5話 老いるということ
毎日が思い通りに過ぎる訳ではないが、もうすっかりこの地での生活にも慣れてきた頃、畑仕事をしようと庭に出たニーノは、浜に横たわる人影に度肝を抜かれた。
「あ、あ、あんた……!」
その後ろ姿は、今ではすっかり見慣れたものだった。
「き、き……木谷さん!」
悲鳴のような声を上げながら、ニーノは慌てて浜へと駆け下り、その体に触れようとした。「うぅう」と呻く声が小さく聞こえている。
「ちょ、ちょっと……木谷さん! どっか痛いんだね⁉ どうしたの、いつから此処に居たの⁉」
今朝は少しだけ肌寒くて、日がしっかりと出てから庭に出ようと、朝の内は外を見ることはなかった。木谷がいつから此処に居るのか判らない。
触れた肩は、僅かに冷たくなっている気がした。
「ニーノさん?」
堤防の上から松島が顔を覗かせた。横たわる木谷の姿に気が付き、ハッとする。
「瑛介君……! 救急車、救急車呼んで!」
ニーノの声に頷くと、ポケットからスマートフォンを取り出した松島は、駆け足で寄ってきながら「救急です!」と答えている。
その時、倒れ込む木谷が何事かを呻き、震える手を伸ばそうとした。
「動くんじゃないよ。今、救急車が──」
「……要らん。救急、車など……呼ぶな……」
「何言ってるの、そんな状況で⁉ 起き上がれもしないでしょ⁉」
ニーノが叱り飛ばすと、顔を歪めた木谷は、それ以上反論はしなかった。
「ニーノさん、救急車すぐ来ます」
「有難う、瑛介君」
松島は、木谷に声を掛け、どんな症状があるかを確認していく。マリンスポーツ屋を営むにあたって、ある程度の知識はあるらしい。
ニーノがそれを見守るうち、サイレンの音が近付いてくると、救急隊員が浜へと降りてきた。松島が手早く事情を説明する。
木谷は少しだけ呻いていたが、大人しく救急車へと運ばれていった。
「じゃあちょっと俺も一緒に行ってくるんで、悪いけど、店番頼んでもいいですか。今日は予約入ってないから電話番。全部折り返しで。空来にも連絡入れておいたから夕方には来ると思います。それじゃ」
松島が慌ただしく救急車に乗り込むと、サイレンの音を響かせて救急車は遠ざかって行った。
ニーノは自宅からスマートフォンなどを持って『マリンブルー』に移動すると、誰も居ない店内で、窓際の椅子に座って海を眺めた。
ふいに、心細い気持ちが湧いてくる。
──何があったのかしら。胸を押さえていたから、心臓の病気か何か? あまり話したことがないから、あの人のことは詳しく知らないのよね。
取り留めもなく考える内に、自分の心臓まで痛み始めたような気がしてきて、ニーノは胸を押さえた。
──これが、老いるということ。
そう考え始めると、不安と恐怖が忍び寄ってくる。
『そんなの無理。もっと現実を見てよ』
延子の言葉が蘇る。
その時、電話が鳴った。
気持ちを奮い立たせて「はい、マリンブルーです」と出ると、問い合わせの電話だった。事情を説明し、折り返しの番号を訊く。受話器を置くと、不安が少し和らいだ気がした。
──老いは、仕方ない。私は、出来ることをやろう。
その後立て続けに問い合わせの電話があり、目に留まった店内の汚れの掃除をしている内に、外からブロロロロと原付スクーターの音が近付いてきた。
手を止め待っていると、空来が慌てた様子で駆けこんで来る。
「ニーノさん!」
「あら、空来ちゃん。来てくれたんだね。問い合わせの電話が──」
「大丈夫ですか、ニーノさん?」
空来は、心配そうな顔でニーノの肩を掴んだ。目を瞬いたニーノは、笑みを浮かべた。
「私は何でもないよ。倒れてたのは木谷さん。救急車で運ばれたから、きっと大丈夫でしょう」
その言葉に、空来は真剣な顔で首を振る。
「ううん、ニーノさん。不安そうな顔をしてたから。店長が電話番頼んじゃったみたいで、すみません。掃除もして貰って……」
空来の言葉に、ニーノは思わず俯いてから、小さく笑みを浮かべた。
「……そうじゃないのよ。ちょっとね、驚いちゃったの」
空来は黙ってニーノの話の続きを待っている。
「倒れてる木谷さんの姿を見たらね、それ自体にも驚いたし、私達のような年の人には、こうしたことがいつ起きても可笑しくないってね。頭では判ってた……友達が亡くなった時だって、考えたわ。だけど、ね……」
「ニーノさん……」
ニーノは、空来の手に手を重ねてから、改めて笑みを作ると、カウンターの上のメモを手で示した。
「そこに問い合わせのことは纏めておいたから、後はお願いね。私は、少し疲れちゃったから、家に戻らせて貰うわね」
「有難うございます。ニーノさん、何かお手伝い出来ることありますか?」
追いかけてくる空来の声に首を振る。
「大丈夫。少し横になるだけよ。今日はもうこのまま朝まで寝ちゃうかもしれないから、明日瑛介君に詳しい話を訊きに行くって伝えておいてくれる?」
頷いた空来に手を振り、自宅に帰ったニーノは、布団を敷いて横になったものの、あれこれと考え事が頭の中をぐるぐるとして、遅くまで眠ることが出来なかった。
翌日『マリンブルー』を訪れたニーノは、松島から詳しい事情を聴いた。
木谷は、数年前から心臓を悪くしており、その発作ということだった。
病院で顔を合わせた木谷の家族は、非常に恐縮しており、発見したニーノにも深く感謝しているという。
「で、木谷さんのご家族が『お礼に行きたい』ってことだったんだけど、木谷さんが『余計なことをするな』って怒っちゃって。ご家族──娘さん夫婦は困っちゃったみたいで。とりあえず、店の場所は教えておいたけど……。まぁ何にしても木谷さんの入院生活が落ち着いたらって感じでしょうね。木谷さん、娘さんご夫婦と同居はしてたけど、此処に釣りに来る時以外は、殆ど部屋に籠もりきりだったみたいなんですよねぇ。奥さんも随分早くに亡くしてたみたいだし。知らなかったなぁ」
「そうなの……」
ニーノは、木谷に漂う何処か寂し気な雰囲気の理由を垣間見た気がした。
「ニーノさん、昼食べていきます? 今日はなんか元気ないし。……昨日は、電話番任せちゃってすみません。店に帰ってから、空来に叱られました」
ふふ、と笑ったニーノは、カウンターの椅子に腰かけた。
「じゃあ、お昼頂こうかしら。電話番は、いつでも頼んでくれて良いからね。勿論、体調と相談してって感じで良ければ」
ニーノの答えに早速食材を取り出してた松島は、「じゃあ」と言い掛けて、ハタと手を止めた。
「どうしたの、瑛介君」
再び手を動かしながら、松島は思案するようにしてからニーノを見つめた。
「いや、実は……前に食べたニーノさんの〝お袋飯〟美味かったから、この店で出せたりしたらなーって思ったんだけど。昨日あんな事があった今言うことじゃないか」
松島は手際よく野菜を刻みながら、「でも本当にそう出来たらな、と思ってますよ」と付け加えた。
「そうねぇ……私が作るものなんてありふれた……何処にでもあるような料理だからねぇ」
「そこが良いんですよ。あ、これは店に出すクオリティじゃないって訳じゃなくて、そういうものを求めてる人が居るって意味で。海で遊んだ後ってああいう味のもの食べたくなるんですよね。まぁ、すぐに決めなくても大丈夫です。考えておいてくれたら」
ニーノは考えた。
この島で暮らし始めてから、初めての出来事が沢山起こる。そして、現実を目の当たりにすることもある。
これから先、どれだけ生きることが出来るのか。
どれだけ、万全とはいかないまでも、今のままの体調を維持出来るのか。
何とか出来ると思っていた。出来るつもりでいた。
それでも、突然襲い掛かる老いという波に、生き物はいともたやすく飲み込まれてしまう。
それならば──。
「それじゃあ……お客さんの中でそういうご飯が食べたいっていう人がいたら、声を掛けてくれる? 体調と相談して出来そうなら作ってみるわ」
「え、良いんですか? じゃあ、その時はお願いします」
「はい」
ニーノは笑みを浮かべ、松島が手早く作った焼き飯の器を受け取った。これがなかなかに美味しいのだ。
最初こそ、〝チャラチャラ〟や、完全なおばあちゃん扱いに戸惑うこともあったが、今ではこうしてふらっと食事を共にすることもある。
──チャラチャラしてるのは、今も変わらないけど。〝お袋飯〟か……。
実際にその日が訪れなくてもいい。
この約束が、この島での生活にちょっとした楽しみを増やしてくれる気がして、その日の焼き飯はいつも以上に美味しかった。




