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いつまでも夢見る少女ではいられない〜兄の親友への初恋を手放して、新しい恋を選びます〜  作者: 黒猫と珈琲


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第五話 濡れた夏の日

 魚釣りへ出かけた日から、クレアとフランシスは毎日のように領地を歩いた。丘の上にある古い風車。朝市で賑わう広場。染織工房や木工職人の作業場。領地で採れた果実を煮詰める小さな加工所。


 フランシスは、どこへ案内しても興味深そうに話を聞いた。職人へ直接質問し、気になったことは手帳へ書き留めている。領地経営を学びに来たというのは、建前ではないらしい。けれど視察が終われば、すぐにクレアの隣へ戻ってくる。


「次はどこへ連れていってくれるの?」


 そう尋ねるフランシスは、侯爵令息というより、夏休みを楽しみにしている少年のようだった。屋敷へ戻ってからも、二人は庭園で話をした。王都の工房について聞いたり、クレアの描いた花や魚の絵を見せたりする。フランシスは、どの絵にもきちんと目を通した。ただ「上手だ」と褒めるだけではない。


「この葉の並び方、刺繍模様にしても綺麗だろうね」

「魚の鱗を、食器の縁飾りに使えないかな」


 そんなふうに、クレア自身も考えたことのない可能性を見つけてくれる。フランシスと話していると、好きで描いていたものが、少しずつ別の形を持ち始めるようだった。そして何より、楽しかった。フランシスは洗練された貴公子だが、意外なほど負けず嫌いだ。


 釣りではクレアに負けたまま終われないと言い、翌日も挑戦した。市場で投げ輪を見つければ、景品を取るまで何度も続けた。ようやく手に入れた小さな木彫りの鳥を、得意げにクレアへ差し出した。


「これを君に」

「自分で欲しかったのではないの?」

「君に渡したかったから、あれほど頑張ったんだよ」


 そう言われ、クレアは木彫りの鳥を自室の窓辺に飾った。今までクレアの夏は、兄とバーナードを中心に回っていた。二人が帰ってくる日を待ち、二人の予定に合わせ、少しでもバーナードのそばにいようとした。けれど今年の夏は、朝になると、今日はフランシスとどこへ行こうかと考えている。


 その変化に気づくたび、胸の奥に小さな戸惑いが生まれた。それでも、フランシスといる時間を減らそうとは思わなかった。


「今日は、湖へ行きましょう」


 朝食の席でクレアが提案すると、フランシスは顔を上げた。


「湖?」

「屋敷から馬車で少し行ったところにあるの。森に囲まれていて、夏でも涼しいわ」

「魚釣りをするの?」

「今日は魚釣りはしないわ。湖の浅瀬で水遊びができるの」


 クレアがそう言うと、向かいに座っていたバーナードが眉を寄せた。


「水遊び?」

「ええ」

「子どもではないんだぞ」

「大人だって水遊びくらいするわ」

「王都の令嬢は、湖へ入ったりしない」

「私は王都の令嬢ではありません」

「そういう問題ではなくてだな」


 バーナードが言葉を探していると、シルヴェスターが横から口を挟んだ。


「浅瀬なら危険はないだろう。俺たちも子どもの頃によく遊んだ」

「お兄様は分かってくれるのね」

「ただし、深い場所へは行くなよ」

「行かないわ」


 クレアは満足して頷いた。


「フランシスは泳げる?」

「一応は。ただ、湖で遊んだことはほとんどないかな」

「では、今日も私が教えるわね」

「水遊びにも先生が必要なの?」

「領地の湖での遊び方なら、私の方が詳しいもの」

「それは頼もしい」


 フランシスは楽しそうに笑った。


「では、私も行く」


 突然、バーナードが言った。クレアは目を瞬く。


「バーニーも?」

「ああ」

「今日は領地の騎士と鍛錬をすると言っていなかった?」

「午後からに変える」

「急に?」

「湖の周辺は足場の悪いところもある。二人だけでは危ない」

「使用人も一緒よ」

「それでもだ」


 クレアが首を傾げていると、シルヴェスターがバーナードを見た。


「それなら、俺も行くか?」

「お前は伯爵と南部の農地を見に行く予定だろう」

「そうだったな」


 シルヴェスターはあっさり引き下がった。バーナードは当然のように話を進める。


「昼前に出ればいい。俺が馬車を手配しておく」

「それなら、バーニーも一緒に遊ぶ?」

「遊ばない。見ているだけだ」

「せっかく行くのに?」

「俺はもう、湖ではしゃぐ年ではない」


 クレアは思わず笑った。


「昔は誰よりも本気で水を掛け返してきたでしょう?」

「昔の話だ」

「私とお兄様を二人まとめて湖へ投げ入れたこともあったわ」

「あれは、お前たちが先に二人がかりで襲ってきたからだ」

「今年もやってみる?」

「やらない」


 きっぱり断られ、クレアは頬を膨らませる。フランシスは二人のやり取りを聞きながら、どこか面白そうに笑っていた。


     ◇


 昼前に屋敷を出た馬車は、森の中を通る道を進んだ。クレアとフランシスが向かい合わせに座り、バーナードは窓際で腕を組んでいる。ほかに侍女と男性使用人が一人ずつ同行していた。木々の隙間から差し込む光が、馬車の中で揺れている。


「湖には、どんな生き物がいるの?」


 フランシスが尋ねた。


「小さな魚や水鳥がいるわ。運がよければ、青い羽の鳥も見られるの」

「虫は?」

「もちろん、たくさんいるわよ」

「そう」


 フランシスの笑顔がわずかに引きつる。クレアは吹き出した。


「大丈夫。今日はフランシスの顔へ近づけたりしないわ」

「その言葉を信じても?」

「たぶん」

「たぶんなんだね」


 二人が笑い合っていると、バーナードが低い声で言った。


「フランシス殿は、虫が苦手なのか」

「苦手ではありません」

「魚釣りの餌にも随分苦労していたわ」


 クレアがすぐに付け加える。


「クレア」

「何?」

「私の名誉のために黙っていてくれないかな」

「でも、本当のことでしょう?」

「君は時々、容赦がないね」

「そうかしら」

「自覚がないところが恐ろしい」


 フランシスが肩をすくめる。バーナードは二人を見つめたあと、窓の外へ視線を向けた。魚釣りから戻った日以来、クレアはフランシスの話をよくするようになった。食事の席でも、庭園でも。


 フランシスが何を言ったか。どんなことを面白がったか。何が得意で、何が苦手だったか。まだ出会って数日しか経っていないというのに、クレアは彼のことを随分よく見ている。以前なら、王都から戻ったバーナードの話を聞きたがった。


 訓練はどうだったか。どんな食事をしているのか。休みの日は何をしているのか。同じ質問を何度も繰り返し、答えをはぐらかされても、そばを離れなかった。ところが今は、バーナードが同じ部屋にいても、フランシスと楽しそうに話している。


 それは自分が望んでいたことのはずだった。同じ年頃の男を見た方がいい。子どもの頃からの思い込みに縛られるべきではない。そう言い続けてきた。だから、今の状況を喜ぶべきなのだろう。


 バーナードはそう考え、胸の奥に残る不快感を押し込めた。


     ◇


 湖へ着くと、クレアは馬車から飛び降りるようにして外へ出た。


「綺麗でしょう?」


 木立の向こうには、青緑色の湖面が広がっていた。夏の日差しを受けて、細かな光が水面で跳ねている。向こう岸には深い森が続き、空の青と木々の緑が水に映り込んでいた。湖へ流れ込む小川の近くは浅く、白い小石が水底まで透けて見える。


「想像していたより大きいね」


 フランシスはクレアの隣に立ち、湖を見渡した。


「この辺りは浅いの。もっと奥へ行くと深くなるから、近づいては駄目よ」

「先生の言いつけは守るよ」

「本当に?」

「君に叱られたくないからね」


 荷物を木陰へ運び、侍女が敷物を広げる。昼食まではまだ時間がある。クレアは帽子を脱いで侍女へ預けると、ワンピースの裾を少し持ち上げた。


「何をしている」


 バーナードがすぐに声を上げる。


「靴を脱ぐのよ」

「本当に入るつもりか?」

「そのために来たのでしょう?」


 クレアは木陰に置かれた椅子へ腰を下ろし、靴と靴下を脱いだ。白い足が夏の陽射しに晒される。バーナードは眉間へ皺を寄せたが、クレアは気にせず湖へ向かった。慎重に足先を水へ入れる。


「冷たい!」


 思わず声を上げたものの、すぐに心地よさが勝った。


「でも、気持ちいいわ。フランシスも早く」


 振り返ると、フランシスはまだ靴を履いたまま立っている。


「本当に、そのまま入るんだね」

「浅いもの。怖くないわ」

「怖がっているわけではないよ」

「では、早く」


 クレアは水の中から手招きした。


 フランシスは苦笑しながら、上着を脱いで木の枝へ掛ける。靴と靴下も脱ぎ、ズボンの裾を膝下まで折り上げた。白い足を水へ入れた途端、彼はわずかに肩を揺らす。


「水が冷たいね」

「すぐに慣れるわ」

「君は平気なの?」

「昔から何度も入っているもの」


 クレアは水を蹴りながら、さらに数歩進んだ。裾が濡れないように持ち上げていたが、水面が足首を越えると動きにくい。面倒になり、裾から手を離した。


「クレア、服が濡れるよ」

「どうせ乾くわ」

「令嬢らしくないと言われない?」

「ここには、親しい人しかいないもの」


 クレアは笑い、両手で水をすくった。


「それっ」


 勢いよく、フランシスへ水を掛ける。


「わっ、何するんだ!」


 水をまともに受けたフランシスは、驚いて目を見開いた。


「油断していたわね」


 クレアが得意げに笑う。


「君が始めたんだからね」

「え?」


 フランシスもすぐに水をすくった。クレアが逃げるより先に、腕や胸元へ水が飛んでくる。


「きゃっ!」

「仕返しだよ」

「やったわね」


 クレアは両手で水を大きく跳ね上げた。今度はフランシスのシャツが濡れる。


「クレア!」

「ふふ、捕まえられるなら、捕まえてみて」


 笑いながら浅瀬を走る。足元の水がきらきらと跳ね、若草色のワンピースの裾を濡らしていく。フランシスも追いかけてきた。


 川辺では虫を恐れていた都会の貴公子が、今は髪から水を滴らせながら本気でクレアを追っている。その姿がおかしくて、クレアは何度も笑った。


「待って、クレア」

「嫌よ。捕まったら、仕返しされるもの」

「分かっているなら、最初から水を掛けなければよかったのに」

「それでは面白くないでしょう?」

「君は本当に――」


 フランシスが大きく一歩踏み出す。追いつかれそうになったクレアは、急いで方向を変えた。けれど水の中では、思うように足が動かない。


 フランシスの手が、クレアの手首をつかんだ。


「捕まえた」

「あっ」


 勢いを失ったクレアは、危うく彼の胸元へぶつかりそうになった。フランシスが反対の手で肩を支える。二人の距離が、一気に縮まった。


「危ない」

「フランシスが急に引くからよ」

「君が逃げるからだろう?」

「追いかけるからでしょう?」


 言い返しながら顔を上げる。青紫色の瞳が、思っていたより近くにあった。


 フランシスの銀金色の髪から落ちた水滴が、頬を伝っている。いつもの優雅な貴公子の姿とは違う。息を弾ませ、濡れた前髪を額に貼りつかせて笑っている。


 クレアは一瞬、その顔から目を離せなかった。フランシスもまた、クレアを見つめていた。


 けれど、次の瞬間。


 彼の表情から笑みが消えた。


「……クレア」

「何?」


 声が妙に低い。クレアは不思議に思い、首を傾げた。


 ワンピースは水をたっぷりと含んでいた。淡い色の布が肌へ張りつき、普段は柔らかなドレスに隠れている身体の線を、はっきりと浮かび上がらせている。


 胸元も、細い腰も。


 無邪気に水遊びをしている本人だけが、そのことに気づいていない。フランシスは慌てて視線を逸らし、つかんでいた手首からも手を離した。


「どうしたの?」

「いや……」

「急に顔が赤くなったわ」

「暑いからだよ」

「水の中は涼しいでしょう?」


 クレアが顔を覗き込もうとすると、フランシスはさらに横を向いた。


「少し、そこで待っていて」

「どうして?」


 フランシスは答えず、早足で岸へ戻る。クレアは水の中へ取り残され、首を傾げた。


 フランシスは木の枝へ掛けていた上着を取ると、再びクレアのところへ戻ってきた。


「これを着て」


 差し出された上着を見て、クレアは目を瞬く。


「でも、濡れてしまうわ」

「それは気にしないでいいから」

「せっかく乾いたところに置いていたのに」

「頼むから着て」


 あまりにも真剣な声だった。クレアはますます分からなくなる。


「どうして?」

「どうしても」

「フランシス、さっきから変よ」

「君のせいだよ」

「私の?」


 クレアは自分の姿を見下ろした。そこで初めて、濡れた布が身体へ貼りついていることに気づく。


「……あ」


 途端に、頬が熱くなった。両腕で胸元を隠す。


「気づいた?」


 フランシスはまだ横を向いたままだ。


「早く言ってくれればよかったのに!」

「言いにくかったんだよ」

「でも、ずっと見ていたでしょう?」

「見ていない」

「見ていたわ」

「最初の一瞬だけだよ」

「一瞬ならいいという問題ではないでしょう?」

「だから謝る。ごめん」


 普段なら何を言われても余裕を失わないフランシスが、本気で困っている。クレアは恥ずかしくて仕方がないのに、その姿を見ていると、少しだけ可笑しくもなった。


 差し出された上着を受け取り、肩から羽織る。大きめの上着が、濡れた身体をすっぽりと覆った。


「着たわ」


 そう告げると、フランシスがようやくこちらを見る。けれど視線はクレアの顔にだけ向けられ、少しも下へ動かなかった。耳まで赤い。


「本当に顔が赤いわ」

「何度も言わなくていい」

「私のせいなの?」

「そう言っただろう?」


 フランシスは髪をかき上げ、深く息を吐いた。


「君は、もう少し自分が女性だということを自覚した方がいい」

「自覚しているわ」

「していたら、あんな格好のまま走り回らないよ」

「遊んでいる時は忘れていたの」

「それを自覚していないと言うんだ」


 少し強い口調だった。けれど、怒っているというより、ひどく動揺しているように見える。


 クレアは上着の前を合わせながら、フランシスを見上げた。


「そんなに気になった?」


 尋ねた途端、フランシスの動きが止まった。


「それを私に聞くの?」

「だって、フランシスが着ろと言ったから」

「気になったよ」


 今度は、迷いのない返事だった。青紫色の瞳が、まっすぐクレアを見つめる。


「とても」


 クレアの胸が、どきりと鳴った。自分が濡れていたこととは別の理由で、急に身体が熱くなる。


「だから、ほかの男がいるところでは、絶対にしないで」

「ほかの男って……」


 言いかけたところで、岸辺から低い声が飛んできた。


「もう上がれ、クレア」


 振り返ると、バーナードが水際に立っていた。いつから見ていたのだろう。腕を組み、険しい顔で二人を見ている。


「バーニー」

「身体が冷える」

「まだ大丈夫よ」

「駄目だ。上がれ」


 いつになく強い口調だった。クレアは少しむっとしたが、確かに身体が冷えてきている。


「分かったわ」


 岸へ向かおうとすると、フランシスが腕を差し出した。


「滑るから、つかまって」

「ありがとう」


 クレアはその腕へ手を添える。二人で慎重に水の中を歩いた。


 水際まで来ると、今度はバーナードが手を伸ばした。


「クレア」


 大きな手。子どもの頃から、何度もクレアを引き上げてくれた手だ。


 クレアは一瞬迷い、バーナードの手を取った。強い力で岸へ引き上げられる。


「ありがとう、バーニー」

「ああ」


 バーナードは答えたものの、視線はクレアではなく、肩へ掛けられた上着に向けられていた。


「それは、フランシス殿のものか」

「ええ。服が濡れてしまったから、貸してくれたの」

「そうか」


 短い返事だった。


 バーナードは上着の隙間から濡れたワンピースが見えないよう、前を閉じてやる。


「きちんと隠しておけ」

「バーニーまで……」

「今まで、あんな格好で遊んでいたのか?」

「あんな格好って、ただ服が濡れただけよ」

「だから問題なんだ」

「子どもの頃は、何も言わなかったでしょう?」


 クレアが反論すると、バーナードは言葉を失った。


 子どもの頃。


 その言葉が、妙に胸へ引っかかった。以前なら、クレアが服を濡らして走り回っていても、風邪をひかないようにと注意するだけだった。


 抱き上げて岸へ戻したこともある。濡れた服のまま背負ったこともある。そこに戸惑いなどなかった。


 けれど、今は違う。


 濡れた布に包まれたクレアの姿を見た時、バーナードは一瞬、息を呑んだ。そしてすぐに、フランシスがどのような目で彼女を見ているかに気づいた。


 あれは、妹を見る目ではない。一人の女性へ向ける男の目だった。その事実を理解した瞬間、胸の奥が焼けるようにざわついた。


「とにかく、着替えてこい」


 バーナードはそれだけ言い、侍女を呼んだ。侍女は予備の服を持ってきている。クレアは近くに張られた簡易の天幕へ案内された。


「すぐに戻るわ」

「ゆっくりでいいよ」


 フランシスが声をかける。


「上着は、あとで返すわね」

「急がなくていい。乾くまで着ていて」


 クレアは頷き、侍女とともに天幕へ入った。


 クレアの姿が見えなくなると、湖畔には妙な沈黙が落ちた。男性使用人は昼食の準備をしており、少し離れた場所にいる。水際には、バーナードとフランシスだけが残った。


「随分、親切なんだな」


 先に口を開いたのは、バーナードだった。


「女性に上着を貸すくらいは、当然でしょう」


 フランシスは濡れた前髪をかき上げる。


「それとも、あのままにしておいた方がよかったですか?」

「そういう意味ではない」

「では、どういう意味です?」


 穏やかな問いだった。けれど、フランシスの目は少しも笑っていない。バーナードは眉を寄せる。


「クレアは、男の視線に慣れていない」

「そうでしょうね」

「だから、あまり不用意に近づくな」

「クレアは十八歳です」

「知っている」

「それなら、誰と親しくするかは、彼女自身が決めることでしょう」


 フランシスは淡々と答えた。


「あなたが兄なら、心配する気持ちも分かります」

「俺は兄ではない」

「妹のようなものだと聞きましたが」


 自分が何度も口にしてきた言葉を返され、バーナードは黙り込む。フランシスは湖面へ視線を向けた。


「安心してください。クレアが嫌がることをするつもりはありません」

「それなら――」

「ただし、彼女を妹として見るつもりもありません」


 はっきりと告げられ、バーナードの表情が変わった。フランシスはそれを見逃さない。


「あなたは、違うのでしょう?」

「何が言いたい」

「クレアを、妹としか思っていない」


 答えは決まっているはずだった。何度尋ねられても、そう答えてきた。クレア本人にも、何度も言い聞かせた。


 君は俺を兄のように思っているだけだ、と。


 それなのに今は、なぜかすぐに言葉が出てこない。


「……昔から面倒を見てきた」


 ようやく口にできたのは、曖昧な答えだった。


「大切な存在ではある」

「そうですか」


 フランシスは穏やかに頷いた。


「では、大切にしてあげてください」


 その言葉は、挑発のようにも聞こえた。


「ただ、彼女がほかの誰かに大切にされることまで、邪魔しないでほしい」

「邪魔などしていない」

「今のところは」


 青紫色の瞳が、まっすぐバーナードを見据える。十九歳の青年とは思えないほど、落ち着いた眼差しだった。バーナードは何も返せなかった。


 ほどなくして、天幕からクレアが出てきた。淡い黄色のワンピースへ着替え、濡れた髪はタオルでまとめている。肩にはまだ、フランシスの上着を羽織っていた。


「お待たせ」


 明るい声とともに、二人の間にあった緊張が途切れる。


「もう冷えていない?」


 フランシスがすぐに尋ねた。


「ええ。大丈夫よ」

「髪はきちんと乾かした方がいい」

「バーニーと同じことを言うのね」


 クレアが笑う。


「二人とも、心配しすぎよ」

「君が心配させるんだよ」


 フランシスは苦笑し、クレアの頭に巻かれたタオルの端を整えた。ごく自然な仕草だった。クレアも拒まない。


「ありがとう」


 その様子を見たバーナードの胸が、またざわつく。以前なら、自分だけがしていたことだった。


 乱れた髪を直す。転びそうになれば手を取る。濡れれば上着を掛ける。


 クレアを守り、世話を焼くのは、自分にとってあまりにも当たり前だった。けれど今、その役目を別の男が担い始めている。そしてクレアもまた、それを自然に受け入れていた。


「お昼にしましょう」


 クレアは木陰へ向かう。


「さっきたくさん動いたから、お腹が空いたわ」

「私は君を追いかけていただけだけれどね」

「十分動いたでしょう?」

「次は水を掛けられても、追いかけないようにするよ」

「本当に?」

「……たぶん」


 フランシスが答えると、クレアは楽しそうに笑った。


「ふふ。私も行きの馬車で、同じことを言ったわね」


 二人が並んで敷物の方へ歩いていく。バーナードは少し遅れて、その後ろを追った。


 フランシスがクレアへ向ける視線の意味を、もう見間違えることはない。彼はクレアを、可愛がるべき少女として見ているのではない。一人の女性として求め始めている。


 分かったはずなのに。


 それをどうして自分が許せないのか、バーナードにはまだ分からなかった。


 その夜。


 クレアは自室の鏡の前に座り、昼間のことを思い返していた。濡れた髪はすでに乾き、就寝用の緩い三つ編みに整えられている。侍女が退室したあとも、なかなかベッドへ向かう気になれなかった。


「君のせいだよ」


 湖でのフランシスの声が、耳の奥に残っている。いつも余裕のある彼が、顔を赤くし、視線の置き場に困っていた。そして、クレアが尋ねると、はっきり答えた。


「気になったよ。とても」


 その時の青紫色の瞳を思い出し、クレアは両手で頬を包む。また熱くなってきた。


 バーナードに服が濡れた姿を見られたことは、これまでにもある。子どもの頃は、川へ落ちるたびに助けてもらった。服が肌へ張りついていても、バーナードは大きなタオルでくるみ、風邪をひくぞと叱るだけだった。


 クレアも、恥ずかしいなどと思わなかった。けれど、フランシスに見られた時は違った。自分が女性であることを、急に意識させられた。フランシスが男性なのだということも。


「変なの」


 クレアは鏡の中の自分へつぶやく。胸の奥が落ち着かない。


 恥ずかしくて、もう一度同じことが起きたら困ると思う。それなのに、フランシスがあれほど動揺してくれたことを、少しだけ嬉しいとも感じている。


 バーナードには、どれほど好きだと告げても、子どもの言葉として受け流されてきた。けれどフランシスは、クレアが何も告げなくても、一人の女性として見てくれた。


 その違いを、もう気づかなかったことにはできない。


 窓辺には、フランシスが市場で取ってくれた木彫りの鳥が置かれている。クレアは椅子から立ち上がり、その小さな鳥を指先で撫でた。


「フランシスの顔、真っ赤だったわ」


 思い出すと、自然に笑みがこぼれる。同時に胸が高鳴った。


 それは、昔から知っている安心とは違う。


 まだ名前をつけられない、初めての感情だった。


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