7話 お袋の味
「ニーノさん、前に言った話覚えてます? お袋の味ってやつ」
ある時、松島が言った。
いつしか恒例になっていた、マリンブルーでの食事中のことだった。
「あぁ……このお店で私の料理を出すってやつ?」
「そうそう。来週のお客さん、こういうのもありますよって話したら、是非食べたいって言ってて。どうです? 予定とか、体調とか」
「予定は……大丈夫よ。体の方も問題なし」
この所は、不調という不調もなく、天気も良好。時折訪ねてくる木谷と家を修繕したり、お茶を飲んだりと平和な毎日が続いていた。
「じゃあじゃあ、ニーノさんもマリンブルーで一緒に働けるの⁉」
パスタを食べながら話を聞いていた空来が、瞳を輝かせて立ち上がった。
「おい、行儀悪いぞ、座れ」
松島が言うのに、空来は大人しく座り直し、改めてニーノを見つめた。
「ニーノさん、何作るんですか? お味噌汁はマストですよね。あの赤みそ混ぜるやつ」
「そうねぇ……」
ニーノは考えながら、松島を見やった。
「本当に私が作って良いのよね?」
「ええ、勿論。こっちがお願いしたことだし、お客様もそう望んでます」
そう言われると、不思議な心地がしてくる。今までの人生で、家族以外に手料理を振舞ったのは数える程しかない。この島に来てから、マリンブルーの二人や、木谷に振舞ったのを除けば、だが。
「希望の料理とかはあるの?」
松島が笑みを作った。
「特には。アレルギーとかもないみたいだから、ニーノさんが作りたいもので良いんですよ。家に帰って食事のメニューが判ってることってあんまりないと思うんで。お客様もそういうのを求めてると思うなぁ」
ニーノは、その言葉に頷きながら、いくつかの献立を考え始めていた。
──きっと、なんてことはない料理が良いのよね。
うんうん、と知らず考え込んでいたニーノは、突然目の前に差し出されたアイスクリームのカップに目を瞬いた。
「ニーノさん、献立考えるのも良いけど、今は一緒にアイス食べましょ。約束のアイス」
透明の蓋を外して渡されたアイスクリームに、ニーノは暫く見入った。
ピンクと白のアイスクリームに、赤いジャムが練り込まれ、星型のチョコレートが散りばめられている。
「かわいい……」
「ね、可愛いですよね! それは新作なんですよ。ピンクミルキーウェイっていう名前なんです。名前も可愛い!」
ちらと空来の手元を見ると、ニーノも見覚えのある真っ白なアイスクリームが収まっていた。
「空来ちゃんのは、バニラアイス?」
ニーノが訊くと、空来はふふふと笑う。
「そうなんです。この時期はバニラアイスを食べたくなっちゃうんです」
「あら、何か思い出があるの?」
パクパクと何口か食べてから、空来は嬉しそうに笑った。
「まだ中学生の頃、ちょっと学校で嫌なことがあって。学校行きたくない! って言ったら、お母さんが『じゃあ買い物に行こう』って連れ出してくれて。そんな気分でもなかったんだけど、アイスでも食べようかってなって。アタシはまだ気分が乗ってなかったから、適当に、これでいい! って指差して。それがバニラアイスだったんですけど……なんか、アイスを食べながら空を見上げたら、悩んでたことが全部どうでもよくなっちゃって。次の日から普通に学校に通ったし、特に何もなく今に至る訳ですけど……なんか、毎年この時期になると、あの時のことを思い出しちゃうんです。だから、この時期はバニラアイス一択なんです!」
嬉しそうに笑う空来に、ニーノも釣られて笑った。まるで、かつての空来の姿が。空来の見上げた空が、見えるようだった。
温かい気持ちでピンクミルキーウェイを掬って口に運ぶ。甘くて、何処か酸っぱい風味が口いっぱいに広がっていく。
「美味しい。このアイスクリーム屋さんのことは知ってたけど、初めて食べたわ」
「じゃあ、ニーノさんの思い出の味になりますかねぇ」
「いや、お前みたいに単純じゃないだろ、ニーノさんは」
先程から黙ってアイスクリームを食べていた松島が、からかうように言った。空来が松島を睨み付ける。
「本当、店長ってデリカシーなし! キャラメルファンタジーなんか食べちゃって。乙女~チャラ男の癖に~」
「おい、別に男でも食ってもいいだろ! これがあの店で一番美味いんだ」
「何それ! いっつもいっつもキャラメルファンタジーて。ちょっとは冒険しようと思わないんですかぁ⁉」
「しない。俺はこうと決めたら一筋なんだ」
「……重っ。だから、彼女に振られるんですよ」
「アイス選びにそれは関係ないだろ」
目の前で繰り広げられる、見慣れた言い合いを、ニーノは微笑ましい気持ちで見守りながらアイスをひと口、またひと口と運んでいった。
甘酸っぱいその味は、確かに思い出の味になりそうだった。
マリンブルーから海上の若者達を眺めていたニーノは、彼等が浜へと上がり店へと戻って来るのを確認して、心臓がはち切れそうな程高鳴っているのを感じていた。
「あー、お腹空いたぁ!」
「あ……お帰りなさい」
ニーノが声を掛けると、マリンブルーの客である女子大生が笑顔を浮かべた。
「ニーノさん! 私ほんとお腹空いちゃいました。ご飯はなっんっでっすか~」
歌うように言いながら、女子大生は鼻をクンクンと鳴らした。
「お味噌汁……焼き魚……あと煮物……久しぶりの香り」
ニーノが手で示した場所に、若者達は何処か満たされた笑みを浮かべて腰かけた。楽しそうに話し合う卓に、料理を乗せた盆を運ぶ。
わぁ、と声が上がるのを笑みで受け止めながら、ニーノは松島や空来に視線を送った。二人ともいつも通りの笑顔のままで、軽く言葉を交わしている。
いただきまーす! という声を上げて、若者達は食事に取りかかった。
ドキドキと見守っていたニーノは「美味しい」「これ好き」と次々に箸が進んでいく若者達を、信じられないような気持ちで見つめていた。
このような気持ちは、いつぶりだろう。あれは、確か延子の運動会に持って行ったお弁当を食べた時だ。見た目が可愛いお弁当が良いと言われ、あれこれ考えて作ったのだ。
あの時の延子の顔を思い出し、ニーノは自然と笑みを浮かべていた。
しかし、ふと手が止まった女子大生の様子に、笑顔が引っ込む。
よく見れば、女子大生は濃くメイクした瞳に、涙を浮かべて俯いていた。
松島がぎょっとした顔で、女子大生を凝視する。
「あ、あの……美味しくなかった? ごめんなさいね」
ニーノが言うと、女子大生はぶんぶんと首を振る。そして、涙混じりの声で言った。
「美味しいです。美味し過ぎです……。ママ──母のことを思い出しちゃいました。味付けが似てるって訳じゃないんだけど、なんか……お袋の味感が──」
言葉を詰まらせた女子大生の隣に座る同じようなメイクの女の子が、女子大生の頭を撫でながら言った。
「すいません、この子ホームシックなんですよ。でも、気軽に帰れる距離じゃないし、気分転換でもしようってことで此処に来たんですけど……〝お袋の味作戦〟効きすぎちゃったみたいです」
女子大生は、ボロボロと零れる涙を拭ってから、箸を持ち直した。
「今日電話してみる。何か、恥ずかしくて出来なかったけど……でも、今日のこと話したりして……」
そこで言葉を止め、ニーノを見上げて笑った。
「ニーノさん、ご飯すっごい美味しいです。有難うございます」
その言葉に、ニーノは何処か泣きそうな気持ちになりながら、笑みを返した。
「こちらこそ。さぁ、冷めないうちに食べちゃいなさい」
途端に、笑みを浮かべていた女子大生の顔が歪む。ぎょっとしたニーノが隣の女の子に目を向けると、彼女も驚いて「どうしたの?」と慌てている。
「冷めないうちに食べちゃいなさいって……ママにもよく言われてたからぁ……!」
宥めていた女の子が、呆れたような顔をする。
「あぁ……アンタ、食事の時もスマホ弄ってたりするし、テレビ見ておろそかになったりするもんね。ほら、ニーノさんとアンタのママの言う通り、冷めないうちに食べよ」
「うん……!」
再び涙を拭った女子大生は、泣き笑いの顔をしながら、食事を再開した。
ニーノは、その様子を温かい気持ちで見守っていた。
実際に顔を合わせることもないだろう、彼女の母親の気持ちに、少しだけ寄り沿いながら。
その日の営業を終え、マリンブルーで夕食を取ったニーノは、食後、空来が嬉しそうに声を上げたのに顔を上げた。
「さっきのお客様、SNSに写真上げてますよ!」
空来が差し出したスマートフォンを覗くと、確かにマリンブルーを背景に皆で撮った画像が表示されていた。ニーノはそれをじっと見つめ、首を傾げた。
「これ……私よね。同じ服着てるもの。でも……本当に私かしら。皺もないし、なんだか、目も大きくなってるじゃない?」
目を瞬いた空来が、可笑しそうに笑い声を上げた。
「最近は、こうしてより綺麗にするのが流行ってるんですよ。私も、凄く綺麗にして貰ってるでしょ?」
画像の中の空来は、確かに顔が小さくなり、目が大きくなり、鼻がツンとしていた。まるで夢見る乙女のようだった。
これが本当に自分なのか疑う気持ちもあるが、悪い気がしないのも確かだった。それに、随分と大胆な変わりように、可笑しな気持ちにもなってくる。
「ふぅん……最近の子は凄いのねぇ」
ニーノの言葉にふふ、と笑った空来は、画像の下の文字を指差した。
「ここ見て下さい。『ニーノさんのご飯美味しかった』『ニーノさん有難う』って色々書いてありますよ」
拡大鏡を取り出したニーノは、小さく並ぶ文字をじっと凝視して読んでいった。
マリンブルーでのSUP体験のことや、食事のこと、母とのこと。それらが明るい言葉たちで書き綴られている。
「……ニーノさんラブ。ラブだって」
思わず笑いながら空来にスマートフォンを返すと、空来も嬉しそうに笑って、再び画面に見入った。
「ニーノさんの〝お袋の味作戦〟大成功ですね」
「あぁ。──ニーノさん、今日は本当に有難うございました」
皿洗いを終えた松島が、畏まって頭を下げた。ニーノはこそばゆい気持ちになりながらも、同じように頭を下げた。
「いいえ、こちらこそ。貴重な体験をさせて貰いました。なにより、お客様に喜んで貰えてよかった」
ニーノは、子供が生まれる前のほんの少しの期間だけ事務仕事をしていたことがあったが、こうして実際にお客様と対面するということは初めての体験だった。
いつもは自分が客側の立場にあるが、もてなす側というのも、なかなかに面白い。
「また、お願いしてもいいですか?」
松島の言葉に、ニーノは笑顔で頷いていた。
「ええ、勿論。体調と相談して、で良かったら」
この年まで生きて、まだ初体験出来ることがあるということに、ニーノは嬉しいような途方もないような気持ちになった。
その日、布団へ入ってからも様々な考えが頭の中をぐるぐると巡っていたが、体は随分と疲労を溜めていたらしく、すぐに眠りに落ちていた。




