第二話 私の知らないバーナード
翌日の午後、クレアは庭園の東屋でスケッチ帳を広げていた。描いているのは、花壇に咲く薄紫色の花だ。釣鐘のように俯いて咲く花は、風が吹くたびに小さく揺れている。
その柔らかな輪郭を鉛筆でなぞりながらも、クレアの意識は別のところへ向いていた。
屋敷へ帰ってきたバーナードは、朝からシルヴェスターとともに父の執務室へ呼ばれている。王都の様子や騎士団での仕事について、話を聞かれているらしい。昨日の夕食でも、二人は王都での出来事をいくつか話してくれた。けれど任務に関わることだからと、詳しい内容までは教えてもらえなかった。
クレアは鉛筆を止め、スケッチ帳の上に頬杖をつく。
「騎士団では、どんなバーニーなのかしら」
領地にいる時のバーナードなら、よく知っている。子どもの頃から変わらず無骨で、口数はそれほど多くない。けれど困っている人を放っておけず、領民から頼まれれば、壊れた柵まで直してしまう。
幼い弟たちの面倒を見てきたせいか、誰かを背負ったり、荷物を持ったりすることにも慣れていた。クレアにとっては、怖い顔をしているのに、笑うと優しい。昔から大好きな人だ。
けれど、騎士として働くバーナードのことは、ほとんど知らない。どんな顔で剣を振るうのか。どんな声で部下に指示を出すのか。誰と一緒に働き、誰を信頼しているのか。
考えてみれば、クレアが知っているのは、ラングレー領へ帰ってきた時のバーナードだけだった。
「クレア」
聞き慣れた声がして、クレアは顔を上げた。庭園の小道を、シルヴェスターとバーナードが歩いてくる。
「お話は終わったの?」
「ああ。ようやく解放された」
シルヴェスターは苦笑しながら東屋へ入ってきた。バーナードもその後に続き、クレアの向かい側に腰を下ろす。
「何を描いていたんだ?」
バーナードがスケッチ帳を覗き込んだ。
「庭の花よ」
「また絵か」
「また、とは何よ」
「昔から好きだっただろう」
「ええ。だから、今も描いているの」
クレアは少しだけ胸を張った。
「上手くなったと思わない?」
「そうだな」
バーナードは描きかけの花を見つめる。けれど、すぐに表情を緩めた。
「昔は、人の顔を描いても全部丸かったからな」
「それは小さい頃の話でしょう?」
「俺の顔だけ、なぜか熊みたいだった」
「だって、バーニーは大きかったもの」
「今も大きいぞ」
「今なら、ちゃんと人間らしく描けるわ」
クレアが言い返すと、バーナードは声を上げて笑った。
やはり、絵について尋ねても、昔の思い出話になる。嫌なわけではない。懐かしい記憶をバーナードが覚えてくれていることは、素直に嬉しかった。
それでも、描きかけの花をもう一度見てほしいと思っていたクレアは、少しだけ物足りなさを感じた。
その時、庭園の向こうから馬の蹄の音が聞こえた。一頭だけではない。数人が屋敷へ近づいているようだ。
シルヴェスターが立ち上がり、木々の間から正門の方角を見た。
「誰か来たな」
「今日、来客の予定はあったか?」
「いや。父上からは何も聞いていない」
三人で庭園を出ると、正面玄関の前には、ちょうど数頭の馬が止まったところだった。
先頭の馬から、一人の女性が軽やかに降りる。深みのある赤い髪を高い位置で結び、すらりとした長身を騎士服に包んでいる。日に焼けた肌には健康的な艶があり、琥珀色の瞳は夏の陽射しを受けて明るく輝いていた。
女性は屋敷から出てきたシルヴェスターとバーナードを見つけると、にやりと笑った。
「やっぱり、ここにいたのね」
「ロザリンド?」
バーナードが珍しく驚いた声を上げる。
「どうしてここにいる」
「近くの駐屯地へ書類を届けた帰りよ。あなたたちが休暇で戻っていると聞いたから、少し寄ってみたの」
ロザリンドと呼ばれた女性は、迷いのない足取りで近づいてきた。そしてバーナードの前に立つと、その肩を軽く叩く。
「相変わらず愛想がないわね、クロウ」
「到着早々、喧嘩を売りに来たのか」
「事実を言っただけよ」
「余計なお世話だ」
二人のやり取りを見て、シルヴェスターが笑う。
「変わらないな、二人とも」
「あなたもね、ラングレー。領地へ戻った途端、顔が緩みすぎじゃない?」
「家でまで緊張していたくないからな」
「それは同感」
三人は親しげに笑い合っている。クレアは、その輪から少し離れたところに立っていた。
クロウ。
ロザリンドは、バーナードのことをそう呼んだ。騎士団では、姓で呼び合っているのだろう。聞き慣れない呼び方なのに、不思議なくらい彼に似合っていた。
「あら?」
ロザリンドが、ようやくクレアに気づく。琥珀色の瞳が、まっすぐこちらへ向けられた。
「こちらの可愛らしいお嬢さんは?」
「妹のクレアだ」
シルヴェスターが答える。
「以前、何度か話したことがあるだろう」
「ああ。あなたたちがよく話している妹さんね」
ロザリンドは明るい笑顔を浮かべ、クレアの前までやってきた。
「はじめまして。ロザリンド・ベルナーよ。二人と同じ騎士団に所属しているの」
「クレア・ラングレーです。お会いできて光栄です、ロザリンド様」
クレアが淑女らしく膝を折ると、ロザリンドは少し目を見開いた。
「本当に可愛いわね」
「え?」
「この二人から話を聞いていたから、もっと木登りが得意そうな、わんぱくなお嬢さんを想像していたの」
「お兄様たちったら、いったいどんな話をしているの?」
思わず兄を睨むと、シルヴェスターは視線を逸らした。
「嘘は言っていない」
「去年も木から落ちかけたしな」
バーナードまで平然と付け加える。
「バーニー!」
クレアが声を上げると、ロザリンドが楽しそうに笑った。
「バーニー?」
その一言に、クレアははっとする。ロザリンドは面白そうにバーナードを見た。
「ずいぶん可愛らしい呼ばれ方をしているのね、クロウ」
「子どもの頃からだ。いい加減、その呼び方をやめろとは言っているんだが」
「だって、バーニーはバーニーだもの」
「そうか」
「そうよ」
バーナードは興味がなさそうに肩をすくめた。ロザリンドはそんな二人を見比べると、どこか微笑ましそうに目を細める。
「仲がいいのね」
「妹みたいなものだからな」
バーナードは、ごく自然に答えた。
クレアの胸が、わずかに痛んだ。昨日も聞いた言葉だった。何度も聞かされ、そのたびに違うと否定してきた言葉。
それなのに今日は、いつもより強く胸に残った。
「そう」
ロザリンドは短く答えたものの、それ以上は何も言わなかった。
「立ち話もなんですから、中へどうぞ」
クレアは気持ちを切り替え、笑顔を作る。
「冷たい飲み物をご用意します」
「ありがとう。助かるわ」
ロザリンドは朗らかに笑った。
屋敷の客間へ移ると、冷やした果実水と焼き菓子が運ばれてきた。父は来客中だったため、シルヴェスターたちだけでロザリンドをもてなすことになった。
最初はクレアも、彼らの話を楽しく聞いていた。王都で評判の店。騎士団の近くにできた食堂。シルヴェスターが辛すぎる料理を注文し、最後まで意地になって食べきった話。
「お兄様、辛いものは苦手でしょう?」
「知らなかったんだ。見た目は普通だったから」
「顔を真っ赤にしながら、平気だと言い張っていたわよ」
「途中でやめればよかったのに」
「バーナードにも同じことを言われた」
「無駄な意地を張るからだ」
「お前は笑って見ていただけだろう」
「水は渡した」
「一杯だけな」
楽しげな話に、クレアも笑った。けれど、やがて話題は騎士団での任務へ移っていく。
「北門の警備体制は、結局どうなったの?」
「来月から人員を増やすそうだ」
「やっぱりね。あの人数では夜間の交代が厳しすぎるもの」
「第五隊から何人か回すと聞いた」
「それでは第五隊が足りなくなるでしょう」
「訓練を終えた者を補充するらしい」
「まだ早いんじゃない?」
ロザリンドの表情が変わった。先ほどまでの親しみやすい笑顔が消え、騎士らしい真剣な目になる。バーナードも背もたれから身体を起こした。
「あのまま実地に出さない方が危険だ。経験を積ませる必要がある」
「それは分かるけれど、北門は小競り合いも多いわ」
「だから俺たちがつく」
「あなた、自分一人で何人分かの仕事をカバーする気でいるでしょう」
「そんなつもりはない」
「嘘。先月だって、一人で三人分の仕事を引き受けたじゃない」
「あれは事情があった」
「いつもそう言うのよ、あなたは」
ロザリンドは呆れたように言いながらも、本気で心配しているようだった。バーナードも怒ることなく、彼女の意見を聞いている。
話の内容をすべて理解できるわけではない。それでもクレアには分かった。
二人は対等だった。
互いの考えを遠慮なくぶつけ合い、それでも相手が分かってくれると信じている。
バーナードはクレアに、危険な仕事の話をほとんどしない。心配させたくないからだと言う。どれだけ尋ねても、「大したことではない」と笑って終わらせてしまう。
けれど、ロザリンドには違った。彼女が相手なら、バーナードは騎士としての自分を隠さない。ロザリンドも、彼の強さだけでなく、無茶をする癖まで知っている。
クレアの知らないバーナードを、彼女は知っていた。
「クレア嬢?」
声をかけられ、クレアは我に返った。ロザリンドが、心配そうにこちらを見ている。
「退屈だったでしょう? ごめんなさい。つい仕事の話ばかりしてしまって」
「いいえ。そんなことはありません」
クレアは慌てて首を振る。
「騎士団のお話を聞ける機会は、あまりありませんから」
「そう?」
「はい。お兄様もバーナードも、詳しくは話してくれないんです」
「当然だ。聞いて楽しい話ばかりではないからな」
バーナードが言う。
「でも、ロザリンド様にはお話しするでしょう?」
口にした声は、自分で思っていたよりも小さかった。バーナードは不思議そうに眉を寄せる。
「ロザリンドは同じ騎士だからな」
「そうね」
ロザリンドはクレアの表情を見つめたあと、少し柔らかく笑った。
「でも、この人たちが領地の話をする時は、あなたの名前がよく出てくるわよ」
「私の?」
「ええ。花の絵を描くのが好きだとか、魚釣りではシルヴェスターより上手だとか」
「それは、バーナードが?」
期待を込めて尋ねると、ロザリンドは頷いた。
「二人ともよ。クロウは、あなたが子どもの頃に川へ落ちた話までしていたわ」
「それは忘れてほしいわ……」
クレアが頬を押さえると、ロザリンドが笑う。
「大丈夫。助けようとしたクロウまで一緒に川へ落ちたところまで聞いているから」
「あれはクレアが暴れたからだ」
「急に持ち上げられたら驚くでしょう?」
「溺れかけていたくせに」
「浅い川だったもの」
「それなら、なぜ泣いた」
「あの頃は小さかったからよ」
いつものようなやり取りに、客間の空気が和らぐ。クレアも笑った。
ロザリンドは優しい。クレアを馬鹿にすることもなければ、わざとバーナードとの親しさを見せつけることもない。むしろ、話に入れずにいたクレアへ気を配ってくれた。
だからこそ、胸の奥に生まれた小さな痛みを、誰かのせいにはできなかった。
ロザリンドは夕食前に帰ることになった。屋敷の前で馬に乗ると、彼女はクレアへ笑いかける。
「今度、王都へ来ることがあったら、騎士団にも遊びにいらっしゃい」
「よろしいのですか?」
「もちろん。案内するわ」
「ありがとうございます、ロザリンド様」
「ロザリンドでいいわ。私もクレアと呼んでも?」
「はい」
「では、またね、クレア」
ロザリンドはそう言うと、次にシルヴェスターを見る。
「休暇中くらい、きちんと休みなさいよ」
「ああ。君も無理はするな」
「私は自分の限界を知っているもの」
最後に、バーナードへ顔を向ける。
「クロウも。帰ってきたばかりで、鍛錬ばかりしないように」
「分かっている」
「あなたの『分かっている』は信用できないのよ」
ロザリンドは笑い、馬の腹を軽く蹴った。赤い髪が夏の風になびく。まっすぐに背を伸ばして馬を操る姿は、どこまでも凛々しかった。
クレアは、その後ろ姿が小さくなるまで見送った。
「格好いい方ね」
「ああ。腕も立つ」
バーナードが何気なく答える。
「騎士団でも頼りにされているんだ」
その声には、同僚に対する確かな信頼があった。
「そうなのね」
クレアは笑った。けれど、その日の夕食では、あまり話せなかった。
バーナードが隣にいても、昨日のようには胸が弾まない。ロザリンドと話していた時の彼の表情を、何度も思い出してしまう。
真剣な目。落ち着いた声。クレアには分からない言葉を交わしながら、一人の騎士として意見を述べていた。
あんなバーナードを、クレアは知らなかった。
食事を終えると、クレアは早めに自室へ戻った。侍女に髪を解いてもらい、就寝の支度を整える。いつもなら眠る前にも少し絵を描くのだが、今夜はスケッチ帳を開く気になれなかった。
一人になると、部屋がいつもより静かに感じられる。クレアは窓辺に立ち、夜の庭を見下ろした。虫の声が聞こえ、夏の夜風が薄いカーテンを揺らしている。
「ロザリンド様なら、バーニーの隣に並べる」
口にすると、胸の奥が苦しくなった。
騎士として同じ話ができる。任務の危険も、彼が抱える責任も知っている。無茶をすれば叱り、彼もその言葉をきちんと受け止める。
対等な大人同士に見えた。
それに比べて、自分はどうだろう。バーナードが思い出すのは、木から落ちかけたことや、川へ落ちて泣いたことばかり。絵を見せても、小さい頃の話になる。
何度好きだと伝えても、子どもの思い込みだと笑われる。
クレアは、そっと自分の髪に触れた。幼い頃は三つ編みを揺らしながら、兄たちの背中を追いかけていた。疲れれば、バーナードが背負ってくれた。
あの大きな背中は、今でもきっと安心するだろう。
けれど。
「私はいつまでも、背中に負ぶわれていた子どものままなのかもしれない」
ロザリンドが悪いわけではない。バーナードが彼女を好きだと決まったわけでもない。今日の二人を見ただけで、諦める必要などないのかもしれない。
それでも、初めて思ってしまった。
いつか大人になれば、バーナードは自分を見てくれる。
そう信じてきたけれど、その「いつか」は本当に来るのだろうか。クレアがどれほど成長しても、彼の中では、背中に負ぶわれて眠っていた少女のままなのではないだろうか。
窓硝子に映った自分は、昨日より少しだけ寂しそうに見えた。
「ずっと、バーニーが好きだったけど」
声が震えた。それでもクレアは、最後まで口にする。
「本当に諦めなくちゃいけない時が、来ているのかも」
初めて言葉にした途端、胸の奥に小さな穴が開いたようだった。
まだ諦めたわけではない。諦められるとも思えない。
けれど、これまでのように、いつか必ず振り向いてくれると無邪気に信じることは、もうできなかった。




