9話 あと五十年
『それじゃあお店の手伝いをしているの?』
「まぁ、お手伝いって程でもないけどね」
突然掛かってきた電話は、延子からのものだった。
普段、メッセージのやり取りはしているが、こうして声を聴くのは随分と久し振りだ。
最初は少しだけぎこちなく。しかし、すぐに親子の会話となり、色々と話すうちマリンブルーでの話になった。
『へぇ……なんだか不思議な感じ。でも、お母さんだったらまぁそうか、って納得する気持ちもあるわ』
「そう?」
『だって、突然遠くの島に引っ越しちゃうし。マリンスポーツのお店でご飯作り始めても驚きより納得の方が強いわよ』
少しだけ棘のある言い方に、内心顔を顰めつつも、ニーノは部屋を見回しながら話を続けた。
「部屋も大分綺麗になったわよ。木谷さんが手伝ってくれるから、随分早く進んでるの。畑も苗を植えたのよ。本当に少しずつだけど育って来てて、可愛いの」
『ふぅん』
まだ延子の中で納得がいかないことも多くあるだろう。だが、それでもこうして関りを持とうとしてくれることは、有難く思わなくてはならない。
話を続けようとしたニーノは、延子の「え?」という声に耳を澄ませた。
「延子、どうしたの」
『ねぇ……マリンブルーよね、お店の名前。お母さんの写真あるものね、ここよね』
電話口の延子は、妙に硬い声で言った。
「マリンブルーだけど、なに? 写真って? 空来ちゃんが撮ってくれた写真よね?」
ニーノが訊いても、延子はすぐには答えなかった。あまりに焦らされたニーノは「なに?」ともう一度、語気を強めて訊いた。小さく唸った延子が、深刻な様子で答えた。
『お母さん……これ自分で見てないの?』
「見たわよ。写真。コメントだって見たわ」
その言葉に、延子は一瞬黙り込んだ。そうしてから、苦々しげに続けた。
『じゃあ、その空来ちゃんが黙っててくれたのかもしれないけど。酷いこと書かれてるじゃない』
「酷いこと?」
延子はそれには答えず、長い溜め息を吐いた。
『やっぱり、お店の手伝いは止めた方が良いと思う。こうしたことに巻き込まれるんだもの。大体、八十超えてやることじゃないわよ』
「ちょっと延子。一人で勝手に話を進めないで。何だって言うの?」
『私からは、とてもじゃないけど言いたくない』
「はぁ?」
ニーノは思わず声を上げた。その声に、延子が反応する。
『酷いことになってるのに、能天気にやりがい感じてるなんて、恥ずかしい。大体、お母さんはいつも──』
「勝手だって言いたいんでしょう? じゃあ今のアンタは何なの? よく判らないことを言って、恥ずかしいだなんだって。失礼にも程があるじゃないの!」
声を荒げたニーノに、延子は「もう知らないわよ!」と叫んで唐突に通話を切った。
プププと音が鳴った後、スマートフォンはシンと静まり返った。
ニーノは、それを卓に置き、暫く睨み付けた。
──一体、何だって言うの。
酷いこと。恥ずかしい。そう勝手に騒いで、実際詳しいことは話さずに「もう知らない」とは何事か。
苛立ちに顔を顰めてから、ニーノはスマートフォンを取り上げた。
時刻は二十三時を回っている。
──空来ちゃんには、明日訊こう。
明日はお茶会の約束をしている。その時に、延子の言った〝酷いこと〟について訊こう。そう決めて、ニーノは何処かもやもやとしたまま寝る支度をした。
次の日。
笑顔で訪れた空来に、延子の言っていたことを伝えると、その顔は見る間にしおれて俯いてしまった。
「空来ちゃん、何があったの?」
苦しそうな顔をする空来の横に歩み寄り、元気づけるように腕を擦ると、空来は今にも泣きだしそうに顔を歪めた。
「実は……マリンブルーにきたコメントは、良いものばかりじゃないんです。最初は『美味しそう』とか『行ってみたい』とか、そういうコメントが多かったんですけど……」
空来はそこで言葉を止め、スマートフォンを弄ってから、ニーノを窺うようにした。
「……本当に、知りたいですか?」
「うん、ちゃんと知りたい」
ニーノが言うと、空来は恐る恐るといった風にスマートフォンを差し出した。
拡大鏡を取り出したニーノは、表示されている画面を凝視した。
『ババアの飯とか要らねー』
『マズそう』
『うちの犬も食わねぇよ』
『しょぼすぎ』
『とっとと溺タヒしろ』
温かな言葉が綴られていた筈の場所には、見るに堪えない言葉が並んでいた。
「ねぇ、この『タヒ』って、どういう意味?」
ニーノが訊くと、空来は顔を歪めて、宙をなぞるようにして「死」という漢字を書いた。
「死って文字をバラシて書かれたものです。言い逃れする為に敢えて書かれた、酷い言葉です」
空来は唇を噛み、受け取ったスマートフォンの画面を消した。
その顔を見ている内、ニーノは不思議と慈しみの心が湧いてくるのを感じていた。自分でも不思議だった。酷いことが起きているというのに、今目の前で自分以上に悲しんでくれている人が居る、ということが、温かい気持ちにさせた。
「空来ちゃん」
そう呼ぶと、潤んだ瞳で空来はニーノを見た。それに、安心させるように笑みを浮かべる。
「大丈夫よ。私は全然気にしてない」
「でも……ニーノさんは何も悪くないのに、酷すぎます」
「空来ちゃん。私は、やっぱり本当に貴方のことが大好き。こうして他人のことに心を痛めくれる。貴方は、とてもいい子だね」
ニーノの言葉に、空来はぐっと顔を歪め、俯いた。その頭をゆっくりと撫で、ニーノは続けた。
「私は、八十二歳のおばあちゃんよ? 今までの人生で、こんなことは沢山あったわ。でもね、こうして寄り沿ってくれる存在っていうのも、確かに居るのよ。ちゃんと自分の周りに目を向けていればね。勿論、このコメントをした奴らの尻を思い切り叩いてやりたいわ。でもね、今の……ここまで生きてきた私はね、貴女みたいな人との時間を大切にしたい。『とっとと溺死しろ』って、黙ってても明日死んじゃうかもしれないのに。タヒんじゃうわよ! ばあちゃんなんだから」
言っている内に可笑しくなってきたニーノは、クスクスと笑ってから空来の肩を擦った。
「話してくれて有難う。気に掛けてくれて有難う。でも私は気にしていないわ。今日は、元々の予定通り、お茶を楽しみましょう」
「ニーノさん……」
空来は何かに耐えるように俯いた後、おもむろにニーノに抱き付いた。驚いたニーノに、空来は照れたように笑って体を離す。
「すみません。なんだか、抱き付きたくなっちゃいました」
そう言ってから空来は、少し冷めた紅茶で口を潤した。
「新しいお茶、淹れ直そうか」
ニーノは、空来からカップを受け取ると、台所へと歩いて行った。
延子の言っていたことは理解出来た。空来が抱えていたことも知った。その上で、自分は気にしていないのだと伝えることも出来た。
新しい紅茶を淹れて、楽しいお茶会の日に正したい。
「そういえば、瑛介君は知ってるの?」
ニーノが訊くと、空来は不満そうな声で答えた。
「一応、伝えてあります。でも『気にすんな。何かあったら俺が対応する』ってだけで。もう〝何か〟は起きてるんですけど! って感じです」
「あら、瑛介君らしいじゃない。店長ってのは、そういう感じでいいのよ」
ニーノの言葉に、空来が「えぇー」と声を上げる。
新しい紅茶を淹れる間、ニーノは棚からある箱を取り出した。
それは、すみれが挨拶に来た時に持ってきたものだった。繊細な装飾がされた箱を開けると、これまた繊細な焼き菓子が収められている。
「空来ちゃん、これ一緒に食べましょう。特別な時に食べようと思って取っておいたの」
世界的にも名が知れていて、最近出来たという店舗では行列が出来、通販では即完売というブランドの焼き菓子の箱を見せると、空来は驚きに目を見開いた。
「それって……簡単に買えないし、高いし、アタシじゃ実際に見ることは出来ないと思ってました……。良いんですか?」
「いいのよ」
皿に出して卓に置くと、空来は瞳を輝かせた。今日は空来の持ってきたケーキもあるが、沢山の甘くて素敵なものを一緒に食べたい気分だった。
ひとつひとつを物珍しそうに見ていた空来は、しかし、ふと表情を曇らせた。
「どうしたの?」
そう訊くと、寂しそうに瞳を揺らし、口をきゅっと引き結ぶ。
「ニーノさん……さっきの……『黙ってても明日死んじゃうかも』なんて、言わないで下さい。悲しいです」
その言葉に目を瞬いたニーノは、小さく笑ってからティーポットを取りに行き、ゆっくりとカップに注いだ。
温かで、甘やかな香りが漂う。
椅子に腰かけると、空来が問うような視線を向けた。
ニーノは、ゆっくりと窓の外に目を向け、考えるようにしながら口を開いた。
「勿論、死にたい訳じゃないのよ。生きてたいわ。この世には楽しいことが沢山あるもの。でもね、日々感じるの。少しずつ出来ないことが増えていく。出来る筈のことが出来なくなっていく。私は、同年代と比べればしっかりしている方だけど、それでも〝うっかり〟は増える。体調も一度崩すとなかなか立て直せない。体の何処かが何をした訳でもないのに痛む。これが、年を重ねる──老いる、ということ。それは、どうしようもないことなのよ」
静かに耳を傾けていた空来は、ニーノの視線を追うようにして窓の外に目を向けた。
そこには、日々明るさを増す青い空と海が広がっている。対岸の樹々は深く艶々と葉を広げている。
ニーノは、窓の外を見つめる空来の横顔をちらと見つめた。
この島を訪れなければ、この家に住まなければ、きっとこうして話すこともなかった。心を動かすことも、砕くこともなかった、愛すべき子。
「でも──」
空来が言った。続きを待っていると、暫く間を開けてから、空来は続けた。
「──でも、やっぱりニーノさんが居なくなっちゃうって考えたら悲しいです。寂しいです。どうしようも……ないことだと理解していても、それでも……」
「想い出は消えないって言うでしょ。きっと、そういうことよ。空来ちゃんがそうやって私のことを想ってくれるなら、私はまたひとつこの世での未練みたいなものを手放せるわ」
ニーノが言うと、空来はぎょっと目を剥いて、顔を顰めた。
「じゃあ、アタシ、ニーノさんのこと忘れることにします。そしたらニーノさんは未練たっぷりでしょ?」
口を曲げていた空来は、しかし、思わずといった風に笑みを浮かべた。一瞬だけ、視線を落としてからいつも通りの笑顔を浮かべる。
「アタシは、ニーノさんに出会えて良かったです。こうしてお茶したり、お店を……手伝って貰ったり。一緒に過ごせる時間を目いっぱい楽しみたいです」
そこで言葉を止め、ピッと指を立てる。
「それに、ニーノさんは『明日死んじゃうかも』っていう姿勢かもしれませんけど、だからって明日死んじゃう訳じゃないですからね。もしかしたら、あと五十年生きるかもしれないですよ。ギネス更新です」
真剣に言う空来の様子に、ニーノは思わず笑い、手を振った。
「いやぁ~よ。何が悲しくて百三十歳まで生きなくちゃいけないの」
ケラケラ笑っていると、空来も釣られたように笑い始める。
「でも、本当に……自分がいつまで生きるかなんて、誰にも判らないじゃないですか」
「それはねぇ」
そう言うと、どちらともなくカップを取り上げ、紅茶で喉を潤す。
「どれ食べようかなぁ……ニーノさんは、どれが気になってますか?」
空来が皿の上に目を走らせながら、真剣な声で訊いた。
その様子を愛おしい気持ちで見つめながら「んー、これかな」と、ニーノはクッキーを指差した。




