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約束のレモンの木  作者: 夢野かなめ


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1話 巻子、八十二歳

「うん、いい天気」


 新野(にいの)巻子(まきこ)は、晴れ渡る空を見上げ、笑みを作ってから、うっと呻いて腰を押さえた。


 引っ越しを終え、いざ家中に手を入れようと張り切った昨日。予想よりも遥かに自身の体が動いたことに、心躍っていたが、朝になり布団から出た途端に、現実を思い知ることとなった。


 新野巻子。八十二歳。


 新天地での生活の幕開けである。


「あいたたた……」


 そう一人で呟きながら、ヒューヒューと音を鳴らしていたヤカンを止め、急須に湯を注いだ巻子は、窓辺に置いた卓に腰かけた。まだ散らかっている部屋から意識を外し、窓の外に目を向ければ、そこには海が広がっている。海とはいっても内海だから、すぐ向こうには小島も見えた。


 空の青に、山の緑。そして海には陽が反射してキラキラと輝いている。


「はぁ、綺麗ねぇ」


 巻子はふいにその景色に拝みたくなって、手を合わせた。何の神様かは知らないが、この地にこうして居を移すことが出来たことに感謝したい気分だった。


 そうしてから、昨夜から卓の上に置きっぱなしだったスマートフォンの画面にちょこんと触れる。待ち受け画面には時計が表示されているだけだった。


 この地に越してくる前からスマートフォンを持たされてはいるが、未だ慣れてはいない。だが、固定回線を引かなかったこともあり、嫌でも慣れなくてはいけない。


 卓の上の籠からリモコンを取り出すと、テレビを点けた。


 見慣れない番組ばかりだが、何処か異国の地にでも訪れたようで面白い。


 テレビから流れてくる音を聞くともなしに聞きながら、巻子はゆっくりと立ち上がると台所へと向かった。


 引っ越しの当日には、娘の延子(のぶこ)がやって来てあれこれと手伝ってくれたお陰で、生活する分には困らない。もとより、ある程度の物は処分したから、物自体はそう多くない。そこここに置かれているのは、所謂DIY用の部材だった。部屋の隅に置いたペンキの缶からはほんのりと鼻をつく臭いが漏れ出している。


「今日は、出来ないかしらね」


 体の具合を考慮すると、今日一日は大きく体を動かすような作業は控えるべきだろう。流石に、この状況で無鉄砲に突き進むほど若くない。一体、何十年の経験を積んできたと思っているのだ。


 この家への途中で寄った直売所で買ったパンに、ハムやレタスを挟んでサンドイッチを作る。オレンジを櫛切りにして添え、沸かしたお湯でコーンスープを作る。お盆に乗せてゆっくりと卓へ戻ると、海を見ながら朝食を取った。


 巻子が移住した島は、人口七千人程の小さな島だ。


 小さいとは言っても、商店やコンビニなどはあるし、子供達の通う保育園や学校もある。暮らすには十分な島だった。


 巻子の暮らす家は、その島の端の方にあり、買い物に出るにはやや不便だが、宅配サービスを申し込んでいるから心配はなかった。


 ちらと窓の外に目をやった巻子は、ニヤリと笑みを作った。


 そこにはまだ手つかずではあるが、畑として使える庭がある。種蒔きの時期に向けてゆっくりと耕し、そうして自分で育てた野菜を食べて生活するのだ。


 次いで、室内に目を移した巻子は「フフッ」と声を立てて笑った。


 寝室へと続く扉はパステルカラ―に塗られている。これは巻子自身の手で塗ったものだ。


 古くくたびれた家の中で、そこだけが妙に明るく浮いて見えるが、他の箇所もDIYしていけば、いずれ素敵な内装になるに違いない。


 それを想像するだけで、巻子の心は踊り始める。


『そんなの無理。もっと現実を見てよ』


 ふと、その声が頭の中に蘇り、巻子は息を吐いた。それを誤魔化すように茶を飲み、海に目を向ける。


 巻子がこの島に移住しようと思ったのは、五年程前の友人との旅行がきっかけだった。その時に目に映った景色に心焦がれた巻子は、長い間移住を夢見ながらも、それはただの夢でしかないのだと諦めていた。


 この五年で色々なことがあった。


 女学校時代からの友人達は、一人が亡くなり、一人が寝たきりとなり、一人は巻子と同じように本人の老いは感じても健勝であるが、認知症の夫の世話があって旅行などしている暇はない。時折、電話や手紙のやり取りはあるが、以前のように何処かに出掛けてお茶でも、ということも難しくなった。


 巻子自身、十年前に夫を亡くしている。年上であったから当たり前ではあるが、やはり人生から伴侶が居なくなるというのは酷く心に来るものがある。棚の上に置いた遺影に目を向け、責めるように口を尖らせてみせた。


 ──一緒に、この景色を見られたらよかったのに。馬鹿ね。


 急速に、そして刻々と変わっていく環境に、巻子は何処か居ても立っても居られない気持ちになった。そんな時「そろそろ老人ホームにでも入ったら」と延子に言われたのだった。


 巻子は幸いにも、一人で出歩くことが出来ているし、同年代よりは頭も体もしっかりとしている。介護など必要ないし、老いは感じても、まだ一人で暮らしていくには十分だった。それでも、「心配だから」と住宅型の老人ホームのパンフレットを差し出してきた延子に、それを突き返し、巻子はどうせ居を変えねばならないのならと、長いこと焦がれ続けていたこの島の物件を探し出し、契約してしまったのだった。


 契約自体はすんなりと通った。長閑な島のお陰か、何かの神様のお導きか。


 巻子は再び手を合わせ、何かを拝んだ。


 勿論、延子の気持ちも理解していた。


 八十を過ぎた母が、急に遠い地へ移住すると言い出したら、それは泡を食って止めもするだろう。


 しかし、巻子の中で何処か延子の言葉に抗うような気持ちが芽生えたのだ。


 夫の退職後は、娘夫婦との同居を断り、それならば、という延子の言葉に従って、延子の家の近くにアパートを借りて住んできた。


『お母さんは、いつも勝手』


 その言葉も幾度と言われてきた。それでも、巻子自身は必死に皆の為を想って生きてきた。同居を断ったのだって、様々なことを考えてのことだった。


 夫の死、友の死。日々変化し老いていく体。出来たことが出来なくなる。変わっていく社会や環境。そうしたものの先に、自身の死を見た時。


 これでいいのだろうか。──そう、思ってしまった。


 勿論、歩んできた人生に不満がある訳ではない。その時々で出来ることを精一杯熟してきた。それは、あの時こうしていれば、今だったらこうした選択をするのに、と考えることはあるが、不満を持ち、やり直したいと思っている訳ではない。


 ただ、このままでいいのだろうか。


 その気持ちが芽生えてしまったのだった。


 幸い懐事情もそこまで心配することはなかった。気にかけなければならないのは、自身の健康だけ。いや、寿命も、か。


 巻子の中で、小さな罪悪感がふっと浮き上がった。


 こんな気持ちになるのはいつぶりだろう。ずっと昔。まだ小さな子供だった頃に、母に叱られやしないかと不安だった時を思い出し、巻子は小さく笑った。


 ──延子は娘だっていうのに。延子だってそろそろ還暦なんだから。


「うん、今日出来ることを精一杯」


 巻子は、朝食の食器を片付けると、部屋を見回した。


 健康や怪我に気を付けて、出来ることからコツコツと。


 新天地での生活は、今までよりもずっと、出来ることは自分でやらなければならない。


 自分ひとりだって生活出来ると、大見得切って移り住んだのだから。


 まずは日課の掃除機から、とコンセントにプラグを差した巻子は、カチカチとスイッチを押しても動かない掃除機を見下ろした。


「おかしいねぇ。昨日は動いたのに」


 暫くスイッチを押したり、本体を叩いてみたりした巻子はふと思いついて、違う場所のコンセントにプラグを差し直した。スイッチを押すと掃除機はけたたましい音を立てて塵を吸い込み始める。


 電源を切った巻子は、掃除機のホースを壁に立てかけると、卓の上のスマートフォンを手に取った。

えぇと、と操作にてこずりながらも電話帳を開き、通話をタップする。


 暫くの発信音の後に、明るい声が答えた。


「はい、沼川(ぬまかわ)商店です」


「あぁ、沼川さん? 新野ですけど。あのぅ、コンセントの調子がおかしくてねぇ。見に来てくれないかしら」


「あれ、使えない所ありましたか」


「そう、居間の端のねぇ」


「すぐに行きます。あ、他に何か必要なものってありますか。よかったら持って行きますけど」


「あぁ……えーと、じゃあ湿布をお願い出来ます?」


「判りました!」


 沼川の電話は明るく切れた。


 沼川はこの島で商店を構え、頼めば何でも用意してくれ、家の困りごとから家電の設置や修理まで何から何まで対応可能という、言わばこの島の便利屋だった。


 自分で何でもこなさなければ、と思った所で、いきなり人に頼ることになってしまったことに巻子は小さく笑ってから、掃除機をかけ始めた。


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