第四話 都会の貴公子と魚釣り
翌朝、クレアは朝食を終えると、自室へ戻って服を着替えた。選んだのは、淡い若草色の動きやすいワンピースだ。装飾は少なく、裾も普段のドレスより少し短い。髪はいつものハーフアップではなく、一つに編んで背中へ流している。
侍女は、鏡の前に立つクレアを見て苦笑した。
「王都からいらした侯爵令息をご案内する服装とは思えませんね」
「昨日、川辺は泥で汚れると伝えたもの。私だけ着飾っていたら、説得力がないでしょう?」
「そうかもしれませんが」
侍女はクレアの帽子を持ち上げる。
「せめて、こちらは被ってくださいませ。今日は陽射しが強くなりそうです」
「分かったわ」
クレアは素直に帽子を受け取った。
昨夜から、今日の魚釣りを楽しみにしていた。いつもなら、バーナードが帰ってきている間は、彼と一緒に過ごすことばかり考えていた。けれど今日は、不思議なほどフランシスとの外出に胸が弾んでいる。
王都育ちの彼は、川辺を見てどんな顔をするだろう。釣り針に餌をつけられるだろうか。魚が釣れたら、きっと驚くに違いない。
「お嬢様、楽しそうですね」
侍女に言われ、クレアは鏡の中の自分を見た。確かに、口元が緩んでいる。
「だって、誰かに魚釣りを教えるのは初めてなの」
「シルヴェスター様やバーナード様とは、よく行っておられたでしょう?」
「お兄様たちから教えてもらったのよ。今度は、私が教える番なの」
そう答え、クレアは部屋を出た。
玄関前へ向かうと、フランシスはすでに待っていた。昨日の華やかな服装とは違い、白いシャツに濃紺のベスト、丈夫そうな革靴を身につけている。それでも洗練された雰囲気は変わらず、朝の光を受けた銀金色の髪は、ひときわ眩しく見えた。
クレアに気づいたフランシスが、青紫色の瞳を細める。
「おはよう、クレア」
「おはよう、フランシス」
昨日よりは自然に名前を呼べた。フランシスもそれに気づいたらしく、嬉しそうに笑う。
「今日はきちんと動きやすい服装にしたよ」
「ええ。よく似合っているわ」
「ありがとう。君も」
彼の視線が、クレアの姿を上から下へゆっくりと辿る。昨日のようなドレス姿ではないため、クレアは少しだけ気恥ずかしくなった。
「王都のご令嬢らしくないでしょう?」
「どうして?」
「飾りもほとんどないし、髪も簡単に編んだだけだもの」
「その方が、君らしく見える」
「まだ会って二日目なのに、私らしさが分かるの?」
「昨日だけでも、可憐な見た目に騙されてはいけないことは分かったよ」
「騙してなんていないわ」
「泥の中も平気で歩き、魚釣りでは兄にも負けない令嬢だと、最初から気づくのは難しい」
フランシスが笑う。からかわれているのに、不思議と嫌ではなかった。
「今日はもっと驚くかもしれないわよ」
「それは楽しみだ」
その時、屋敷の中からシルヴェスターとバーナードが出てきた。二人とも軽装で、剣を提げている。
「お兄様たちも出かけるの?」
「ああ。領地の騎士たちと、森の巡回へ行ってくる」
シルヴェスターが答える。
「川の近くも通るが、クレアたちが行く場所より上流だ」
「そうなのね」
クレアが頷くと、バーナードが彼女の服装を見た。
「その格好で行くのか?」
「魚釣りに行くのだから、当然でしょう?」
「帽子の紐はしっかり結んでおけ。川辺は風が強い」
「分かっているわ」
「それから、夢中になって深い場所へ入るなよ」
「入らないわよ」
「去年は膝までのつもりが、腰まで入っていただろう」
「魚を追いかけていたの」
「同じことだ」
いつものように注意され、クレアは頬を膨らませた。
「子どもではないのだから、何度も言わなくても分かります」
「分かっていないから言っている」
「バーニーは心配しすぎよ」
クレアがそう言うと、フランシスが二人の会話を聞きながら微笑んだ。
「今日は私もいますから、大丈夫です」
「昨日も同じことを言っていたな」
バーナードの声が少し低くなる。
「魚釣りも、ほとんどしたことがないのだろう?」
「ええ。ですから、クレアに教わります」
「自分のことで精一杯にならなければいいが」
「バーナード」
シルヴェスターがたしなめるように名前を呼ぶ。
バーナードは一瞬黙り、それから小さく息を吐いた。
「気をつけて行ってこい」
「ええ。行ってきます」
クレアは明るく答え、用意してもらった籠を持とうとした。けれど、先にフランシスが取る。
「私が持つよ」
「それほど重くないわ」
「知っている。それでも持たせて」
ごく自然に言われ、クレアは手を離した。
「では、お願いするわ」
「任せて」
二人が並んで歩き出す。
クレアは振り返り、兄たちへもう一度手を振った。シルヴェスターも笑って手を上げる。バーナードは何も言わず、籠を持つフランシスの背中を見つめていた。
◇
屋敷を出てしばらくは、なだらかな草原が続いている。夏草の間では小さな白い花が揺れ、遠くから鳥の声が聞こえていた。
「綺麗なところだね」
フランシスが辺りを見渡す。
「王都には、こういう場所はないの?」
「大きな庭園や公園はあるけれど、ここまで空が広く見える場所は少ないかな」
「私は、王都の方が憧れるわ」
「なぜ?」
「お店も工房もたくさんあって、毎日新しいものを見られるでしょう?」
「確かに、退屈はしない」
フランシスは少し考えてから続ける。
「でも、人が多すぎるんだ。どこへ行っても、誰かに見られている」
「侯爵家の方だから?」
「それもあるね」
彼は苦笑した。
「誰と話したか。どの家の夜会へ出たか。誰に微笑み、誰には挨拶だけで終わったか。そんなことまで噂になる」
「大変なのね」
「慣れているよ。ただ、時々疲れる」
フランシスが空を仰ぐ。銀金色の髪を、草原を渡る風が揺らした。
「ここでは、誰も私を見ていない」
「私が見ているわ」
クレアが言うと、フランシスがこちらを向いた。
「そうだった」
「私が見ていたら、落ち着かない?」
「まさか」
青紫色の瞳が柔らかく細められる。
「君になら、見られていても構わないよ」
またさらりと言われ、クレアは視線を逸らした。
「王都の男性は、皆そのようなことを言うの?」
「どのようなこと?」
「女性を困らせるようなことよ」
「女性を喜ばせるつもりで言っているんだけれど」
「困っているわ」
「少しも嬉しくない?」
フランシスが顔を覗き込もうとする。クレアは帽子のつばを下げ、その視線から逃れた。
「早く行かないと、魚が逃げてしまうわ」
「魚はずっと川にいるんじゃない?」
「朝の方がよく釣れるの」
「では、急ごう」
フランシスは笑いながら、クレアの隣を歩いた。
やがて木々の間から、水の流れる音が聞こえてきた。
「着いたわ」
クレアが枝を押し分けると、その先に陽射しを受けて輝く川が現れた。流れは穏やかで、川底の小石まで透けて見える。岸辺には細い草が茂り、水面の近くには淡い青色の小さな花が咲いていた。
フランシスは足を止め、目を見開く。
「本当に綺麗だ」
「でしょう?」
自分の好きな場所を褒められ、クレアは嬉しくなる。
「もう少し向こうに、大きな木があるの。日陰になっているから、そこに荷物を置きましょう」
二人で木陰へ移動し、籠を下ろす。釣り竿は、先に使用人が運んでくれていた。
クレアは慣れた手つきで釣り竿を確認し、小箱の蓋を開ける。中では、餌に使う小さな虫が動いていた。
覗き込んだフランシスの動きが止まる。
「えっと、クレア。もしかして、これを使うの?」
「ええ」
クレアは一匹を指先でつまみ上げた。
「針にこうしてつけるのよ」
「待って」
「何?」
「君は、それを平気で触れるんだね」
「もちろん」
クレアは手のひらへ虫を乗せた。
「可愛いでしょう?」
「可愛いという感想は、少し理解できないかな」
「噛んだりしないわよ」
「そういう問題ではない気がする」
フランシスは苦笑しながらも、逃げようとはしなかった。
「クレア、私の分も頼める?」
「自分でやらなくては覚えないわ」
「厳しい先生だね」
「魚釣りは遊びではないもの」
「遊びではないの?」
「魚との真剣勝負よ」
クレアが真顔で答えると、フランシスは堪えきれないように笑った。
「分かった。やってみるよ」
彼は覚悟を決めたように、箱の中へ手を伸ばす。けれど、虫が動くたびに指が止まった。
「フランシス、怖いの?」
「怖くはない。ただ、少し心の準備をしている」
「もうずいぶん準備しているわ」
「王都では、魚釣りの餌を自分で用意する機会がないんだ」
「言い訳ね」
クレアは笑いながら、彼の手を取った。
「ほら。この辺りを持てば大丈夫」
フランシスの指先を導き、虫をつまませる。触れた手は、思っていたより温かかった。
フランシスは虫ではなく、重なった二人の手を見つめている。
「分かった?」
「……もう少し、このまま教えてもらってもいい?」
「駄目よ。あとは自分でやって」
クレアが手を離すと、フランシスは残念そうに笑った。
「気づかれてしまったか」
「何が?」
「何でもないよ」
彼は今度こそ、自分で餌を針へつけた。
「できた」
「上手よ」
「褒められると嬉しいものだね」
「では、次は竿の投げ方よ」
クレアは自分の釣り竿を持ち、少し開けた場所へ移動する。
「糸が枝に引っかからないように、後ろをよく見て。それから、こう」
竿を振ると、針が綺麗な弧を描いて水面へ落ちた。フランシスが感心したように見つめる。
「ずいぶん慣れているね」
「小さい頃から何度も来ているもの」
「バーナードとも?」
「ええ。お兄様と三人でよく来たわ」
答えた途端、バーナードの大きな背中を思い出した。
釣れずに悔しがるクレアの隣で、暗くなるまで付き合ってくれたこと。足場の悪い場所では、手を引いてくれたこと。帰り道に疲れれば、何も言わず背負ってくれたこと。
「クレア?」
フランシスに呼ばれ、クレアは我に返る。
「ごめんなさい。少し昔のことを思い出していたの」
「バーナードとの思い出?」
「どうして分かったの?」
「その名前を出したあと、少し寂しそうな顔をしたから」
フランシスは責めるでもなく、穏やかに答えた。
クレアは水面へ視線を落とす。
「私、そんなに顔に出やすいのかしら」
「少なくとも、私には分かりやすいかな」
「困るわ」
「隠さなくてもいいと思うけれど」
フランシスは釣り竿を持ったまま、クレアの隣へ立つ。
「好きなんでしょう? 彼のことが」
思いがけずはっきり尋ねられ、クレアは息を呑んだ。
「どうして……」
「昨日、君たちの話し方を聞いていれば分かるよ」
「バーニーは、私を妹のようにしか思っていないわ」
「でも、君は違う」
「ええ」
否定することはできなかった。
「ずっと好きだったの。小さい頃から」
「そう」
フランシスは、それ以上何も言わなかった。慰めることも、諦めるよう勧めることもない。ただ、クレアが言葉を続けるのを待っている。
「何度も好きだと言ったのよ」
「うん」
「でも、いつも笑ってはぐらかされるの。子どもの思い込みだって」
「それは、随分と鈍い人だね」
フランシスが静かに言う。
「鈍いだけなのかしら」
「それとも、気づかないふりをしているのかもしれない」
「気づかないふり?」
「君の気持ちに答える覚悟がないから、子どもの恋だと決めてしまった方が楽なのかも」
考えたこともない言葉だった。クレアは何も答えられず、水面を見つめる。
その時、釣り糸が強く引かれた。
「あっ」
「何かかかった?」
「ええ。フランシス、竿を持って!」
「私が?」
「早く!」
考えるより先に、クレアは自分の竿をフランシスへ押しつけた。フランシスが慌てて受け取る。
「引っ張られているけれど、どうすればいい?」
「慌てないで。少しずつ糸を寄せて」
「こう?」
「竿を立てすぎないで。魚が逃げるわ」
「いや、思ったより力が強いんだけれど」
「負けないで!」
「魚との真剣勝負というのは、本当だったんだね」
フランシスは笑いながらも、言われた通り慎重に糸を引いた。水面が大きく揺れ、銀色の魚が跳ねる。
「見えた!」
「もう少しよ」
クレアは岸辺へしゃがみ、魚を受けるための網を構えた。
「今!」
フランシスが糸を引き寄せ、クレアが網ですくう。魚が網の中で勢いよく跳ねた。
「釣れたわ!」
クレアは立ち上がり、満面の笑みでフランシスを見た。
「初めてなのに、すごいじゃない!」
「君がほとんど指示してくれたからだよ」
「それでも、逃がさなかったでしょう?」
「先生が優秀だったんだね」
二人は顔を見合わせて笑った。
フランシスは息を弾ませながら、網の中の魚を見下ろす。
「ふう。それにしても、こんなに嬉しいものなんだ」
「自分で釣ると、特別でしょう?」
「うん。王都の食卓で見る魚とは、まるで違う」
「当たり前よ。この魚は、フランシスが釣ったんだもの」
クレアが胸を張ると、フランシスは魚よりも彼女の顔を見つめた。
「君は、本当に楽しそうに笑うね」
「魚が釣れたもの」
「それだけ?」
「それだけで十分でしょう?」
「ああ、そうだね」
フランシスの表情が柔らかくなる。
王都では、誰もが相手の反応を考え、意味のある言葉を選ぶ。喜ぶ時でさえ、周囲の目を気にする。
けれどクレアは違った。魚が釣れれば心から喜び、虫を怖がるフランシスを遠慮なく笑い、自分が好きなものを好きだとまっすぐ口にする。
その自然さが、フランシスには眩しく見えた。
「ねえ、クレア」
「何?」
「次は、私一人で釣ってみたい」
「ええ。今度は自分の竿を使って」
二人は再び釣り糸を垂らした。それからしばらく、川辺には笑い声が絶えなかった。
フランシスは一度、糸を木の枝へ引っかけた。外そうとして、さらに絡ませる。
「動かさないで。余計に取れなくなるわ」
「残念ながら、もう手遅れかもしれない」
「どうしてこんなに絡まるの?」
「魚ではなく、木を釣ってしまったようだ」
「ずいぶん大物ね」
クレアは笑いながら枝へ手を伸ばした。少し高い位置だったため、近くの石へ乗る。
「危ないよ」
「これくらい平気よ」
「私が取る」
「フランシスでは届かないでしょう?」
「私の方が背は高い」
「でも、こういうことには私の方が慣れているわ」
クレアは枝を引き寄せ、器用に糸を外した。
その途中、葉の裏にいた大きな甲虫へ気づく。
「あら」
手のひらへ乗せると、黒い羽が陽射しを受けて光った。
「見て、綺麗でしょう?」
フランシスは一歩だけ後ずさる。
「それも、素手で触るんだね」
「甲虫よ。角が立派でしょう?」
「立派だとは思うけれど、こちらへ近づけなくても見えるよ」
「もしかして、虫が苦手?」
「苦手ではない」
「さっきも同じことを言っていたわ」
「王都では、令嬢が虫を手に乗せて近づいてくることがないだけだ」
「では、貴重な経験ね」
クレアがさらに手を差し出すと、フランシスは今度こそ両手を上げた。
「分かった。私の負けだよ」
その反応がおかしくて、クレアは声を上げて笑った。甲虫を近くの木へ戻し、目尻に浮かんだ涙を指先で拭う。
「ごめんなさい。王都の貴公子にも、苦手なものがあるのね」
「君は私を何だと思っていたの?」
「何でも上手にできる方かと」
「君の前では、早くも失敗ばかりだ」
「その方が親しみやすいわ」
「それなら、失敗した甲斐があった」
フランシスはそう言って笑った。
完璧な貴公子の笑顔ではない。少し悔しそうで、それでも楽しそうな、十九歳の青年の顔だった。
クレアはその表情を見つめ、胸の奥がわずかに温かくなった。
昼になると、二人は木陰へ戻った。籠の中には、料理長が用意してくれたパンや冷たい肉料理、果物が入っている。川の水で冷やしておいた果実水をカップへ注ぎ、並んで腰を下ろした。
「こうして外で食べると、いつもより美味しく感じるわ」
クレアがパンをちぎる。
「王都では、外で食事をすることはないの?」
「庭園で茶会をすることはあるよ」
「それなら同じでしょう?」
「全然違う」
フランシスは苦笑した。
「庭園の茶会には、座る位置にも話す相手にも意味がある。菓子を一つ取るだけでも、誰かが見ている」
「疲れそうね」
「実際、疲れるよ」
フランシスは果実水を一口飲む。
「ここでは、君が虫を見せてくること以外は、とても気楽だ」
「まだ言っているの?」
「忘れられそうにないからね」
「では、今度はもっと大きな虫を探してあげる」
「遠慮しておくよ」
二人はまた笑った。
「ねえ、フランシス」
「うん?」
「王都には、本当に意匠を学ぶ工房がたくさんあるの?」
昨日、父からフランシスが領地経営を学ぶために来たと聞いてから、王都のことが気になっていた。
「あるよ。食器、家具、織物、宝飾品。それぞれ専門の職人や工房がある」
「絵を描くだけではなく、品物に合わせて図案を考える人も?」
「もちろん」
フランシスはクレアへ顔を向ける。
「興味がある?」
「ええ。少しだけ」
「少しだけ、という顔には見えないな」
言われて、クレアは自分の頬へ手を当てた。
「そんなに分かりやすい?」
「とても」
フランシスは楽しそうに笑った。
「王都へ来たことは?」
「小さい頃に一度だけ。でも、ほとんど覚えていないの」
「それなら、いつか案内するよ」
「フランシスが?」
「今日のお礼にね」
「魚釣りを教えただけよ」
「私にとっては、十分価値のある一日だった」
彼の声音が思いのほか真剣で、クレアは言葉を失った。
フランシスはすぐに微笑み、果物を一つ手に取る。
「それに、君が王都を見た時に、どんな顔をするのか見てみたい」
「きっと、珍しいものばかりで目が回るわ」
「その時は、私が迷わないように案内する」
「では、今日とは反対ね」
「うん。約束だ」
何気ない会話だった。
けれど、王都という場所が、初めて自分とつながったような気がした。今までは、バーナードと兄が暮らしている遠い街。ロザリンドのような大人の女性が、バーナードと肩を並べる場所。
クレアには入れない世界だと思っていた。だがフランシスは、まるで当然のように、その街を案内すると言ってくれた。
「楽しみにしているわ」
クレアが答えると、フランシスは嬉しそうに頷いた。
◇
午後になり、二人は屋敷へ戻った。フランシスは籠を持ち、クレアは釣り竿を肩に担いでいる。服の裾には少し泥がつき、頬は陽射しを浴びて赤くなっていた。
「ただいま戻りました」
玄関前にいた使用人へ声をかけると、庭の方からシルヴェスターとバーナードが歩いてくる。森の巡回から戻ったばかりらしく、二人の靴にも土がついていた。
「おかえり、クレア」
シルヴェスターが笑う。
「どうだった?」
「たくさん釣れたわ」
クレアは籠を覗き込み、フランシスが釣った魚を指差す。
「これは、フランシスが初めて釣った魚なの」
「それはすごいな」
「ほとんどクレアのおかげです」
フランシスが答えた。
「私は木まで釣りましたから」
「木を?」
シルヴェスターが目を丸くする。
「糸を枝へ引っかけたのよ。外すのが大変だったわ」
「それだけではないでしょう」
フランシスはクレアを見る。
「虫を近づけて、私を脅した」
「見せてあげただけよ」
「甲虫を顔の前まで持ってきた」
「綺麗だったでしょう?」
「その感想を求められても困るな」
クレアが笑い、フランシスもつられるように笑う。
二人の楽しげな様子を、バーナードは黙って見ていた。
クレアの髪は少し乱れている。頬には土がつき、いつもの令嬢らしい姿とはほど遠い。
けれど、とても楽しそうだった。
バーナードがよく知っている、魚を追いかけ、虫を見つけては目を輝かせていた少女の笑顔。その笑顔を今、フランシスが隣で見ている。
「顔に泥がついているぞ」
バーナードは言いながら、クレアの頬へ手を伸ばした。いつものように、親指で拭ってやろうとしただけだった。
けれど、その手が届くより先に、フランシスがハンカチを取り出す。
「ここだよ」
彼はクレアへ渡そうとして、少し迷ったあと、そのまま頬の泥をそっと拭った。
クレアが目を瞬く。
「あ……ありがとう」
「どういたしまして」
二人の距離が、わずかに近い。
フランシスはクレアを子ども扱いするのではなく、一人の女性へ触れるように、ひどく丁寧な手つきをしていた。
バーナードの手が、行き場を失ったまま止まる。
「バーナード?」
シルヴェスターに呼ばれ、彼はゆっくり手を下ろした。
「何でもない」
短く答える。
胸の奥に生まれた苛立ちの理由が、自分でも分からなかった。ただ、フランシスがクレアの頬へ触れたことが、妙に気に障った。
「今日の夕食に、釣った魚を出してもらいましょう」
クレアが嬉しそうに言う。
「フランシスの魚は、どれか分かるようにしておかなくては」
「見分けがつくの?」
「たぶん」
「本当に?」
「……料理されたら、分からないかもしれないわ」
「では、どれを食べても私が釣ったと思うことにするよ」
二人はまた笑いながら、屋敷の中へ入っていった。その背中を、バーナードは黙って見送る。
「楽しそうだったな」
隣でシルヴェスターが言った。
「ああ」
「フランシス殿も、クレアを気に入ってくれたようだ」
「そうだな」
また同じ返事をしながら、バーナードは眉を寄せた。
自分がクレアへ、同じ年頃の男を見た方がいいと言った。いつまでも自分ばかり追いかけず、ほかの相手を知るべきだと思っていた。
それなのに。
実際にクレアが別の男と笑い合っている姿を見ると、なぜこれほど落ち着かないのだろう。
「バーナード?」
「何だ」
「さっきから、ひどい顔をしているぞ」
「森を歩いて疲れただけだ」
「そうか?」
シルヴェスターは首を傾げたものの、それ以上は追及しなかった。
バーナードも、自分の胸に生まれたざわつきから目を逸らす。
クレアは妹のようなものだ。
フランシスが王都の男だから、警戒しているだけ。
そう言い聞かせた。
けれどその日の夕食で、クレアがフランシスの隣に座り、魚釣りの話を楽しそうに続けている間も。
バーナードの胸の奥に残った小さな苛立ちは、消えることがなかった。




