖の絵。水草の図案。魚の鱗を並べた縁飾り。


 その中には、フランシスを思い出しながら描いたものもあった。


「少し待って」

「どうなさいました?」

「机の上を片づけるわ」

「フランシス様は、すでに廊下でお待ちです」

「では、せめてこれだけでも――」


 クレアが紙を集めようとした時、開いた扉の向こうから笑いを含んだ声が聞こえた。


「隠されると、余計に見たくなるな」

「フランシス!」

「入っても?」


 そう尋ねながら、彼はすでに部屋へ一歩入っている。


「もう入っているでしょう?」

「では、お邪魔します」


 フランシスは悪びれずに笑った。


 今日は淡い青灰色の上着を着ている。銀金色の髪はいつも通り柔らかく整えられ、青紫色の瞳には楽しげな光が浮かんでいた。その姿を見ただけで、三日前の出来事が蘇る。


 森の中で抱き上げられたこと。すぐそばにあった顔。耳元へ届いた低い声。


『次に抱き上げる時は、怪我をしていない時がいいな』


 クレアの頬が、じわりと熱くなった。


「どうしたの?」

「何でもないわ」

「また顔が赤いけれど」

「部屋が暑いのよ」

「窓は開いているのに?」

「今日は暑いの」


 クレアが言い切ると、フランシスはそれ以上追及せず、机の近くへ進んだ。


「足はもういいの?」

「ええ。室内なら普通に歩けるわ」

「痛みは?」

「少しだけ。強く踏み込まなければ大丈夫よ」

「本当に?」

「本当よ」


 クレアは椅子から立ち上がり、数歩歩いてみせた。


「ほら」

「無理に証明しなくてもいいよ」

「フランシスが疑うからでしょう?」

「君は平気な顔で無理をするから、仕方がない」


 そう言って、フランシスはクレアの足元を見た。ただ怪我を心配しているだけなのに、その視線を意識してしまう。クレアは裾を整え、そっと椅子へ戻った。


「それで、今日はどうしたの?」

「退屈しているかと思って」

「絵を描いていたから、退屈はしていないわ」

「そのようだね」


 フランシスの視線が、机の上へ向かう。クレアは慌てて紙の上へ腕を置いた。


「まだ描きかけよ」

「描きかけでも構わない」

「人に見せるつもりで描いたものではないの」

「私にも?」

「フランシスは細かいところまで見るもの」

「褒めてくれている?」

「少し困っているのよ」


 フランシスは楽しそうに笑った。それでも無理に紙へ手を伸ばそうとはしない。


「では、君が見せてもいいと思ったものだけでいい」


 そう言われると、かえって隠し続けるのが申し訳なくなる。クレアは迷った末、一番上に置いていた紙を取り上げた。


「これなら」


 差し出したのは、白い花を円形に並べた図案だった。フランシスは紙を受け取り、窓から差し込む光の下で眺める。


「この前、森で見た花だね」

「ええ。刺繍模様にしたら綺麗かと思ったの」

「刺繍だけ?」

「食器の縁にも使えるかもしれないわ。花をもう少し小さくして、葉を細くすれば」


 クレアは立ち上がり、フランシスの隣から図案を指差した。


「ここを繰り返すの。円形の皿なら、途切れずにつながるでしょう?」

「なるほど」

「でも、カップなら同じ形では窮屈になるから、花を二輪くらいに減らした方がいいと思うの」

「持ち手の近くに蕾を置くのは?」


 フランシスが尋ねる。


 クレアは少し考え、目を輝かせた。


「素敵だわ。持ち手を蔓のように見せれば、蕾とつながるもの」

「君なら、すぐに描けそうだね」

「待って。今、描いてみるわ」


 クレアは机へ戻り、新しい紙を取り出した。白磁のカップを横から見た輪郭を簡単に描き、その側面へ花を二輪、持ち手の近くへ小さな蕾を添える。蔓が持ち手に沿うよう、細い線を引いた。


「こうかしら」


 フランシスが肩越しに覗き込む。顔が近づき、クレアの手が止まった。


「どうしたの?」

「近いわ」

「絵が見えないから」

「反対側から見ればいいでしょう?」

「こちらの方がよく見える」


 耳元で声が聞こえる。クレアは三日前のことを思い出し、また胸が高鳴り始めた。


「フランシス」

「何?」

「少し離れて」

「嫌?」


 その問いに、すぐには答えられなかった。


 嫌ではない。


 だから困るのだ。


「絵を描きにくいの」

「それなら仕方がないな」


 フランシスは素直に一歩下がった。離れてしまうと、なぜか少しだけ寂しく感じる。


 自分で離れてほしいと言ったのに。


 クレアは気持ちをごまかすように、図案へ線を加えた。


「できたわ」


 描き上げた紙をフランシスへ渡す。彼は先ほどよりも長い時間、黙って図案を見つめた。


「どう?」


 何も言われないため、クレアは不安になる。


「変だった?」

「いや」


 フランシスは顔を上げた。


「驚いているんだ」

「何に?」

「これを、今思いついて描いたことに」

「フランシスが蕾を置くといいと言ったからよ」

「私は一言、思いつきを口にしただけだよ」


 彼はもう一度、図案へ目を落とした。


「君は、それをすぐに形にした」

「これくらいなら、誰にでもできるわ」

「できないよ」


 穏やかだが、きっぱりとした声だった。


「少なくとも、私にはできない」

「フランシスは絵を描かないもの」

「絵を描ける人でも、皆がこういう図案を考えられるわけではない」


 彼は机の上へ並んだほかの紙を見る。


「こちらも見せてもらっていい?」


 クレアは少し迷ったが、今度は頷いた。


「ええ」


 フランシスは一枚ずつ、丁寧に紙を手に取った。


 水草を連ねた縁飾り。


 魚の鱗を重ね、波のように見せた模様。湖面に広がる波紋を、織物用に単純化した図案。


 小鳥と木の実を組み合わせた刺繍模様。


「これは、市場でもらった木彫りの鳥?」

「ええ。窓辺に置いていたら、木の実と一緒に描きたくなったの」

「あの鳥が、こんなに立派になったんだね」

「元の鳥も可愛いわよ」

「君が描いた方が好きだな」


 フランシスは微笑み、次の紙を取った。


 クレアはその横顔を見つめる。


 バーナードに絵を見せた時も、褒めてもらえなかったわけではない。昔から上手だと言ってくれた。クレアが花や魚を描くたび、可愛い趣味だと笑ってくれた。


 それで十分だと思っていた。


 けれどフランシスは、一枚ごとに足を止めてくれる。


 なぜこの形にしたのか。


 どこへ使いたいのか。


 別の素材なら、どのように変えるのか。絵そのものだけではなく、その先まで見ようとしてくれる。


「クレア」


 呼ばれ、クレアは我に返った。


「何?」

「これまで、誰かに習ったことは?」

「絵の先生には、少しだけ。でも、風景画や人物画の描き方が中心だったわ」

「図案については?」

「誰にも」

「すべて自分で考えたの?」

「ええ。好きなものを、こうしたら綺麗かもしれないと思って描いただけよ」


 フランシスは小さく息を吐いた。


「やっぱり、君は王都で学んだ方がいい」


 クレアは目を瞬いた。


「王都で?」

「以前、話したでしょう。食器や織物、家具の意匠を専門にする工房があると」

「ええ」

「絵を学ぶ学校もある。工房によっては、若い職人や図案を描く者を育てているところもあるよ」

「でも、それは職人になる方たちのためでしょう?」

「君も学べる」

「私が?」

「どうして驚くの?」

「だって、私は伯爵家の令嬢よ」


 クレアは戸惑いながら答えた。


「絵を描くのは好きだけれど、それを仕事にするなんて、考えたこともなかったわ」

「仕事にしなくてもいい」


 フランシスは椅子を引き、クレアと向かい合うように座った。


「けれど、もっと知りたいと思うなら、学ぶべきだ」

「私が王都へ行って?」

「そう」

「そんなこと、お父様が許してくださるかしら」

「尋ねてもいないのに、諦めるの?」


 まっすぐな言葉に、クレアは口を閉じた。フランシスは責めるような口調ではなかった。ただ、本当に不思議そうに見つめている。


「君は、王都に憧れていると言った」

「ええ」

「工房を見たいとも言った」

「でも、見ることと、そこで学ぶことは違うわ」

「何が違う?」

「私は今まで、ずっとここで暮らしてきたの。王都には、ほとんど行ったこともないし」

「最初から慣れている人はいないよ」

「それに、私より上手な人はたくさんいるでしょう?」

「それはもちろん」


 迷いのない返事に、クレアは少し肩を落とした。だがフランシスは、すぐに続ける。


「上手な人から学べることもある」

「でも……」

「君は、王都にいる誰かと同じ絵を描く必要はない」


 フランシスは机の上から、水草の図案を手に取った。


「王都の工房で育った人は、王都にあるものを見てきた」


 次に、魚の鱗を描いた紙へ触れる。


「けれど君は、この領地の川や森を知っている。魚を釣り、虫を手に乗せ、湖の中を走り回ってきた」

「湖の話は忘れて」

「忘れられそうにないな」


 クレアが赤くなると、フランシスは少し笑った。


「でも、本当に大切なことだよ」


 彼は真剣な表情へ戻る。


「君が描く草花や生き物には、ただ見たものを写しただけではない温かさがある」

「温かさ?」

「君が、それらを好きだからだ」


 フランシスは、水草の図案をクレアの前へ置いた。


「これは、君にしか描けない」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が震えた。上手だと褒められたことはある。可愛らしい絵だと言われたこともある。けれど、君にしか描けないと言われたのは初めてだった。


 クレアは図案を見下ろす。


 森の泉に生えていた水草。


 今までは、形が面白いから描いただけだった。それが何かになるなど、考えたこともない。


「本当に、そう思う?」


 声が少し震えた。


「思っているよ」


 フランシスは迷わず答えた。


「君には才能がある」

「才能なんて、大げさだわ」

「なぜ、そんなに否定するの?」

「だって……」


 クレアは言葉に詰まった。


 自分の絵を、自分だけの価値があるものだと考えたことがなかった。


 好きだから描く。


 退屈な時に描く。


 誰かへ贈るために描く。


 それだけで十分だった。


 それ以上を望んでいいとは、思っていなかった。


「誰かに、そう言われたの?」


 フランシスが静かに尋ねる。


「絵は趣味にしておくべきだと」

「いいえ。誰にも」

「では、君自身が決めつけているだけだ」


 否定できなかった。


 クレアは十八歳になった。そろそろ縁談について考える年頃だ。伯爵家の令嬢としてふさわしい相手と結婚し、家を守る。いつかはバーナードが振り向いてくれると信じ、その日を待ってきた。それ以外の未来を、思い描こうともしなかった。


「私、ずっと」


 クレアは膝の上で手を組んだ。


「いつかバーニーのお嫁さんになれたら、それで幸せだと思っていたの」


 フランシスは何も言わず、続きを待っている。


「バーニーが王都で騎士を続けるなら、私も王都へ行く。領地へ戻るなら、一緒に戻る。そういう未来ばかり考えていたわ」

「彼が選んだ場所へ、君も行く?」

「ええ」

「君自身が行きたい場所ではなく?」


 その問いが、胸に刺さった。クレアは答えられなかった。これまで一度も、自分がどこで何をしたいのかを考えたことがない。バーナードのそばにいられるなら、どこでもいいと思っていた。彼の妻になれるなら、それ以外は望まないつもりだった。


 けれど今。


 王都の工房を見てみたい。


 意匠を学んでみたい。


 自分の描いた模様が食器や織物になり、誰かの手へ渡るところを見てみたい。初めて、バーナードとは関係のない未来を想像している。


「怖いわ」


 クレアは正直に口にした。


「何が?」

「そんなことを考えるのが」

「どうして?」

「今までの自分ではなくなってしまいそうだから」


 ずっとバーナードを好きだった。彼を追いかける自分が、クレアにとって当たり前だった。それをやめたら、自分には何が残るのだろう。


「変わるのは、悪いこと?」


 フランシスが尋ねる。


「分からないわ」

「私は、悪いことだとは思わない」


 彼はクレアの描いた紙を、丁寧に机へ並べた。


「君が今まで好きだったものを、捨てる必要はないよ」

「でも、新しいものを選んだら、昔と同じではいられないでしょう?」

「同じでいる必要がある?」


 クレアは顔を上げた。


「君は、ずっと子どもの頃のままではいられない」


 フランシスの声は優しかった。


「好きなものも、望むものも変わる。今まで知らなかった世界を見れば、新しい夢ができることもある」


 彼は少し笑った。


「それは、裏切りではないよ」


 誰に対する裏切りなのか、フランシスは言わなかった。けれどクレアには分かった。


 バーナードへの気持ち。


 幼い頃から抱き続けた夢。


 ずっと変わらないと信じてきた自分。


 新しい未来へ心を動かされるたび、それらを裏切っているような気がしていた。


「王都で学びたいと思う?」


 フランシスが尋ねる。


 クレアはすぐには答えなかった。窓の外へ目を向ける。庭には、見慣れた花々が咲いている。


 生まれた時から暮らしてきた屋敷。


 幼い頃から歩いた庭園。


 兄とバーナードを追いかけた道。


 どれも大切だった。


 それでも今、胸の中には、まだ見たことのない王都の景色が広がり始めている。


 白磁の食器が並ぶ工房。


 色鮮やかな糸を扱う織物職人。


 家具へ彫刻を施す職人。


 紙いっぱいに図案を描く自分。


「見てみたい」


 クレアは、小さく答えた。


「王都の工房を?」

「ええ」


 声にすると、胸の奥が少し軽くなった。


「それから、学べるなら……学んでみたいわ」


 フランシスの表情が、明るくなる。


「君なら、きっとできる」

「まだ、お父様にお話ししてもいないのよ」

「まずは聞いてみればいい」

「反対されたら?」

「その時に、どうすればいいか一緒に考えよう」


 ごく自然に言われ、クレアは目を瞬いた。


「一緒に?」

「君を焚きつけておいて、あとは一人で頑張れとは言わないよ」

「でも、フランシスはもうすぐ王都へ帰るのでしょう?」

「帰ってからも、できることはある」


 彼は指を折りながら話し始めた。


「君に合いそうな工房を探す。女性を受け入れている学校も調べる。侯爵家の知り合いにも、意匠を学ぶ方法を尋ねてみるよ」

「そこまでしてくれるの?」

「私がそうしたいから」

「どうして?」

「また聞くの?」


 フランシスが困ったように笑う。


「君は、なかなか気づいてくれないね」

「何のこと?」

「まだ言わない」

「ずるいわ」

「今の君は、初めて見つけた夢のことだけを考えればいい」


 そう言われると、それ以上尋ねられなかった。けれど、フランシスの眼差しがただの親切だけではないことは、クレアにも少しずつ分かり始めている。


 湖で見つめられた時。


 森で抱き上げられた時。


 そして今、自分の未来を語る彼の瞳。そのすべてが、クレアだけへ向けられている。


「ありがとう、フランシス」

「どういたしまして」

「私の絵を、こんなに真剣に見てくれて」

「見る価値があるから見ているんだよ」

「それでも、ありがとう」


 クレアは机に並んだ図案を見た。


 今までは、誰かに見せるためでも、何かに使うためでもなく描いていたもの。けれど今日は、その一枚一枚が未来へ続く扉のように見えた。


 その日の午後。


 クレアは父へ話をするため、図案を抱えて執務室へ向かった。足はもうほとんど痛まない。それでも急がず、慎重に廊下を歩く。途中で、バーナードと出会った。


「クレア」


 彼はクレアの足元を見て、眉を寄せた。


「もう歩いていいのか?」

「ええ。医師からも、室内なら大丈夫だと言われているわ」

「それでも、無理はするな」

「分かっているわ」


 バーナードの視線が、クレアの抱えている紙へ移る。


「それは?」

「私が描いた図案よ」

「父君に見せるのか?」

「ええ。少し、お話ししたいことがあるの」

「何の話だ?」


 クレアは一瞬迷った。


 まだ父が許してくれるかも分からない。自分の中でも、決意が固まったばかりだ。けれど隠す必要もないと思い、正直に答えた。


「王都で、意匠を学べないか相談するの」

「王都で?」


 バーナードの表情が変わった。


「どうして急に」

「フランシスが、私の絵を見てくれたの」

「フランシス殿が?」

「王都には、食器や織物、家具の意匠を学べる場所があるそうよ」


 クレアは胸元の図案へ目を落とした。


「私の絵は、ただの趣味ではなくて、もっと別のものにつながるかもしれないと言ってくれたの」

「別のもの?」

「お仕事にできるかもしれないし、そうでなくても、もっとたくさん学べるわ」


 話しているうちに、声が弾む。


「私、王都の工房を見てみたいの。自分の描いた模様が、本当に食器や布にできるのか知りたい」


 バーナードは何も言わなかった。


 クレアが絵を描くことは、昔から知っている。花を描き、鳥を描き、魚を描く。幼い頃には、バーナードの顔も何度も描いてくれた。少しずつ上手くなっていることにも、気づいていた。けれど、それを将来につながるものとして考えたことは一度もなかった。


 クレアが好きで続けている、可愛らしい趣味。


 そう思っていた。


「危険ではないのか」


 ようやく出た言葉は、自分でも驚くほど硬かった。


「何が?」

「王都で暮らすことだ。お前は王都のことを何も知らない」

「だから、学びたいのよ」

「知らない土地で、知らない者たちに囲まれるんだぞ」

「お兄様もいるわ。フランシスも、工房を探すのを手伝ってくれると言っているの」


 フランシスの名前が出るたび、胸の奥がざわつく。


「侯爵令息の言葉を、簡単に信じるな」


 思わず口にすると、クレアの表情が曇った。


「どうして、そんなことを言うの?」

「王都の貴族が、皆親切だけで動くと思うな」

「フランシスは、私の絵をきちんと見てくれたわ」

「まだ出会って、いくらも経っていないだろう」

「時間の長さは関係ないわ」


 クレアの声が少し強くなる。


「フランシスは、私が何を描こうとしているのか聞いてくれた。どこに使えるか、一緒に考えてくれたの」

「俺だって、お前の絵は昔から知っている」

「ええ」


 クレアは静かに頷いた。


「バーニーは、昔の私の絵を覚えていてくれたわ」

「それの何が悪い」

「悪くないわ。嬉しかったもの」


 クレアは図案を抱く腕へ力を込めた。


「でも、フランシスは今の私が描いたものを見てくれたの」


 バーナードは言葉を失った。


「昔より上手くなったかではなくて、これから何ができるのかを考えてくれた」

「俺は……」

「バーニーを責めているわけではないの」


 クレアは小さく笑った。


 その笑顔は優しかったが、どこか遠く見えた。


「私も、今まで絵を将来につなげようなんて考えたことがなかったもの」

「なら、なぜ今になって」

「初めて、できるかもしれないと言ってくれる人がいたからよ」


 その言葉が、バーナードの胸へ重く落ちた。自分は何度、クレアの絵を見ただろう。何度、彼女が嬉しそうに新しい図案を持ってきただろう。そのたびに、上手だと頭を撫でた。可愛い趣味だと笑った。


 クレアはそれで嬉しそうにしていたから、十分だと思っていた。


 だが本当は。


 彼女の絵がどれほど変わったのか。


 何を描こうとしているのか。


 何になりたいのか。


 自分は一度も、真剣に尋ねなかった。


「では、行ってくるわ」


 クレアが執務室へ向かおうとする。


「待て」


 バーナードは反射的に腕をつかみかけた。けれど、湖でフランシスに言われた言葉を思い出す。


『誰と親しくするかは、彼女自身が決めることでしょう』


『彼女がほかの誰かに大切にされることまで、邪魔しないでほしい』


 伸ばしかけた手を、静かに下ろした。


「何?」


 クレアが振り返る。


「……いや」


 引き止める理由が見つからなかった。


 王都へ行くな。


 フランシスの言葉を信じるな。


 絵は趣味のままでいい。


 そんなことを言う権利が、自分にあるのだろうか。


「父君と、よく話し合え」


 結局、それだけを口にした。


「ええ。そうするわ」


 クレアは微笑み、今度こそ歩き出した。バーナードは、その後ろ姿を見送る。以前のクレアなら、何かを決める前に、必ずバーナードへ相談した。


『バーニーは、どう思う?』


『バーニーがいいと言うなら、そうする』


 そう言って、彼の答えを待っていた。


 けれど今日は違う。


 クレアはすでに、自分の望みを見つけていた。バーナードの意見を求めることもなく、自分の足で父のもとへ向かっている。その変化を嬉しいと思うべきなのだろう。いつまでも子どものままではいられないと、彼女自身が気づいたのだから。


 それなのに。


 遠ざかる背中を見ていると、何か大切なものが自分の手からこぼれ落ちていくように思えた。


     ◇


 父の執務室には、シルヴェスターもいた。クレアが恐る恐る王都で学びたいと切り出すと、父は驚いた顔をした。けれど、すぐに反対はしなかった。クレアの持ってきた図案を、時間をかけて一枚ずつ見てくれた。


「これをすべて、お前が考えたのか?」

「はい」

「誰かに教えられたわけではなく?」

「フランシスから、食器や布に使えるかもしれないと教えてもらいました。でも、図案は自分で考えました」


 父は水草の模様を手に取り、感心したように頷く。


「領地の植物を使っているのだな」

「はい。この水草は、森の泉に生えているものです」

「こちらは?」

「川の魚の鱗を、波に見えるように並べました」


 クレアが説明するたび、最初は驚いていた父の表情が、少しずつ真剣になっていく。


「なるほど」


 父は図案を机へ戻した。


「お前がこれほど考えて描いていたとは、知らなかった」

「私も、ただ好きで描いていただけでした」

「王都で学ぶことについては、すぐに返事はできない」

「はい」

「どこで学べるのか。どのような生活になるのか。安全な場所なのか。それを調べる必要がある」


 クレアは膝の上で手を握った。


 反対されなかった。


 それだけで胸が熱くなる。


「ただし」


 父の言葉に、クレアは姿勢を正す。


「本気で学びたいのなら、私は応援したいと思っている」

「お父様……」

「領地の外を知ることは、悪いことではない。お前が学んだ意匠を、この土地の工房で生かすこともできるだろう」


 父は穏やかに笑った。


「シルヴェスターは、どう思う?」


 尋ねられた兄は、迷わず答えた。


「クレアが望むなら、よいと思います」

「お兄様」

「王都には俺もいる。困ったことがあれば、すぐに頼ればいい」


 シルヴェスターは少し笑い、付け加えた。


「ただし、知らない男に簡単についていくなよ」

「お兄様まで、バーニーと同じようなことを言うのね」

「兄だからな。心配くらいはする」

「フランシスは知らない方ではないわ」

「それは分かっている」


 兄の笑顔には、バーナードのような険しさはない。


「だが、クレアが王都へ行く理由は、フランシス殿だけにするな」


 思いがけない言葉に、クレアは目を瞬いた。


「どういうこと?」

「誰かを追いかけるためではなく、自分が学びたいから行きなさいということだ」


 胸の奥を見透かされたようだった。


 以前のクレアなら、バーナードが王都にいるというだけで、何の迷いもなく向かっただろう。


 けれど今は違う。


「ええ」


 クレアは、しっかりと頷いた。


「自分のために行きたいわ」


 口にした瞬間、その言葉が胸の中へ真っ直ぐ収まった。


 フランシスのためでもない。


 バーナードを追いかけるためでもない。


 自分が見たいから。


 自分が学びたいから。


 初めて見つけた、自分自身の望みだった。執務室を出ると、廊下の窓辺にフランシスが立っていた。クレアを待っていたらしい。姿を見つけると、すぐに近づいてくる。


「どうだった?」

「すぐには決められないけれど、調べてくださるって」


 クレアは笑顔を抑えきれなかった。


「本気で学びたいなら、応援したいとおっしゃってくださったわ」

「よかった」


 フランシスも、自分のことのように嬉しそうに笑った。


「お兄様も、王都で困ったら頼ればいいと言ってくれたの」

「それなら、安心だね」

「でも、誰かを追いかけるためではなく、自分のために行きなさいって」


 フランシスは少し驚いたあと、穏やかに頷いた。


「シルヴェスター殿は、よく分かっている」

「ええ」

「君は、どう答えたの?」

「自分のために行きたいって」


 フランシスの青紫色の瞳が、柔らかく細められた。


「それを聞けて嬉しいよ」

「どうして?」

「君が誰かの後ろを追いかけるのではなく、自分で歩こうとしているから」


 クレアは自分の足元を見た。まだ少しだけ痛みは残っている。けれど以前よりも、しっかりと立てている気がした。


「フランシスが教えてくれたからよ」

「私は、選択肢を見せただけだ」

「それでも」

「選んだのは君だよ」


 その言葉が、嬉しかった。


 クレアは顔を上げる。


「では、王都の工房を探してくれる?」

「もちろん」

「私に合う場所があるかしら」

「きっとある」

「どうして、そんなに自信があるの?」


 フランシスは、クレアが抱えている図案を一枚取り上げた。白い花を並べた、最初の図案だ。


「これを見たから」

「それだけ?」

「それだけで十分だよ」


 彼は図案をクレアへ返す。


「君にしか描けないものがある。あとは、それをどう形にするか学べばいい」


 クレアは紙を胸元へ抱いた。


 まだ王都へ行けると決まったわけではない。どこで学ぶのかも、何を作れるのかも分からない。それでも、昨日までとは違う。未来は、ただ誰かが選んでくれるのを待つものではない。自分で望み、自分で手を伸ばしてもいいのだ。


「ありがとう」


 クレアが言うと、フランシスは少しだけ首を傾げた。


「今日、何度目?」

「何度でも言うわ」

「それなら、受け取っておくよ」


 彼は笑い、クレアの歩幅に合わせて隣を歩き始める。廊下の先には、夏の光が差し込んでいた。クレアはもう、誰かの背中だけを見てはいなかった。隣にいるフランシスと同じ方向を見ながら、自分の足で一歩ずつ進んでいた。


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