第六話 本でしか知らなかったこと
湖へ出かけた翌朝。
クレアは自室の窓辺に立ち、庭を眺めていた。朝露の残る花壇の向こうを、使用人たちが忙しなく行き交っている。空はよく晴れ、今日も暑くなりそうだった。
けれどクレアの意識は、庭の景色には向いていなかった。
「気になったよ。とても」
昨日、フランシスに言われた言葉が、何度も頭の中で繰り返される。思い出すたび、胸の奥が落ち着かなくなった。
いつも余裕のある彼が、顔を赤くして視線を逸らした。クレアの濡れた姿を見て、一人の女性として意識した。
その事実が恥ずかしい。けれど、嫌ではなかった。
むしろ、嬉しいと思ってしまった自分に、クレアは一番戸惑っていた。
「お嬢様、髪はいかがなさいますか?」
鏡台の前で待っていた侍女が尋ねる。
「今日は、いつも通りでいいわ」
「ハーフアップですね」
「ええ」
クレアは窓辺を離れ、鏡台の前へ座った。侍女が蜂蜜色の髪を丁寧に梳かしていく。
「昨日は、ずいぶん楽しかったようですね」
「え?」
「お戻りになってからも、何度も笑っていらっしゃいましたから」
「そうだったかしら」
「はい。それに、フランシス様のお話をなさるたび、頬を染めていらっしゃいましたよ」
クレアは鏡越しに侍女を見た。
「それは、陽射しを浴びたからよ」
「そういうことにしておきます」
侍女は意味ありげに笑う。
「もう。変なことを考えないで」
「私は何も申しておりません」
「顔に書いてあるわ」
「お嬢様も、よくお顔に出ますよ」
フランシスにも、同じことを言われた。
クレアはますます恥ずかしくなり、鏡から目を逸らした。
朝食のあと、クレアは庭園の東屋でスケッチ帳を広げていた。今日の午前中、フランシスは父とともに北部の牧草地を視察する予定になっている。午後からは自由だと聞いていたが、まだ何をするかは決めていなかった。
描こうとしているのは、昨日訪れた湖の景色だ。水面へ映り込む木々。陽射しを受けて輝く水。浅瀬で跳ねた白い飛沫。
鉛筆を動かしていると、どうしてもフランシスの姿まで思い出してしまう。
濡れた銀金色の髪。息を弾ませながら笑っていた顔。急に低くなった声。
「駄目だわ」
クレアは鉛筆を置き、両手で頬を押さえた。
「何が駄目なの?」
すぐ近くから声がして、クレアは肩を跳ねさせた。振り返ると、東屋の入口にフランシスが立っている。
「フランシス!」
「驚かせた?」
「いつからそこにいたの?」
「今来たところだよ」
淡い銀金色の髪を揺らしながら、フランシスが東屋へ入ってくる。今日も視察へ出るため、動きやすい服装をしていた。
「牧草地へ行くのではなかったの?」
「その予定だったけれど、急な来客があって、伯爵の都合が悪くなったんだ」
「では、視察は中止?」
「午後へ延期になったよ」
フランシスはクレアの向かい側へ腰を下ろし、開かれたスケッチ帳へ視線を落とした。
「昨日の湖?」
「ええ。まだ描き始めたばかりだけれど」
「見てもいい?」
「どうぞ」
クレアはスケッチ帳を彼の方へ向けた。
フランシスは黙って絵を見つめる。まだ輪郭を描いただけで、景色らしい形にもなっていない。それでも彼は、いつも通り真剣に見てくれた。
「ここにいるのは、私?」
「え?」
フランシスが指差した先には、湖の浅瀬に立つ小さな人影があった。景色だけを描くつもりだったのに、いつの間にか描き込んでいたらしい。
「ち、違うわ。たまたま人のような形になっただけよ」
「そう?」
「そうよ」
「髪が私と同じくらいの長さに見えるけれど」
「遠くの木かもしれないでしょう?」
「木にしては、随分と細いね」
フランシスは楽しそうに笑った。クレアは慌ててスケッチ帳を閉じる。
「まだ描きかけなのだから、細かいところまで見ないで」
「私を描いてくれたのなら、嬉しかったんだけれど」
「描いていないわ」
「残念だな」
フランシスはそう言いながらも、少しも残念そうには見えなかった。
「それより、今日はどこへ行こうか」
「午後は視察でしょう?」
「それまで時間がある。近くなら出かけられるよ」
「では、森の小道を散歩する?」
「昨日も森を通ったけれど」
「あの森とは反対側よ。珍しい草花がたくさん咲いているの」
「君が絵に描いている花も?」
「ええ。運がよければ、白い小花が一面に咲いている場所も見られるわ」
「いいね。行ってみたい」
フランシスはすぐに答えた。
「決まりだね」
「では、支度をしてくるわ」
クレアがスケッチ帳を抱えて立ち上がると、フランシスも席を立った。
「今日は虫を近づけないでくれる?」
「森へ行くのだから、約束はできないわ」
「やっぱり、聞くだけ無駄だったかな」
「珍しい虫がいたら、遠くから見せてあげる」
「それなら受け入れよう」
二人は笑いながら、東屋を出た。
森の入口までは、屋敷から歩いて行ける距離だった。今回は遠出ではないため、侍女が一人、少し離れてついてくる。
森の中へ入ると、木々が強い陽射しを遮り、空気が少しだけ涼しくなった。小道の両側には夏草が生い茂り、その隙間から黄色や白の小さな花が顔を覗かせている。
「足元に気をつけて」
クレアは後ろを歩くフランシスへ声をかけた。
「昨日から、そればかり言われている気がする」
「フランシスは慣れていないでしょう?」
「王都にも森くらいあるよ」
「整えられた公園ではなくて?」
「否定できないな」
フランシスは苦笑する。
クレアは小道を外れ、木の根元に咲く花へ近づいた。
「見て。これがさっき話していた花よ」
細い茎の先に、小さな白い花がいくつも集まって咲いている。花びらの縁だけが、淡い水色に染まっていた。
「綺麗だね」
「朝露が残っている時は、もっと青く見えるの」
クレアはしゃがみ込み、スケッチ帳を開いた。
「少しだけ描いてもいい?」
「もちろん」
フランシスも隣へ腰を落とした。クレアが鉛筆を動かす横で、彼は花と絵を交互に見つめる。
「迷わず線を引くんだね」
「迷っているわよ」
「そうは見えない」
「たくさん描いてきたから、慣れているだけ」
クレアは花の輪郭を描きながら答えた。
「子どもの頃から、草花ばかり描いていたの」
「バーナードにも見せていた?」
何気なく尋ねられ、クレアの手が一瞬止まる。
「ええ」
「彼は何と言っていた?」
「可愛い趣味だと」
クレアは小さく笑った。
「昔は、褒めてもらえたことが嬉しかったの。バーニーが絵を覚えていてくれるだけで、特別なことだと思っていたから」
「今は?」
「今も、覚えていてくれるのは嬉しいわ」
嘘ではない。小さい頃に描いた熊のようなバーナードの絵を、彼が今も覚えていることは嬉しかった。
けれど、今描いているものまで昔の延長として見られるのは寂しい。
「でも、少しだけ」
クレアは、描きかけの花を見つめた。
「今の私の絵も見てほしかったのかもしれない」
口にしてから、自分がそんなことを考えていたのだと気づいた。
フランシスは笑わなかった。
「それは、当然だと思う」
「そうかしら」
「今の君が描いたものは、今の君にしか描けないから」
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちた。クレアは顔を上げる。青紫色の瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。
「フランシスは、いつも真剣に見てくれるのね」
「君が真剣に描いているからだよ」
「好きで描いているだけよ」
「好きでも、続けるのは簡単じゃないよ」
フランシスは花へ視線を移した。
「それに、君は見たものをそのまま描いているわけではないでしょう?」
「どういう意味?」
「同じ花でも、君の絵には、その時の気持ちが出ている」
初めて会った日にも、同じようなことを言われた。寂しそうな花だと。
「先ほどの湖の絵も、楽しそうだった」
「まだ、ほとんど描いていなかったのに?」
「それでも分かったよ」
「どうして?」
「私が描かれていたから」
「だから、あれは木よ」
「まだ言うの?」
フランシスが笑い、クレアも堪えきれずに笑った。
しばらく進むと、小道は緩やかな下り坂になった。地面には木の根が張り出し、ところどころ落ち葉が積もっている。
「この先に、小さな泉があるの」
クレアは振り返りながら説明した。
「水草が綺麗なのよ。器の縁飾りに使えそうな形をしているの」
「それは見てみたいな」
「でしょう? この前フランシスが、魚の鱗を食器の模様にできないかと言ったから、私もいろいろ考えてみたの」
「もう考えてくれたんだ」
「気になっただけよ」
「それでも嬉しいよ」
フランシスが柔らかく笑う。
クレアは前を向いた。あまり真っ直ぐ見つめられると、昨日のことを思い出してしまう。胸の奥が落ち着かなくなり、少しだけ歩く速度を上げた。
「クレア、急ぐと危ないよ」
「大丈夫。ここは何度も歩いているもの」
そう答えた直後だった。
靴の裏で、乾いた枝が折れた。足を置いた場所に落ち葉が厚く積もっており、その下に小さなくぼみが隠れていたらしい。
「あっ」
足首が不自然にひねられ、身体が大きく傾いた。
「クレア!」
倒れる前に、フランシスが腕をつかんだ。肩を抱き寄せられ、なんとか地面へ転ぶことは免れる。けれど足首には、鋭い痛みが走った。
「痛っ……」
「足をひねった?」
「少しだけ」
「動かさないで」
フランシスはクレアの身体を支えながら、ゆっくりと近くの倒木へ座らせた。離れて歩いていた侍女も、慌てて駆け寄ってくる。
「お嬢様!」
「大丈夫よ。少し足をくじいただけだから」
「見せて」
フランシスがクレアの前へ膝をついた。
「自分で確かめられるわ」
「今は意地を張らないで」
いつもより強い口調で言われ、クレアは黙った。フランシスは靴の上から、足首へそっと触れる。
「ここは?」
「少し痛いわ」
「こちらは?」
「そこは大丈夫」
指先は驚くほど慎重だった。
昨日は、クレアが女性としての自分を意識するほど近くにいたのに、今は少しも不埒な感じがしない。ただ本気で心配してくれている。
「腫れは、まだひどくないようですが……」
侍女が不安そうに言う。
「今すぐ屋敷へ戻って、冷やした方がいい」
フランシスが立ち上がる。
「歩ける?」
「もちろんよ」
クレアも立とうとした。けれど痛めた足へ力を入れた途端、身体がぐらりと揺れる。
「クレア」
すぐにフランシスが肩を支えた。
「これくらい平気よ」
「平気な人は、立っただけで顔をしかめたりしない」
「ゆっくりなら歩けるわ」
「駄目だよ」
「でも、屋敷までそれほど遠くないもの」
「だからといって、無理をして悪化させる必要はないでしょう」
フランシスは、きっぱりと言った。
「では、侍女に肩を借りるわ」
「彼女一人では支えきれない」
「それなら、フランシスにも少し――」
最後まで言い終える前に、身体がふわりと浮いた。
「きゃっ!」
クレアは反射的にフランシスの首へ腕を回した。背中と膝の裏へ腕を差し入れられ、正面から抱き上げられている。
「ちょっと、フランシス!」
「動かないで。落とすよ」
そう言われ、クレアは身体を固くした。
フランシスの顔が近い。昨日、水の中で向かい合った時よりも近いかもしれない。
青紫色の瞳も、長い睫毛も、思っていたより男らしい顎の線も、はっきりと見える。
「下ろして」
「嫌だ」
「歩けるわ」
「今、立てなかったでしょう」
「少し痛かっただけよ」
「少しでも痛むなら、歩かせない」
フランシスはクレアを抱いたまま、来た道を戻り始めた。侍女は一瞬驚いていたが、すぐに二人の後ろへついてくる。
クレアはフランシスの腕の中で、どうすればいいのか分からなくなった。
子どもの頃、バーナードに背負われたことは何度もある。大きな背中へ頬をつけ、首へ腕を回して眠ったこともあった。
けれど、正面から抱き上げられたのは初めてだった。顔を上げれば、すぐそこにフランシスがいる。胸へ耳を寄せれば、心臓の音まで聞こえそうな距離だ。
「こんなの……」
クレアは、ぽつりとつぶやいた。
「何?」
「本の中でしか見たことがないわ」
フランシスの足が、一瞬だけ止まった。
「本?」
「物語の中で、騎士がお姫様を抱き上げるの」
「私は騎士ではないけれど」
「剣術は習っているのでしょう?」
「一応はね」
「それなら似たようなものよ」
「君はお姫様ではないけれど」
「分かっているわ」
「でも」
フランシスの口元が、わずかに緩む。
「私にとっては、それほど違わないかもしれない」
「どういう意味?」
「今は考えなくていいよ」
さらりと話を終わらせようとされ、クレアは頬を膨らませた。
「フランシスは、時々ずるいわ」
「何が?」
「意味ありげなことを言って、すぐにごまかすもの」
「ごまかしてはいないよ」
「では、説明して」
「君を抱いて歩きながら?」
「今言ったのは、フランシスでしょう?」
「そうだけれど」
フランシスは少し困ったように笑った。
「今は平静を保つだけで精一杯なんだ」
「どうして?」
「それも聞くの?」
「だって、私は何もしていないわ」
「何もしていないから困っているんだよ」
クレアには、ますます分からなかった。けれどフランシスの耳が、少し赤くなっていることには気づいた。
昨日と同じだ。
「また顔が赤いわ」
「昨日も言ったけれど、何度も指摘しなくていい」
「暑いの?」
「君を抱いて歩いているからね」
クレアは、はっとした。
「もしかして、私重い?」
「その質問は、今しないでほしいな」
「どうして?」
「平静を保つので精一杯だから」
昨日とは違う意味で、胸が大きく鳴った。
フランシスの腕は、クレアの身体をしっかりと支えている。細身に見えるのに、少しも揺らがない。抱き上げられて初めて、その胸板が想像していたより厚いことにも気づいた。
首へ回していた腕をどうすればいいのか分からず、少し力を緩める。するとフランシスがクレアを抱き直した。
「離さないで」
「でも、苦しくない?」
「苦しくないよ。落とす方が怖い」
クレアは言われた通り、もう一度彼の首へ腕を回した。顔がさらに近づく。フランシスの息が、額へかかるほどだった。
「恥ずかしいわ」
「私もだよ」
「フランシスも?」
「私は君が思っているほど、余裕のある男ではないからね」
いつも女性の扱いに慣れているように見える。どんな言葉も自然に口にし、クレアが慌てれば楽しそうに笑う。
けれど今は、フランシスの表情にも緊張が滲んでいた。
「昨日は、あんなに私を追いかけていたのに」
「あの時は、水を掛けられた仕返ししか考えていなかったんだ」
「捕まえたあとは?」
「それを聞く?」
「フランシスは、私が聞くといつも困るのね」
「君が無防備すぎるからだよ」
フランシスは前を向いたまま、小さく息を吐いた。
「君は私を、男だと分かっている?」
「分かっているわ」
「本当に?」
すぐに尋ね返され、クレアは答えに詰まった。
昨日までは、分かっていたつもりだった。フランシスは侯爵家の令息で、洗練された美しい青年。女性に慣れていて、少し意地悪で、けれど優しい人。
それだけだった。
今は違う。
クレアを軽々と抱き上げられる腕。すぐそばにある胸。落とさないように力を込める手。低くなった声。
すべてが、フランシスが一人の男性なのだと意識させる。
「……今は、よく分かるわ」
正直に答えると、フランシスはわずかに目を見開いた。
「それは、喜んでもいいのかな」
「分からないわ」
「君は時々、とても正直だね」
「フランシスが聞いたのでしょう?」
「そうだった」
彼は困ったように笑った。その笑顔を見ていると、胸の高鳴りがさらに強くなる。
クレアは耐えきれず、フランシスの肩へ顔を寄せた。
「どうしたの?」
「顔を見られたくないの」
「なぜ?」
「恥ずかしいからよ」
「私は見たいけれど」
「駄目」
「残念だな」
口ではそう言いながらも、フランシスは無理に顔を覗き込もうとはしなかった。クレアの身体を抱き直し、歩き続ける。
肩越しに見える森の景色が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
バーナードに背負われた時は、大きな背中へ身体を預けるだけで安心した。どこへ連れていかれても、何も考えずにいられた。
けれど今は、安心よりも胸の高鳴りの方が強い。フランシスの顔が近いだけで、息の仕方まで分からなくなる。
これが、物語に書かれていたときめきなのだろうか。
クレアには、まだ分からなかった。
森の入口が見えてくると、クレアはようやく顔を上げた。
「もう下ろしても大丈夫よ」
「駄目」
「屋敷の人に見られてしまうわ」
「怪我をしたのだから、気にする必要はない」
「でも」
「歩かせて悪化する方が困る」
フランシスは、まったく譲る気がないようだった。
侍女が先に屋敷へ知らせに走り、しばらくすると使用人が二人、こちらへ向かってくるのが見えた。その後ろには、シルヴェスターとバーナードもいる。
「クレア!」
兄が駆け寄ってきた。
「何があった?」
「森で足をくじいたの。でも、それほどひどくないわ」
「それほどひどくないのに、なぜ抱えられている」
バーナードの低い声が重なる。彼の視線は、フランシスの腕の中にいるクレアへ向けられていた。
「歩こうとしたら痛かったから、フランシスが運んでくれたの」
「俺が代わる」
バーナードは迷いなく腕を伸ばした。
フランシスは足を止めたものの、すぐにはクレアを渡さない。
「屋敷までは、もうすぐです」
「お前も疲れただろう」
「問題ありません」
「クレアを抱いたまま、森を歩いてきたんだろう」
「ええ」
「なら、俺が運ぶ」
二人の間に、ぴんと張った空気が生まれる。
クレアは慌てて口を挟んだ。
「もう大丈夫よ。ここからは、肩を借りれば歩けるわ」
「駄目だ」
二人の声が重なった。
クレアは目を瞬く。フランシスとバーナードは、互いを見た。
「なぜ、二人とも同じことを言うの?」
「足を痛めているからだ」
バーナードが答える。
「歩かせられないよ」
フランシスも続けた。
「では、お兄様に――」
「俺が運ぶ」
バーナードが、今度こそ強い口調で言った。
クレアは、その顔を見つめた。いつになく険しい。けれど、子どもの頃から何度も見てきた表情でもある。
クレアが怪我をした時。危ない場所へ近づいた時。誰かに乱暴なことを言われた時。
バーナードは、いつもこんな顔をしていた。
「分かりました」
フランシスは静かに答えた。
「では、お願いします」
彼は慎重にクレアを下ろそうとする。バーナードは、その前へ背を向けてしゃがんだ。
「乗れ」
見慣れた大きな背中だった。
昔から何度も、クレアを乗せてくれた背中。疲れた時も、怪我をした時も。
ここへ乗れば、きっと安心できる。
クレアはそう思った。
けれど、すぐには腕を伸ばせなかった。
「クレア?」
バーナードが振り返る。
「どうした」
「何でもないわ」
クレアはフランシスの腕から離れ、バーナードの背中へ身を預けた。バーナードは軽々と立ち上がる。
「痛くないか?」
「ええ。大丈夫」
「しっかりつかまっていろ」
「分かっているわ」
広く、温かな背中。懐かしい匂い。
昔と変わらない安心感が、クレアを包む。
けれど、胸は先ほどとは違う意味で静かだった。フランシスに抱き上げられていた時のような高鳴りはない。
代わりにあるのは、幼い頃へ戻ったような懐かしさだった。
バーナードの背中は、今も安心する。
けれど。
それだけなのだろうか。
「重くなったな」
バーナードが不意に言った。
「女性に言う言葉ではないわ」
「子どもの頃と比べてだ」
「それでも言わないで」
「悪い」
バーナードは少し笑った。
昔なら、このやり取りだけで嬉しかった。背負ってもらえることが、誰よりも近くにいられることのように思えた。
今は、先ほどのフランシスの言葉を思い出してしまう。
『その質問は、今しないでほしいな』
『平静を保つので精一杯だから』
同じように身体を預けているのに、まるで違う。
バーナードは、クレアを昔と同じ少女として背負う。
フランシスは、クレアを一人の女性として抱き上げた。
その違いが、胸に残った。
「クレア」
後ろからフランシスが声をかける。振り返ると、彼は少し離れたところを歩いていた。
「屋敷へ戻ったら、すぐに冷やして」
「ええ」
「痛みが強くなったら、きちんと医師に診てもらうこと」
「分かったわ」
「無理をして歩いたりしないで」
「フランシスまで、バーニーみたいなことを言うのね」
「君が心配させるからだよ」
昨日と同じ言葉だった。
クレアは思わず笑う。
「もう、分かったわ」
その笑顔を見たフランシスも、柔らかく微笑んだ。
バーナードはクレアを背負ったまま、わずかに眉を寄せる。背中にいるクレアが、自分ではなく、後ろを歩くフランシスへ笑いかけている。
幼い頃なら、クレアはバーナードの首へしがみつき、耳元でずっと話し続けていた。今日あったこと。見つけた花。捕まえた虫。
眠くなるまで、何でも話してくれた。
だが今、彼女が話したい相手は、自分ではないのかもしれない。
そう思った途端、胸の奥が重くなった。
屋敷へ戻ると、クレアはすぐに自室へ運ばれた。
幸い、足首は軽くひねっただけで、骨にも異常はなかった。医師からは、今日はよく冷やして休み、数日は無理に歩かないようにと言われた。
「大したことがなくてよかった」
ベッドの脇で、シルヴェスターが安堵の息を吐く。
「だから言ったでしょう? 少し痛めただけだって」
「お前の『少し』は信用できない」
「お兄様まで」
クレアが頬を膨らませると、兄は苦笑した。
「今日はもう休みなさい。夕食も部屋へ運ばせる」
「分かったわ」
「欲しいものがあれば、侍女に言うんだぞ」
「はい」
シルヴェスターが部屋を出る。その後ろにいたバーナードも、クレアを振り返った。
「明日も安静にしていろ」
「バーニーも同じことばかりね」
「お前が言うことを聞かないからだ」
「聞くわよ」
「本当に?」
「今日は大人しくしているわ」
「今日だけでは駄目だ」
バーナードは呆れたように言いながらも、クレアの頭を軽く撫でた。
「何かあったら呼べ」
「ええ。ありがとう」
大きな手の感触は、昔から変わらない。
けれど以前のように、胸が弾むことはなかった。
バーナードが部屋を出たあと、入れ替わるようにフランシスが顔を覗かせた。
「入ってもいい?」
「もちろん」
彼は手に、小さな花束を持っていた。森で見つけた白い花と、淡い青色の花を束ねたものだ。
「これ……」
「侍女に頼んで、摘んできてもらったんだ」
フランシスはベッドのそばへ置かれた椅子に腰を下ろす。
「君が描きたがっていた花でしょう?」
「覚えていてくれたの?」
「もちろん」
花束を受け取り、クレアはそっと顔を近づけた。涼やかな香りがする。
「ありがとう。嬉しいわ」
「足は?」
「少し痛むけれど、大丈夫よ」
「本当に?」
「今度は本当」
フランシスは安心したように息を吐いた。
「無理に森へ誘ってしまったから、私にも責任がある」
「誘ったのは私よ。それに、勝手に転んだのも私だもの」
「それでも、もっと気をつけていればよかった」
「フランシスのせいではないわ」
クレアは花束を膝の上へ置き、彼を見つめた。
「運んでくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
「重かったでしょう?」
尋ねた途端、フランシスが目を細める。
「また聞くの?」
「だって、森の入口までずっと歩いたもの」
「重くはなかったよ」
「本当に?」
「本当」
彼は少しだけ身を乗り出した。
「ただ、別の意味で大変だった」
「別の意味?」
「君が近すぎたから」
クレアの頬が熱くなる。
フランシスは困ったように笑った。
「今も、まだ分からない?」
「少しは分かるわ」
「それならよかった」
「でも」
クレアは膝の上の花へ視線を落とした。
「私を抱き上げたのは、怪我をしていたからでしょう?」
「そうだよ」
「では、ほかの女性が怪我をしていても、同じようにする?」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。
フランシスは少し驚いたようにクレアを見る。それから、ゆっくりと笑った。
「必要なら、助けるだろうね」
「そうよね」
胸の奥が、わずかに沈む。
けれど、フランシスは続けた。
「でも、あれほど緊張するのは、君だけだと思う」
クレアは顔を上げた。
「どうして?」
「君だからだよ」
青紫色の瞳が、まっすぐクレアへ向けられる。冗談を言っている表情ではなかった。
「昨日も今日も、私は君に振り回されてばかりだ」
「私、何もしていないわ」
「だから困ると言ったでしょう?」
フランシスは笑いながらも、視線を逸らさなかった。
「君は何もしていないつもりで、私を困らせる」
「迷惑?」
「まさか」
彼はすぐに否定した。
「もっと困らせてほしいと思っているくらいだよ」
クレアは返す言葉を失った。
胸の奥が、また大きく鳴り始める。
バーナードへ好きだと伝えた時、こんなふうに見つめ返されたことはない。何を言っても、幼い子どもの言葉として笑われた。
けれどフランシスは、クレアの何気ない仕草一つにも揺れてくれる。クレアを見て、困り、赤くなり、それでも目を逸らさない。
「今日は、もう休んで」
フランシスが立ち上がる。
「長く話していると、伯爵やバーナードに叱られそうだ」
「お父様はともかく、どうしてバーニーに叱られるの?」
「それを私に聞く?」
「また、その言い方」
クレアが頬を膨らませると、フランシスは声を上げて笑った。
「おやすみ、クレア」
「まだ昼間よ」
「では、よい午後を」
「ええ。フランシスも」
彼は扉へ向かいかけ、ふと足を止めた。
「それから」
「何?」
「次に抱き上げる時は、怪我をしていない時がいいな」
クレアは目を見開いた。
聞き返す前に、フランシスは扉の向こうへ消えてしまう。
「もう……」
一人残されたクレアは、熱くなった頬を両手で覆った。
次に抱き上げる時。
その言葉の意味を考えるだけで、胸が苦しいほど高鳴る。
膝の上には、フランシスが用意してくれた花束がある。窓辺には、彼が取ってくれた木彫りの鳥。机の上には、一緒に過ごした湖を描きかけたスケッチ帳。
いつの間にか、クレアの身の回りには、フランシスとの思い出が増えていた。
そして今日。
クレアは初めて、本の中でしか知らなかった抱擁を経験した。
バーナードの背中は、昔と変わらず安心した。けれどフランシスの腕の中では、胸が高鳴り、息をすることさえ難しくなった。
「昔の安心と、新しいときめき……」
クレアは、小さくつぶやいた。
どちらも大切なものに思える。
けれど、同じではない。
その違いに気づき始めた自分は、もう昔のままではいられないのかもしれなかった。




