6話 やり直しの「初めまして」
数週間経った頃、突然、木谷がニーノの家を訪れた。
「あら、木谷さん……。体はもう大丈夫なの?」
松島から近いうちに退院出来るらしいと聞いていたが、その知らせを聞く前に本人が玄関口に立っていた。
「……その節は、助かった。有難うございます」
そう言って、頭を下げる。
ニーノが驚いていると、木谷は紙袋から菓子折りを出して差し出した。
「これ、つまらないものですが……」
それは空来がよく話している有名店の菓子折りだった。何度か空来が茶請けとして買って来てくれたが、どれも美味しく、見た目も可愛らしくて、ニーノも気に入っているパティスリーだ。
「どうも……お気遣いなく……」
呆けながら受け取ったニーノの前で、木谷の視線が縁側に移った。
「あれは、何してるんだ」
記憶通りのぶっきらぼうな言い方に戻ったことに、眉を顰めながらも、ニーノは縁側に置いた椅子を指差した。
「あぁ、ちょっとグラグラしてるから、直そうと思って」
ふぅん、と言って、木谷は縁側へと歩いて行く。縁側の窓は換気の為に開けていた。
木谷は椅子を掴むと、それを立て、手で押してぐらつきを確認してから、再び横にして留め具の辺りを触り始めた。
「ドライバー」
「は……?」
「だから、ドライバー」
ニーノは言われるままにドライバーを室内に取りに行き、木谷の差し出した手に置いた。慣れた手でドライバーを扱い、椅子を弄り始めた木谷の様子に、ニーノの中でふつふつと怒りが湧いてきていた。
──「ドライバー」って。貸して下さいくらい言えないの?
そう言ってやろうと口を開いた時、木谷が椅子を立てて、座面を叩いた。
「直った。きつく絞めておいたから、もう緩むことはないだろ。座ってみろ」
気勢をそがれたニーノは、言われるままに椅子に座り、頷いた。
「あぁ、何だか……前よりしっかりしたような気がする。随分とあちこち緩んでたのね。買ったのはもうずっと前の事だし」
それは、まだ子育てをしている時に買った椅子だった。詳しい時期は覚えていないが、確か延子が小学校に通い始めた辺りだっただろうか。
ふと、その時の感情までもが蘇って、ニーノは小さく微笑んだ。
「色々と自分で家のことを弄ってるんだって? 男手がなくて平気なのか」
「……え?」
一瞬、馬鹿にされたのかとニーノの中で再び怒りが湧き出したが、木谷は真剣な顔で家の中を見回していた。
ニーノは、一度気分を落ち着けてから答えた。
「まぁ……体調を見ながら少しずつ。本当に大変な時は瑛介君とか沼川さんにやって貰うこともあるけど、上手くやってますよ」
ニーノの言葉に、木谷は難しい顔をした。何かを言いたそうに口をもごもごと動かし、視線を彷徨わせてから、再び家の中を見つめ口を開いた。
「俺は……昔からこういうことが得意でな。何かあったら言うといい。別に金は取らない。その……あれだ」
暫く言葉の続きを待ったニーノは、「ああ」と声を上げた。
「もしかして、お礼とか? そんなの気にしなくてもいいのに。お互い様でしょ。あんなに立派な菓子折りも頂いちゃったんだから、それでいいんですよ」
そう笑い飛ばしたが、木谷はムスッと黙ったままだった。
「……違うの?」
ニーノの問いに、木谷は「娘が」と苛立ちを滲ませて答えた。
「娘にアンタとのことを話したら、酷く叱られたんだ。失礼にも程があるって。俺にそういうつもりはなかったが、どんなに失礼だったかと延々と説教されてな。確かに、失礼ではあったと、そう思ったんだ」
「それで、DIYを手伝おうと?」
「……まぁ、魚が釣れればそれを持って来てもいいが、此処はあんまり釣れないからな」
恥ずかしそうに言う木谷の様子に、ニーノがクスリと笑うと、木谷はぎょっと目を見開いた。
「そんな、気にしなくてもいいのに。浜で倒れていた時は驚いたけど、こうして無事だっただけで、いいですよ。私達の年じゃあ自分で歩いていられるだけで、儲けもんでしょう?」
ニーノは立ち上がると、キッチンに向かいながら木谷に声を掛けた。
「直して貰ったお礼にお茶でも淹れますね。お菓子も一緒に食べましょう。今日、初めましてをやり直すの」
木谷は「お礼にお礼じゃキリが」と戸惑っていたが、大人しく縁側に腰かけた。それを肩越しに見てから、ニーノは内心で忍び笑った。
──お詫びに魚を持ってこようとしてたなんて、昔読んだ絵本みたい。
菓子に合わせて紅茶を淹れて戻ると、木谷は大人しく受け取った。クッキーの袋を取って皿に出すと、一枚を取って口に運ぶ。
ニーノ達のような年になると、もう菓子折りも消費するのが一苦労だ。それならば、こうして誰かと食べる方が良い。
「それじゃあ改めて。私は新野巻子です。半年程前にこの島へ越してきました。此処で出来たお友達からはニーノって呼ばれてます」
木谷は「ニーノ」と不思議そうな顔をして、一度口を湿られてから言った。
「俺は木谷勇造。隣の島に住んでる。呼び名は特にない。木谷さんとかその辺りだ」
「え、隣の島から来てるの?」
思わず聞いたニーノに、木谷は不可解そうな顔をした。
「そうだが。島の間に橋があるだろ。あそこを渡って」
確かに、隣の島との間には橋が掛けられている。しかし、ニーノの住むこの島の端まではかなりの距離がある筈だ。
感心したように全身を見回すニーノに、木谷が怪訝そうな顔をする。ニーノは慌てて言った。
「あぁ、違うの。道理で足腰がしっかりしてるんだな、と思って。内臓は鍛えられないから仕方ないけど」
ニーノの言葉に、木谷は不服そうに鼻を鳴らした。
「アンタ──ニーノさんはいくつだ?」
その問いに、ニーノはぎょっと目を剥いた。少しは仲良くなろうと茶を淹れたことを僅かに後悔しながら、ツンと顎を上げ答える。
「八十二ですけど。木谷さんは?」
「……七十八」
「あら、年下なのね。それだったら、まだ心臓がなんだって言ってる場合じゃないわね」
そう言うと、木谷は渋い顔をしてカップを口に運んだ。
この年になると、少しの年齢差は殆どないようなものだが、それでも微妙に効く場合もある。
「アンタは何でまたこんな島に、そんな年で引っ越して来たんだ。追い出されたか。此処は姥捨て山というには長閑だろ」
「う、姥捨て山⁉」
ニーノは思わず木谷の腕を勢いよく叩いていた。「痛っ」と呻いた木谷が、顔を顰めてニーノを見やり、表情を凍り付かせる。
「さっきから聞いてれば……娘さんから何を叱られたのか理解していないの⁉ 悪気がなければ何を言ってもいいの⁉ 謝れば済むと考えているの⁉ 甘いわよ! どんなに謝ったって、許されないことだってあるのよ⁉ 貴方はご存じないかもしれないけどねぇ!」
ニーノの勢いに身を竦ませた木谷は、視線を彷徨わせてから深々と頭を下げた。
「すまん……いや、申し訳ない。申し訳、ございません……。本当に……こういうものの言い方が駄目だと、娘からは言われているんだ。つい……いや、ついでこんな失礼なことを言うものじゃない。申し訳ない。俺が言いたかったのは、長閑だが、俺達のような年寄りが住むには何かと不便が多いだろ、ということで」
最後の方は消え入りそうな声で木谷は言った。
その様子を見下ろしてから、ニーノは溜め息を吐いた。
「判りました。木谷さんが、ぶっきらぼうでぞんざいな酷い言い方をするのは知っているし、心臓病の人の心臓をこれ以上虐めるつもりはないわ。顔を上げて頂戴」
そろそろと顔を上げる木谷に、ニーノは指を突きつけて続けた。
「でも! また失礼なことを言ったら、私はちゃんと怒りますからね。貴方がそういう人だって受け流すつもりはない。そこは覚悟してもらいますから!」
僅かにせいせいしながら言うと、木谷が小さく笑みを作った。慌ててそれを隠したのを、ニーノは責めるような視線で睨み付ける。
「いや、すまない。こんなに元気な女性は初めて会ったもんで、驚いている。本当に、失礼なことをしたと思ってる。すみれにも、よく叱られている」
「すみれ? 娘さん?」
木谷は、ひとつ頷いた。
その様子をちらと見やってから、ニーノは訊いた。
「此処に釣りに来てること、すみれさんには秘密だったの?」
木谷は、暫く考え込んでから「ああ」と答えた。
釣りをする後ろ姿は、嫌という程見掛けてきた。何処か寂し気なその様子は、何も細身だからではない。釣れもしないのに、わざわざ隣の島から釣り糸を垂らしに来る。
そもそも釣りが本当の趣味かどうかも怪しい所だ。
「私が此処に越して来たのは、以前に旅行で来て気に入ったから、っていうのも勿論あるけど、延子──娘から『老人ホームに入ったら』って言われて、それは違うと思ったからなの」
ニーノの言葉に、木谷は驚いた顔をした。
「それは、勿論反対されたよな?」
「ええ、されたわよ。『お母さんは勝手』って怒られもした。でも……本当にそれでいいのか。それで、私の人生は終わるのか。と思ったら、この島のことが浮かんだの。勿論、ホームに入ることは悪いことじゃない。でも、私には……」
上手い言葉が見つけられず、言い淀んだニーノに、木谷の「あぁ」と溜め息のような声が届いた。顔を見ると、何処か安堵したような様子で、クツクツと笑い始める。
呆気に取られるニーノに、木谷は観念したように話し始めた。
「俺も同じようなものだ。心臓をやってから、すみれがずっと体のことを気に掛けてくる。勿論、それは有難いことだ。だが、何をするにも『心臓が』と繰り返されて、制限されれば嫌にもなる。アイツにはアイツの人生があるっていうのに、俺にばかり気を遣って、時間を掛けて……だから、俺はいつもこっそり家を抜けて此処に釣りに来てた。娘にまるで役に立たない生き物のように扱われるのから逃れる為。そして、娘に娘の人生を生きて貰う為」
木谷は、そう言ってから、海の方に目をやった。
その顔は見えない。
それでも、きっと見える筈のないずっと遠くを見つめているのだということが判った。
「妻を……早くに亡くして、娘には苦労を掛けてきた。だから、これ以上は迷惑を掛けたくないんだ。出来るだけ……」
ニーノは、その言葉に胸が締め付けられる思いがした。
自分の子供に迷惑を掛けたくない。それは多くの親が思うことだろう。だが、年を重ねる毎にその可能性は高くなり、逃れようもない現実となる。それでも、少しでも迷惑をかけてしまうのを減らしたい、そう思ってしまうものなのだ。どんなに不可能なことだったとしても。
「此処の事がバレた。今日はお礼に行くだけだから、と伝えたが、これからは俺が家を出たら真っ先に此処を探されるだろう。また別の場所を探さないとな。まぁ、アンタには有難い話だろうが」
木谷の言葉に、ニーノはじっと考え、ポンと手を打った。
「だったら、この家に遊びに来ればいいのよ。それならすみれさんも安心じゃない?」
「……は?」
呆けた声を出す木谷に、ニーノは修理したばかりの椅子を叩いた。
「ほら、この家はまだ修理しなきゃいけない所が沢山あるの。貴方そういうの得意なんでしょ? 力を貸して頂戴な。あぁ、あと畑仕事は出来る? 夏には自分で育てた野菜でご馳走作るの。マリンブルーの二人も誘ってね。どう?」
ニーノがウキウキとして言うと、木谷は呆然と辺りを見回してから、畑に目を留め、一瞬だけ泣きそうな顔をした。
「畑は、かみさんが好きでやってた。俺はそんなに詳しくないが、本が何冊かあったと思う。持ってこよう。大工仕事なら、大体のことは出来る」
木谷は、部屋の中を見回し、歪んだ棚に目をやった。その棚も長く使ったせいで歪みが生じているものだった。まだ倒れる様子はないから、後回しにしていたものだ。
「勿論、釣りだってしてていいわよ。この家はゆっくり体の調子を見ながら整えていくの。貴方だって心臓は労わらないと。私は腰とか、目とか色々ね……。お互い、何処かしら悪いものでしょう? でも、此処に集まればどちらかが気が付くことが出来る」
そう言うと、木谷は愉快そうに鼻で笑った。
「変わった老人ホームだ」
「まぁ! もっと別の言い方出来ないの? すみれさんに言いつけるわよ」
ニーノの言葉に、木谷が口を曲げた。そうして、どちらからともなく笑い合う。木谷は何処かぎこちなく。「そうやって笑ってた方が良いわよ」と言うと、口を引き結んでしまったけれど。
ほんの数十分前までは、ただの失礼な男でしかなかった木谷という存在が、ニーノの中で同じ悩みを持つ仲間となった。
──まぁ、失礼なのは変わらないけど。
「すみれさんの時間が空いてる時にでも、此処に遊びに連れてらして。そしたら、少しでも安心出来るように私から言っておくから。そしたら、貴方も気が楽なんじゃない?」
「そうだな……」
木谷は、立ち上がるとおもむろに深々と頭を下げた。
「よろしく頼む。友人でもなんでもないアンタに……ニーノさんに頼るのは申し訳ないが、助かる。あと、本当に言葉には気を付けるが──」
「あぁ、ハイハイ。そういうのは良いから。堅苦しいのは止めましょ。気楽に、ね。それに、さっき言ったでしょ。此処で出会ったお友達からはニーノって呼ばれてるの。貴方もニーノって呼んだでしょ。だから、もうお友達よ。……この年で、こんなこと言うの恥ずかしいけど」
ニーノが笑みを作ると、木谷は難しい顔をして言った。
「そりゃ、俺達は還暦を過ぎて随分経ったからな」
「は? 還暦?」
「だから……還暦すると、人生の再スタートって言うだろ」
もごもごと言う木谷に、ニーノはぷっと噴き出した。
「木谷さんって、上手いこと言おうとしてるのに上手くいってない。可笑しい」
クスクス笑うニーノに、木谷が不機嫌そうに顔を背ける。
「今日はもう帰る」
そう言って背を向ける木谷に「じゃあすみれさんによろしく伝えておいて」と声を掛けてから、ニーノは気が済むまで笑った。
「今日は、だって」
少しずつ、本当に少しずつだが、日常は変わり続ける。
そして、どんな人にも見えない事情と、過去がある。
妙に神妙な気持ちになって考え込んだニーノは、再び笑い声を上げると、修理の済んだ椅子を卓の許に戻した。
使い古したその椅子は、何処か新しい輝きを纏っているように見えた。




