2話 ニーノ
体調を気にかけながら、少しずつ家の手入れをして過ごしていた巻子は、ある時散歩に出ることにした。若い時のように一晩寝れば元通りというようにはいかないが、いつまでも家に引きこもって居る訳にはいかない。そのつもりもない。
畑にも手を入れ始めていた。
多くの物は、宅配サービスや沼川に頼んで届けてもらうが、自分の目で見て何を買うかを決めるのも買い物の醍醐味だ。
ひとまずスーパーマーケットを目的地として歩き始める。
入り江沿いの曲がった道を少し上り、その先で道は二つに分かれる。右に行けばスーパーマーケットだ。
「こんにちは」
入り江を眺めながら歩いていた巻子は、ふいに掛けられた声に足を止め、振り返った。
茶髪を後ろでひとつに結び、不思議な柄のTシャツとハーフパンツの、一見すると〝チャラい〟男が笑顔で立っていた。
「あら、こんにちは。えぇと……松島さん」
「瑛介でいいですよ。名字で呼ぶ人あんまり居ないんで」
「……瑛介、さん。ごめんなさいね。ここの所体調がよくなくて出れなくて、お礼もちゃんと出来ていなくて」
入り江沿いの道には巻子の家の他に三棟の家がある。その内二棟は空き家か別荘代わりに使われていて所有者と顔を合わせたことはない。
松島瑛介が所有するひと棟は、目の前の入り江でマリンスポーツを体験するための施設として営業している。昼の間は入り江でマリンスポーツを楽しむ若者の姿を見ることが出来た。
巻子が古民家へと越してきた際にひと通りの挨拶は済ませ、家具の搬入などを手伝ってくれていたが、それ以来となっていた。
「気にしないで下さい。俺、ばあちゃん子だから。何か困ったことあったら言って下さい。すぐ駆けつけるんで」
そう言って松島は、自分と巻子の家をピッピッと指で差す。
確かに、空き家のひと棟を挟んだだけだから、文字通りすぐ駆けつけることは出来る。
しかし、巻子は自分の胸にモヤリとしたものが浮かぶのを感じていた。
松島瑛介は、見た目はともかく初対面からよく働くなという印象を与える青年だった。そういうこともあって小さな島でのマリンスポーツ屋としてもある程度の繁盛をしているのだろう。それは、巻子も感じる所があった。
それでも、どうにも完全な〝おばあちゃん扱い〟には、つまらない気持ちになってしまう。
八十二歳の自分がおばあちゃんではない訳はない。
まごうことなき、おばあちゃん。老婆だ。
だが、あれもこれも出来ない、弱い存在と見做されるのは何処か癪だった。
そうは言っても、松島は完全な善意と好意から発言しているのは理解しているから、巻子はモヤモヤしたまま、どうにかそれを飲み込もうとしている。
「買い物ですか? よかったら俺が行ってきますけど」
「あぁ……ちょっと散歩も兼ねてるから、大丈夫」
「確かに。うちのばあちゃんも、多少は体を動かさないと寝たきりになっちゃうって言ってよく歩いてますね。でも、無理しないで下さいね。──あ」
松島は「ちょっと待ってて下さいね」と言って店の中に小走りで駆けて行った。すぐに小さなメモを手に戻ってくる。
「これ、俺の番号。引っ越しの時に渡しておけばよかったと思って」
「……番号」
巻子の反応をどうとったのか、松島は笑顔で手を差し出した。
「あぁ、登録しておいた方がいいですよね。貸して下さい。店の番号も登録しておくんで。どっちかに掛けて貰えば大体出られるから」
そう言って、言われるままにスマートフォンを取り出した巻子の手から端末を取り上げると、松島はさっさと軽い手つきで操作し、すぐに巻子の手にスマートフォンを戻した。
親切なのは理解しているが、どうにも巻子は松島の間の取り方が苦手だった。巻子の人生において、これほど〝チャラい〟人物が居たことはなかったし、関わることもないと思っていた。
その時、ブロロロという音が近づいてくると「おはようございまーす」という明るい声が聞こえてきた。
「そらら、遅いぞ」
松島が音の方に顔を向け、厳めしい顔をする。「すいません~」という声が店の奥に消え、すぐに軽い足音が駆けてきた。
「ちょっと支度に手間取って……あ、でも、ケーキ買って来たんで許してください」
「寝坊だろ」
松島の言葉を無視して手にした小さな箱を開けた〈そらら〉は、「うわ」と声を上げた。
「ケーキ倒れてぐちゃぐちゃになっちゃった……」
泣きそうに顔を歪める〈そらら〉に、松島は溜め息を吐くと、ポンポンと宥めるようにその頭を軽く叩いた。
「崩れても食えるだろ」
「……見た目も結構可愛かったの」
「それは知らんけど」
唇を尖らせていた〈そらら〉は、はたと様子を窺っていた巻子に目を止めた。
「お客さんですか?」
「どう見ても違うだろ」
どう見ても、とはどう見たのだ、と巻子が内心むっとしていると、〈そらら〉は人懐っこい笑顔を浮かべて巻子に歩み寄った。
「もしかして、奥に越して来たって方ですか?」
「そう、新野さん。新野さん、こっちはうちのバイトの高橋空来です」
巻子が答えるより先に、松島が紹介を済ませると、笑顔を浮かべた。それは空来に向けられるものよりも、もっと愛玩動物でも見ているような笑顔だった。
「ニーノさん?」
目を瞬いた空来は、パッと顔を輝かせた。
「え、外国の方ですか?」
「……は?」
「いや、どう見ても日本人だろ」
松島の言葉に、空来はぷぅと頬を膨らませる。
「どう見ても、って……店長、そうやって見た目で判断するの良くないと思いまーす。考えが古い!」
「ハイハイ。まぁ、新野さんは間違いなく日本人。というか、何で外国人だと思ったんだよ」
「だって、ニーノさんって。アタシの世代だったら珍しくないけど、ニーノさんの世代だと珍しいかなって……」
そう言って小首を傾げる空来に、松島がぷっと噴き出した。
「ニーノって……そういうことか。俺が悪かったよ。新野巻子さん。新野は名字」
「巻子さん!」
空来は、クツクツと笑う松島を無視し、呆然と二人のやり取りを見ていた巻子の手を取った。
「巻子さん。高橋空来です。仲良くしてくださいね」
巻子は数度瞬きをしてから、首を傾げた。
「そららって……どんな漢字を書くの?」
訊かれ慣れているのか、空来は宙に指で書きながら笑顔を浮かべた。
「空──スカイが来るで空来です。可愛いですよね。気に入ってるんです」
「うん、可愛い。それこそ外国人みたいだけど」
巻子が言うと、空来はニコニコと笑った。
「あ、そういえばお買い物ですか、巻子さん」
空来が言うのに、巻子はふと考え込んだ。空来は答えを待って、じっと巻子を見つめている。
「……ニーノ」
「ニーノ?」
「私のことはニーノって呼んで頂戴、そららちゃん」
巻子は、明るくくるくると表情を変える空来に「ニーノ」「巻子」二つの名前で呼ばれ、自分の中でポッと何かが灯った心地がしていた。
その正体は判らないが、何か新しい感情であるのは確かだった。
「ニーノ。此処での新しい生活に相応しい、新しい名前」
じっと話に耳を傾けていた空来が、満面の笑みを浮かべた。
「えっ、私が名付け親、みたいな感じですか? 嬉しい」
「いや、新野さんは元々ニイノで──」
「ニーノさん!」
空来は松島の話を聞き流す癖があるようだった。訂正するのを止めた松島は、口を尖らせてから気の抜けたように笑った。
「ほら、空来。新野さんは買い物に行く途中なんだ。あまり引き留めると迷惑だろ」
「あ、そっか、行ってらっしゃい」
空来はパッと後退ると、小さく手を振った。
松島は、心配そうな顔を巻子に向ける。
「やっぱり、送って行きましょうか?」
「ううん、大丈夫」
巻子が答えるのに、空来が咎めるような顔を松島に向ける。
「もぉ、そうやって何でもかんでも〝やってあげる〟みたいなのウザいですよ。だから彼女に振られちゃうんです」
「お前──」
「え、二人は恋人同士じゃないの?」
二人のやり取りからすっかりそうだと感じ取っていた巻子は、驚いて声を上げた。当の本人達は、巻子よりも酷く驚いた声を上げた。
「え、ないないないない。ないですよ。何でそんなこと思ったんですか⁉」
「だって……さっき、頭撫でてたじゃない?」
空来はパチパチと瞬きをし、眉を寄せた。
「あー……そう見えるのか。ないです。店長の距離感がバグってるだけです。なんか、店長ってすぐベタベタ触るんですよ。男でも女でも。グータッチとかするし。アタシはもう慣れてるし、言っちゃえば兄貴みたいなものだったから気にしてなかったけど……」
そこでグルリと首だけで振り返った空来は、不機嫌そうな声を上げた。
「店長、これからお触り禁止です。アタシに彼氏が出来ないのって、これが原因じゃないですか。店長が彼氏だと思われてたんだ。サイテー」
「サイテーってな……」
空来は突然「あ」と声を上げ、心配そうに巻子に向き直った。
「もしかして、ニーノさんもベタベタ触られました? 本当、見境なぁ……。店長がウザいことしたらアタシに言って下さいね。ボコボコにするんで」
「あのなぁ、おばあさんに手出す訳ないだろ」
「うわ、酷っ。デリカシーなし!」
「はぁ?」
顔を顰めた空来は、申し訳なさそうに頭を下げ、巻子の手を取った。
「ごめんなさい。店長にはあとでキツく言っておきますから」
「いや、何が問題なんだよ」
不機嫌さを滲ませる松島に、空来は鼻に皺を寄せた。
「あのねぇ、女はいくつになっても女なの。それなのに〝おばあさん〟呼ばわりなんて、酷すぎ。デリカシーゼロ。無自覚で言ってるっぽいのがもっとムカつく」
「は、はぁ……?」
バグる、ウザい、ボコボコ、ムカつく。普段聞きなれない言葉を反芻しながら、巻子は思わずふっと笑った。一度笑いだすと止まらなくなり、戸惑う空来の手を優しく親しみを込めて叩いた。
「そららちゃん、アンタ、本当可愛い。好きになっちゃった」
「えっ、本当⁉」
瞳を輝かせる空来に、巻子は笑いながら何度も頷いた。
「もしよかったら、今度お茶でもしない? 大したものは出せないけど、いいお茶っ葉は持って来てるの」
「じゃあじゃあ、私がお茶請け持って行きますよ」
盛り上がる二人の様子に、まだ戸惑ったままの松島が「なんでそうなるんだよ」と不可解そうに呟いた。
二人に別れを告げ、スーパーマーケットへの道を歩き始めた巻子は、何処か浮ついた気持ちでクスクスと忍び笑った。
思いもよらない相手との出会いと交流。きっとこの地を訪れなかったら、関わることもなかっただろう人達。
顔を合わせたばかりの、随分と年下の女の子とお茶の約束をしてしまった。
──有り得ない。でも、楽しい。
「ニーノ」
その名を小さく呟いてみる。
聞き馴染みのある響きは、今は違う意味と感触を持っていた。
私は、ニーノ。それが、これからの名前。
ニーノ!




