第三話 王都から来た貴公子
ロザリンドが屋敷を訪れた翌朝。
クレアは庭園の花壇の前にしゃがみ込み、咲き始めた花を眺めていた。昨夜はなかなか眠れず、ようやく眠りについたと思ったら、今度は朝早くに目が覚めてしまった。部屋にいても落ち着かず、朝食までまだ時間があるというのに、スケッチ帳を抱えて庭へ出てきたのだ。
昨日描いていた薄紫色の花は、朝露をまとい、日の光を受けてきらきらと輝いている。俯いて咲くその姿は、どこか寂しそうにも見えた。
「昨日と同じ花なのに」
クレアは鉛筆を動かしながら、ぽつりとつぶやく。
見る人の気持ちが違えば、花の印象まで変わるのだろうか。昨日までは可愛らしい形だと思っていたのに、今日は誰かを待ち続けているように見える。
まるで、自分のようだ。
「駄目ね」
クレアは小さく頭を振った。
まだバーナードを諦めると決めたわけではない。ロザリンドと話す姿を見て、勝手に落ち込んでいるだけだ。
そもそも二人が恋仲だという話は、何も聞いていない。バーナード自身、王都に好きな人はいないと言っていた。それなのに、自分ばかりが先回りして傷ついている。
「お嬢様」
後ろから呼ばれ、クレアは振り返った。侍女が庭園の小道を急いでやってくる。
「旦那様がお呼びです」
「お父様が?」
「はい。朝食のあと、すぐに応接室へ来るようにとのことです」
「何かあったのかしら」
「王都からお客様がいらっしゃるそうです」
侍女の言葉に、クレアは首を傾げた。
「お客様?」
「ローゼンバーグ侯爵家のご令息と伺っております」
「侯爵家の?」
クレアは慌てて立ち上がった。
地方にあるラングレー伯爵家へ、王都の侯爵令息が訪れることなど滅多にない。しかも、父がわざわざクレアを呼んでいる。
「いつお見えになるの?」
「お昼前には到着されるそうです」
「それなら、まだ少し時間があるわね」
クレアはほっと息を吐いた。
朝から庭に出ていたため、薄い水色のドレスの裾には草の葉がついている。靴にも土がついていた。このままでは、とても侯爵令息の前には出られない。
「お部屋へ戻りましょう。髪も整え直さなくては」
「はい」
スケッチ帳を閉じようとしたところで、侍女が描きかけの花を覗き込んだ。
「綺麗ですね」
「そう?」
「ええ。今にも揺れそうです」
その言葉に、クレアは少しだけ笑った。
「ありがとう」
バーナードは、昔より上手くなったとは言ってくれなかった。けれど、だからといって描くことが嫌いになったわけではない。
クレアはスケッチ帳を胸元へ抱え、屋敷へ戻った。
◇
「ローゼンバーグ侯爵とは、若い頃から付き合いがあってな」
朝食後、父アルバートの執務室へ呼ばれたクレアは、正面の椅子に腰を下ろしていた。隣にはシルヴェスターがいる。
バーナードの姿はない。今日は朝から、領地の騎士たちと鍛錬をしているらしい。
「ご令息が領地経営を学ぶため、しばらく各地を回っているそうだ」
「それで、こちらへいらっしゃるのですか?」
「ああ。三週間ほど滞在する予定だ」
「三週間も?」
クレアが目を丸くすると、父は頷いた。
「フランシス・ローゼンバーグ殿。十九歳で、侯爵家の三男だ」
「私と一つしか違わないのですね」
「そうだな」
父は少し考えるように顎へ手を添えた。
「そこで、クレアに頼みたいことがある」
嫌な予感がした。
「何でしょう?」
「滞在中、フランシス殿の案内役を務めてもらいたい」
「私が?」
クレアは思わず自分を指差した。
「お兄様ではなく?」
「シルヴェスターには、私とともに領地の運営について説明してもらう。フランシス殿も、視察ばかりでは息が詰まるだろう」
父は穏やかに続けた。
「年齢の近いお前が、この辺りを案内して差し上げなさい」
「私でよろしいのでしょうか」
「この領地のことなら、お前はシルヴェスターより詳しいくらいだろう」
父に言われ、クレアは兄を見た。シルヴェスターは苦笑している。
「確かに、川や林のことならクレアに任せた方がいい」
「お兄様より詳しいのは、遊び場所だけではありません」
「分かっている」
「市場のお店も、領地で育てている作物も、職人街の工房も知っています」
「だから適任なんだ」
兄に笑われ、クレアは少し頬を膨らませた。
王都の侯爵令息。きっと洗練された貴公子なのだろう。田舎の景色など、退屈だと思われないだろうか。
「失礼のないように努めます」
「そう堅く考えなくていい」
父は安心させるように笑った。
「侯爵からも、息子には領地の人々や自然と触れ合わせてほしいと言われている」
「分かりました」
クレアは頷いた。
知らない人と話すのは嫌いではない。けれど、侯爵令息を三週間も案内するとなると話は別だ。失礼なことをして、ラングレー家に迷惑をかけてはいけない。
「クレアなら大丈夫だ」
隣から兄が言った。
「いつも通りにしていればいい」
「いつも通りにしたら、虫取りに連れていってしまうかもしれないわ」
「それは相手の様子を見て判断しろ」
父まで笑い出す。
「もう。お二人とも、真面目に考えてください」
そう言いながらも、クレアの胸は少しだけ軽くなった。
昼前になると、ローゼンバーグ侯爵家の紋章を掲げた馬車が、ラングレー伯爵家の正門をくぐった。
玄関前には、クレアの父と母ルーシー、シルヴェスター、クレアが並んでいる。鍛錬を終えたバーナードも、少し離れたところに立っていた。
馬車が止まり、従者が扉を開ける。
最初に降りてきたのは、灰色の髪をした年配の従者だった。続いて、一人の青年が姿を見せる。
夏の日差しを受けて、淡い銀金色の髪が柔らかく輝いた。耳にかかる程度の髪は、わずかに波打っている。
白く整った肌に、すっと通った鼻梁。青紫色の瞳は涼しげで、けれど冷たい印象はなかった。
細身に見えるが、馬車から降りる動きには無駄がなく、乗馬や剣術を嗜んでいることが分かる。
王都の物語に出てくる貴公子が、そのまま目の前に現れたようだった。
青年はラングレー伯爵の前まで進み、優雅に一礼する。
「フランシス・ローゼンバーグと申します。このたびは、急な滞在をお受け入れくださり、ありがとうございます」
「よくいらっしゃいました、フランシス殿。父君には若い頃から世話になっています。どうぞ、ご自分の家と思ってくつろいでください」
「ありがとうございます。父からも、伯爵には昔から随分とご迷惑をおかけしたと聞いております」
「迷惑をかけたのは、お互い様でしょう」
二人は親しげに笑った。
父と挨拶を交わしたフランシスは、母とシルヴェスターにも丁寧に挨拶をした。そして最後に、クレアを見た。
青紫色の瞳が、まっすぐクレアへ向けられる。その視線に、クレアは思わず背筋を伸ばした。
「娘のクレアです」
父に紹介され、クレアは淑女らしく膝を折る。
「クレア・ラングレーと申します。お目にかかれて光栄です、ローゼンバーグ様」
「こちらこそ、お会いできて光栄です。クレア嬢」
フランシスは微笑んだ。
きっと王都では、多くの令嬢がこの笑顔に心を奪われるのだろう。そう思うほど、自然で華やかな笑みだった。
「滞在中は、クレアが領地をご案内します」
父が告げると、フランシスは少し意外そうに目を瞬いた。
「クレア嬢が?」
「ご迷惑でなければ、私が務めさせていただきます」
「迷惑だなんて、とんでもない」
フランシスの笑みが深くなる。
「むしろ、嬉しいです。こんなに可愛らしい方に案内していただけるとは思っていませんでした」
「え?」
あまりにもさらりと言われ、クレアは言葉に詰まった。隣で母が小さく笑う気配がする。
王都の男性は、初対面の女性へ、このようなことを平然と言えるのだろうか。
「フランシス殿」
低い声がして、クレアはそちらを見た。バーナードがフランシスの前へ進み出る。
「バーナード・クロウです。シルヴェスターとは、王都の騎士団で共に働いております」
「お名前は伺っています。クロウ家のご次男ですね」
フランシスはバーナードの大柄な体を見上げても、少しも気後れする様子を見せなかった。
「滞在中は、よろしくお願いします」
「ああ」
二人が握手を交わす。
バーナードはいつもと変わらない無表情だった。けれど、なぜかクレアには、その声がわずかに硬かったように聞こえた。
挨拶が終わると、フランシスは父たちと昼食を共にし、そのまま領地の概要について説明を受けることになった。
クレアが案内役を務めるのは、明日からだ。
そう聞いていたのだが。
夕方近く、クレアが庭園の東屋でスケッチ帳を広げていると、小道の向こうからフランシスが歩いてきた。
昼間の上着は脱ぎ、淡い色のシャツに薄手のベストを合わせている。護衛も従者も連れていなかった。
「クレア嬢」
呼ばれ、クレアは立ち上がる。
「ローゼンバーグ様。お一人ですか?」
「屋敷の中にいると、また領地の資料を渡されそうだったので、逃げてきました」
「逃げてきたのですか?」
「内緒にしてください」
フランシスは唇の前へ人差し指を立てた。
あまりに悪びれない顔をしているため、クレアは思わず笑ってしまう。
「真面目な方だと思っておりました」
「真面目ですよ。必要な時には」
「今は必要な時ではないのですね」
「長い馬車の旅を終えたばかりですから、少しくらい休んでも罰は当たらないでしょう」
フランシスは東屋へ入ると、テーブルの上に置かれたスケッチ帳へ目を向けた。
「絵を描いていたのですか?」
「はい。ただの落書きです」
「見ても?」
「まだ描きかけですが」
クレアがスケッチ帳を差し出すと、フランシスは丁寧に受け取った。
描かれているのは、今朝から何度も線を重ねている薄紫色の花だ。フランシスは、しばらく黙って絵を見つめていた。
クレアは急に恥ずかしくなってくる。侯爵家なら、有名な画家が描いた絵をいくらでも目にしているはずだ。素人のスケッチなど、見せるべきではなかったかもしれない。
「すみません。本当に、好きで描いているだけで――」
「花が揺れているみたいだ」
フランシスの言葉に、クレアは口を閉じた。
「え?」
「風が吹いたら、このまま小さく揺れそうに見えます」
今朝、侍女も同じようなことを言ってくれた。けれど、フランシスはさらに絵を見つめながら続ける。
「不思議ですね。可愛らしい花なのに、少し寂しそうだ」
クレアの胸が、どきりと鳴った。
自分が描きながら感じていたことを、初めて見た人に言い当てられた。
「どうして、そう思われたのですか?」
「花が下を向いているからでしょうか」
フランシスは首を傾げた。
「それとも、描いた人が少し寂しかったからかな」
「そんなことまで、絵に出るのですか?」
「私は絵の専門家ではないので、分かりません。ただ、そう感じただけです」
青紫色の瞳が、絵からクレアへ移る。
「何か、悲しいことがありました?」
初対面の相手に尋ねられ、クレアは戸惑った。しかも、バーナードへの恋心など話せるはずがない。
「いいえ。何もありません」
「そうですか」
フランシスは、それ以上追及しなかった。スケッチ帳を閉じ、クレアへ返す。
「とても素敵な絵です。こんなにお上手だとは思いませんでした」
「ありがとうございます」
クレアはスケッチ帳を胸元へ抱えた。
バーナードは、昔の絵を覚えてくれていた。フランシスは、今描いた絵を見てくれた。
その違いを意識し、クレアは慌てて考えを振り払う。まだ会ったばかりの人だ。バーナードと比べるようなことではない。
「明日から、この辺りをご案内くださるそうですね」
「はい。どのような場所をご覧になりたいですか?」
「そうですね」
フランシスは庭園を見渡した。
「クレア嬢が好きな場所へ行ってみたいです」
「私の好きな場所ですか?」
「名所を案内していただくのも嬉しいですが、ここで暮らしている人が、どんな場所を大切にしているのか知りたいので」
「それでしたら、川はいかがでしょう」
「川?」
「魚がたくさんいるのです。少し上流へ行くと、水も綺麗で、珍しい水草も見られます」
そこまで言ってから、クレアは口元へ手を当てた。
侯爵令息に勧める場所としては、あまりにも素朴すぎたかもしれない。
「すみません。もっと景色のよい丘や、領地の工房もございます」
「いえ。川へ行きましょう」
フランシスは即答した。
「魚釣りもできますが……」
「ますます楽しみです」
「ローゼンバーグ様は、魚釣りをなさったことがありますか?」
「子どもの頃に一度だけ。魚には逃げられましたが」
「では、私が教えます」
クレアが言うと、フランシスは楽しそうに笑った。
「頼もしいですね」
「魚釣りは得意なのです」
「シルヴェスター殿よりも?」
「もちろんです」
「ずいぶん自信がある」
「ええ。お兄様には、ほとんど負けたことがありませんので」
話しているうちに、初対面の緊張が少しずつ消えていく。
フランシスは王都の貴公子らしく洗練されているが、偉そうなところはなかった。クレアの話を面白そうに聞き、時折、子どものように目を輝かせる。
「明日は動きやすい服装の方がよろしいです」
「分かりました」
「靴も、汚れてよいものをお選びください」
「そんなに険しい道なのですか?」
「険しくはありません。ただ、川辺は泥がつくことがありますので」
「クレア嬢も、泥の中を歩くのですか?」
「もちろんです」
「貴族令嬢は、泥を避けるものだと思っていました」
「王都のご令嬢は、そうかもしれませんね」
「では、あなたは違う?」
「ラングレー領で泥を避けていたら、どこにも行けませんもの」
クレアが笑うと、フランシスは少し驚いたように目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。
「あなたは、思っていた方とは随分違いますね」
その言葉に、クレアの笑顔がわずかに曇る。
「侯爵令息をご案内するには、淑女らしさが足りませんか?」
「まさか」
フランシスはすぐに否定した。
「最初にお会いした時は、可憐で大人しそうなご令嬢だと思いました」
「実際は違ったと」
「ええ。もっと面白い方でした」
「面白い?」
「褒めています」
「本当でしょうか」
「本当です」
フランシスは笑った。
その笑顔には、玄関前で見せた完璧な貴公子の華やかさとは違う、年相応の親しみやすさがあった。
「それから」
フランシスは少しだけ声を落とした。
「二人きりの時まで、そんなにかしこまらなくていいですよ」
「ですが、ローゼンバーグ様は侯爵家の方ですから」
「王都では、朝から晩まで建前ばかりなんです」
彼は東屋の柱へ軽く背を預ける。
「誰の前で何を言うべきか。誰に笑い、誰と距離を取るべきか。いつもそんなことを考えている」
初めて、フランシスの表情にわずかな疲れが見えた。
「ここにいる間くらい、誰にも気を遣わずに過ごしたいんです」
「では、どのようにお呼びすれば?」
「フランシスで」
「呼び捨てですか?」
「一つしか年が違わないでしょう?」
「ですが……」
「私もクレアと呼びます」
クレアは目を瞬いた。
家族や親しい使用人を除けば、男性から名前だけで呼ばれたことはほとんどない。
「嫌ですか?」
「嫌ではありません。ただ、少し驚いて」
「では、決まりですね」
フランシスは満足そうに笑う。
「ほら。呼んでみて」
「今ですか?」
「今でなければ、明日もローゼンバーグ様と呼びそうだから」
「そんなことは……」
否定しかけたが、おそらくその通りだった。
クレアは少し迷い、それから青紫色の瞳を見つめる。
「では……フランシス」
名前を口にした途端、思っていた以上に距離が近づいた気がした。フランシスも一瞬だけ目を細める。
「うん。その方がいい」
「本当に、よろしいのですか?」
「もちろん」
彼は嬉しそうに答えた。
「明日が楽しみだよ、クレア」
今度はクレアの名前が、彼の口から自然にこぼれた。
胸の奥が、かすかに揺れる。
バーナードに名前を呼ばれるのとは違う。懐かしさも、安心もない。
けれど、初めて開いた本の頁をめくる時のような、不思議な高鳴りがあった。
「私も、楽しみにしています」
クレアが答えると、フランシスは少し困ったように笑う。
「また敬語に戻っている」
「あ」
「まあ、急がなくてもいいけれど」
「努力します」
「それも少し堅いな」
「では……頑張るわ」
「うん」
フランシスは満足そうに頷いた。
その時、屋敷の方から足音が聞こえた。
「クレア」
振り返ると、バーナードが庭園の小道に立っていた。
鍛錬を終えたのだろう。濃い焦げ茶の髪は少し乱れ、白いシャツの袖を肘まで捲っている。深い灰青色の瞳が、クレアとフランシスを順に見た。
「ここにいたのか」
「ええ。フランシスと、明日の予定を話していたの」
「フランシス?」
バーナードの眉が、わずかに動いた。
「ここにいる間くらい、堅苦しくせずに過ごしたくて。私の希望で、名前で呼び合うことにしたんです」
フランシスが穏やかに説明する。
「年齢も近いですから」
「そうか」
バーナードは短く答え、それ以上は何も言わなかった。けれどクレアには、なぜか彼の表情がいつもより険しく見えた。
「明日は川へ行くの」
「川?」
「フランシスに魚釣りを教えるのよ」
「お前が?」
「私以外に誰がいるの?」
「いや。お前なら間違いないが」
バーナードはフランシスへ視線を向けた。
「クレアは夢中になると、周りが見えなくなることがあります。足元には気をつけてください」
「バーナードったら。私はもう子どもではないわ」
「去年、木から落ちかけただろう」
「またその話をするの?」
「事実だ」
クレアが頬を膨らませると、フランシスが小さく笑った。
「心配しなくても大丈夫です。私がきちんと見ていますから」
その言葉に、バーナードの目がわずかに細められる。
「案内される側が?」
「必要なら」
二人の間に、ほんの一瞬だけ、妙な沈黙が落ちた。けれどクレアは、その意味に気づかなかった。
「それでは、私は部屋へ戻ります」
フランシスが姿勢を正す。
「クレア、明日はよろしく」
「ええ。朝食のあとに玄関で待っているわ」
「楽しみにしているよ」
フランシスは優雅に一礼し、屋敷へ戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、クレアは明日のことを考える。川のどの辺りなら、魚がよく釣れるだろう。水草も見せたい。昼食は屋外で食べられるように、料理長へ相談してみようか。
「ずいぶん親しくなったんだな」
隣から聞こえた声に、クレアは顔を上げる。
「そう見える?」
「ああ」
「フランシスは、思っていたより話しやすい方なの」
「王都の男は、口が上手い者も多い」
「どういう意味?」
「そのままの意味だ」
バーナードは少し不機嫌そうに答えた。
「初対面の男を、簡単に信用するな」
「お父様のお知り合いのご子息よ」
「それでもだ」
「もう。バーニーは心配しすぎなの」
クレアは笑った。
昔から、バーナードはこうだった。クレアが知らない人と話せば心配し、遠くへ出かけようとすれば危ないと言う。
きっと今も、妹のような存在を守ろうとしているだけなのだろう。
「大丈夫よ」
クレアはスケッチ帳を抱え直した。
「私だって、もう十八歳なのだから」
そう言って、屋敷へ向かって歩き出す。少し遅れて、バーナードも隣へ並んだ。
けれどクレアの心は、明日の川辺へ向かっていた。これまでなら、バーナードが帰ってきた夏に、ほかの誰かと出かけることを楽しみにするなど考えられなかった。
その変化に、クレア自身はまだ気づいていない。
バーナードもまた、自分の隣を歩くクレアが、明日は別の男に笑いかけるのだという事実に、胸の奥がわずかにざわついた理由を知らなかった。




