第一話 バーニー、おかえりなさい!
夏の陽射しが、ラングレー伯爵家の屋敷を明るく照らしていた。窓の外では、庭師たちが朝から忙しなく動いている。正面玄関へ続く道には水が撒かれ、花壇には色鮮やかな夏の花が咲き誇っていた。
けれどクレアには、花も青空も、いつもより少しだけ霞んで見えていた。
「まだかしら」
窓辺に立ち、クレアはもう何度目か分からないほど門の向こうを覗き込む。淡い赤みを含んだ蜂蜜色の髪は、今日はいつもより丁寧にハーフアップに結ってある。薄い水色のリボンは、昨夜、侍女と相談して決めたものだった。
別に、特別な意味はない。ただ、久しぶりに会う人に、少しでも可愛いと思ってもらいたかっただけだ。
「お嬢様、先ほどからずっと同じ場所に立っておられますよ」
後ろから侍女に声をかけられ、クレアは振り返った。
「シルヴェスター様からのお手紙では、昼になる前には着くとありました」
「だから、もうそろそろでしょう?」
「まだ正午の鐘も鳴っておりません」
侍女は困ったように笑った。
「馬車の姿が見えましたら、すぐにお知らせいたしますので」
「それでは遅いわ」
「遅くはございません」
「遅いの。門から玄関まで来てしまうもの」
クレアがそう言った、その時だった。遠くから馬の蹄の音が聞こえた。
クレアはぱっと顔を上げる。
「来たわ!」
「お嬢様、廊下は走ってはいけません!」
侍女の声を背中に受けながら、クレアは部屋を飛び出した。階段を駆け下り、長い廊下を抜ける。玄関の扉が開くのを待つことさえできず、自分で勢いよく押し開けた。
夏の光が、目の前いっぱいに広がる。
ちょうど二頭の馬が、正面玄関前で止まるところだった。一人は、深い栗色の髪をした長身の青年。クレアの兄、シルヴェスターだ。
そして、もう一人。
黒に近い濃い焦げ茶の髪。日に焼けた肌。肩幅が広く、騎士服の上からでも分かるたくましい体格。
深い灰青色の瞳が、こちらを向いた。
その瞬間、クレアの胸が大きく弾んだ。
「バーニー、おかえりなさい!」
玄関の階段を駆け下り、そのまま真っ直ぐ彼のもとへ向かう。
「クレア!」
兄が驚いたように声を上げたが、クレアは止まらなかった。バーナードは馬から降りると、駆け寄ってきたクレアを受け止めるように両手を広げた。
「危ないだろう。そんなに走るな」
「だって、待ちきれなかったの」
息を切らしながら見上げると、バーナードは呆れたように笑った。けれど、その笑顔は昔と少しも変わらない。
「ただいま、クレア」
大きな手が、クレアの頭に置かれる。くしゃり、と髪を撫でられた。
せっかく綺麗に結った髪が崩れてしまう。それなのに、不思議と嫌ではなかった。むしろ、その手の温かさが懐かしくて、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「もう。髪を崩さないで」
「昔は喜んでいたじゃないか」
「昔は子どもだったの」
「今もあまり変わらないな」
バーナードが楽しそうに笑う。クレアは頬を膨らませた。
「変わったわよ。もう十八歳だもの」
「そうか。もうそんなになるか」
「覚えていなかったの?」
「覚えている。ただ、早いと思っただけだ」
そう言いながら、バーナードはもう一度クレアの頭を撫でた。
まるで、幼い子どもにするように。
少しだけ胸が痛んだが、クレアは笑顔を崩さなかった。
「兄上には、おかえりを言わないのか?」
横からシルヴェスターが口を挟む。クレアは兄を見て、にっこり笑った。
「お兄様も、おかえりなさい」
「ずいぶん差があるな」
「お兄様は家族でしょう?」
「バーナードも、ほとんど家族みたいなものじゃないか」
その言葉に、クレアの胸がちくりとした。けれど兄に悪気はない。きっと、バーナードにも。
「それでも、バーニーは特別なの」
クレアがそう言うと、バーナードは困ったように眉を下げた。
「またその話か」
「またじゃないわ。帰ってきたら、最初に言おうと思っていたの」
「何をだ?」
「好きよって」
あまりにも真っ直ぐに告げたため、後ろにいた使用人たちが気まずそうに視線を逸らした。兄は小さくため息をつく。
けれどクレアは気にしなかった。昔から、何度も伝えてきたことだ。バーナードは驚きもせず、ただ少し呆れたように笑う。
「クレア」
「なあに?」
「君は俺を、兄のように思っているだけだ」
「違うわ」
「違わない」
「違うもの」
クレアが言い返すと、バーナードは肩をすくめた。
「俺とシルヴェスターは、昔から一緒に君の面倒を見てきた。だから勘違いしているだけだ」
「勘違いではないわ。ちゃんと恋をしているの」
「十八になったばかりの娘が、恋なんて言うものじゃない」
「十八歳は、もう立派な淑女よ」
「魚を素手でつかまえる淑女がいるか?」
「魚釣りが好きな淑女だっているわ」
「虫も平気で触る」
「虫取りが好きな淑女もいるの」
「木に登る」
「最近は登っていないわ」
「去年登って、枝から落ちかけただろう」
「それは去年の話でしょう」
バーナードが声を上げて笑い、クレアもつられて笑った。こうして話していると、離れていた時間など、最初からなかったように思える。
昔から、ずっとそうだった。
クレアがまだ小さかった頃、シルヴェスターとバーナードは毎日のように屋敷の外へ出かけていた。虫取り。魚釣り。林の奥にある秘密の場所探し。
年上の二人に追いつきたくて、幼いクレアは三つ編みを揺らしながら、必死にその背中を追いかけた。
『待って、バーニー!』
『遅いぞ、クレア』
『置いていかないで!』
『置いていかないから、転ぶなよ』
それでもクレアは、よく転んだ。膝を擦りむいて泣けば、バーナードがしゃがみ込み、背中を向けてくれた。
『ほら、乗れ』
『重いよ?』
『お前一人くらい、重くない』
小さな腕を首に回すと、バーナードは軽々とクレアを背負った。
『バーニーの背中、安心する』
『それなら寝てもいいぞ』
『寝ないもん』
そう言いながら、いつも途中で眠ってしまった。目を覚ませば、屋敷の自分の部屋にいる。そんなことが何度もあった。
昔からバーナードは、クレアに優しかった。泣けば慰めてくれた。怖い夢を見たと言えば、笑いながら頭を撫でてくれた。欲しかった木の実を取ってくれた。川に落ちれば助けてくれた。
だから、いつの間に好きになったのか、自分でも分からない。気づいた時には、もう特別だった。
兄とは違う。家族とも違う。
いつか、自分を一人の女性として見てほしい。そう願うようになっていた。
「クレア?」
呼ばれて、クレアは我に返った。
「どうした?」
バーナードが、不思議そうにクレアの顔を覗き込んでいる。少し屈んだせいで、精悍な顔が近くなった。
胸がどきりと鳴る。
「何でもないわ」
「ならいいが」
「ねえ、バーニー」
「今度は何だ?」
「王都で、好きな人はできなかった?」
クレアが尋ねると、バーナードはわずかに目を見開いた。
「なぜそんなことを聞く」
「気になるもの」
「いない」
「本当に?」
「ああ」
迷いのない返事に、クレアの顔が明るくなる。しかし、すぐにバーナードは言葉を続けた。
「そもそも、今はそんな暇はない。任務と訓練で手一杯だ」
「では、これからできるかもしれないのね」
「そういうこともあるだろう」
「それは困るわ」
「なぜだ」
「私がバーニーと結婚したいからよ」
今度こそ、シルヴェスターが盛大にため息をついた。
「クレア、少しは恥じらいを持ちなさい」
「家族の前だからいいでしょう?」
「よくない」
兄に叱られても、クレアは気にせずバーナードを見つめる。バーナードは相変わらず、困ったような、少し笑っているような顔をしていた。
「クレア」
「なあに?」
「君は、もっと同じ年頃の男を見たほうがいい」
「嫌よ」
「嫌と言っても」
「バーニーより好きな人なんていないもの」
「まだ出会っていないだけだ」
「出会っても、バーニーが一番よ」
「そう思っているのは今だけだ」
バーナードはそう言うと、クレアの額を指先で軽く弾いた。
「痛い」
「少しは目を覚ませ」
「もう。バーニーったら、いつもそうやってすぐにはぐらかすんだから」
クレアは額を押さえながら笑った。
きっと照れているのだ。今はまだ、クレアを子どもだと思っているだけ。いつか大人の女性になれば、きっと見てくれる。ずっと、そう信じてきた。
「まあ、いいわ」
「何がだ?」
「今日は帰ってきたばかりだもの。疲れているでしょう?」
「そうだな」
「では、ゆっくり休んで。夕食の時に、王都のお話をたくさん聞かせてね」
「ああ」
バーナードが頷く。クレアは満足して笑い、それから、いつものように言った。
「バーニー、大好き」
バーナードも、いつものように笑った。
「はいはい」
その返事はあまりにも軽く、まるで幼い頃から繰り返してきた挨拶のようだった。
けれどクレアは、まだ気づかなかった。自分の「好き」が、彼にとってはもう聞き慣れた言葉になっていることに。どれほど真剣に伝えても、いつもの笑顔で受け流されてしまうことに。
そして、この夏。
ずっと変わらないと思っていた三人の関係が、少しずつ動き始めることにも。




