11話 貴方と一緒に
秋は緩やかに始まった。
残暑が激しいと思っていたら、頬を撫でる風は既に涼しい。
そろそろこの島に越して一年になろうとしている。
ゆっくりと、体調を気に掛けながら、今の自分に出来る精一杯の速さで過ごしてきた日々は、かなりの濃度と充実感を伴っていた。
年を重ねる毎に、初めてのことは減っていく。新たな挑戦というものは、やりたくても出来なくなっていく。環境や、体調や、どうしても抗えないものに。
鏡の中の自分の顔を見たニーノは、一瞬だけ恥ずかしさに視線を逸らした。
──嬉しそう。
浴衣姿の自分は、何処かうっとりとした瞳で自分を見つめ返していた。
──でも、やっぱり派手かしら。
ずっと昔に購入して、数度着てから箪笥の肥やしになっていた浴衣。良いものだからと、持ってこの島へ越してきたが、八十を超えた今、果たして着こなせているのかどうか自信がない。
深い紺に、芍薬。
鏡の前でポーズを取ってみる。
──まぁ、悪くは……ないかしらね。
その時、玄関の扉が叩かれた。ガラスがバンバンと鳴る。
「俺だ」
その声に、ドキリと心臓が高鳴った。一度深呼吸してから、ニーノは「はーい」と応えた。
玄関を開けると、庭を眺めていた木谷が振り向き、目を見開いて止まった。
気まずいような、恥ずかしいような沈黙に、ニーノは口を開いた。
「……ちょっと、派手かしらね」
そう言うと、木谷は珍しく慌てた様子で視線を彷徨わせてから、頷いた。
「いや、いや……その、なんだ。似合ってる。その……綺麗だ」
言いながら浜に目を向け、そうしてから視線を戻して、もう一度頷いて見せる。
その様子に、ニーノが思わず笑うと、木谷は恥ずかしそうに背を向けた。
「準備は、出来てるな?」
「あ、ちょっと待って。浴衣だけど、歩くなら運動靴で良い……?」
下駄も靴箱にあるが、長時間歩くには向いていない。履き慣れた運動靴を手で示すと、木谷は頷いた。
「転んだら困るからな」
ニーノは運動靴を履くと、木谷と並んで歩き始めた。
通りの先のマリンブルーは、明かりを落としていた。自宅の玄関灯を除けば、人工的な明かりはない。
満点の星空と、それを受ける海が広がっている。
その中を並んで歩く。
この日は、島の祭が行われる日だった。
小規模ながら花火の打ち上げもあり、島外からも多くの人が訪れる。
ニーノは、それをマリンブルーの壁に貼られたポスターで知った。
最初は、空来や松島と共に行こうかという話になったのだが、空来は県外に出た友人が帰省するというので会いに。松島は、最近出来た彼女と行くことになり、ニーノは家から少しでも見えないものかと調べながら、何処か寂しさを感じていた。
人出の多い場所に一人で行くのも大変だし、という話を木谷にしたところ「良い場所を知ってる」と言い出したのだった。
それ程遠くはない、という言葉を信じて、木谷が歩くに任せる。
リーリーと虫の声がする。
すぐ横を歩く木谷の、ポロシャツから出た腕は、意外とたくましい。
ニーノは、まとめた髪を撫でつけるようにした。
──なんか、変な感じ。ううん、変じゃなくて……。
ふふ、と笑うと、木谷が不思議そうに顔を向けた。
「どうした」
「いいえ。なんだか、不思議な気持ちになってたの。だって、私達、出会いは最悪だったでしょ」
そう言うと、木谷は顔を顰めた。
「でも、沢山お喋りして、一緒にご飯を食べたりして時を過ごして……今は、一緒に花火を見ようとしてる。人生って、何が起きるか判らないわね」
「そうだな」
木谷は、一度海に目を向け、おもむろにニーノの手を取った。
息を呑んだニーノに、小さく笑ってから「転んだらマズいからな、俺達は」と付け加える。
ニーノはその言い方に笑った。
「そうね、繋いでましょう」
互いにカサカサと音を立てそうな手。年を重ねた手。それが、互いを慈しむような熱を持っている。
木谷が事前に言った通り、歩くと言っても、脚を痛めつけるような距離ではなかった。スーパーマーケットの横の道を進むと、ふいに開ける小さな浜。
他に誰も居ない。
小さく寄せる波の音が、サァサァと鳴っている。
入り江のようになった先に見える対岸に、明かりがいくつも灯っているのが見えた。
「あっちが本来の会場」
木谷が指を差した。
「あら、そうなの。じゃあ瑛介君もあそこに居るのね」
二人して少し高さのあるブロックに腰かけ、スーパーマーケットで買った〝祭っぽい〟総菜を開ける。
ノンアルコールのビールで乾杯して、焼きそばや焼き鳥を食べていると、ドンッという音が辺りに響いた。
ヒューッと高い音がして、入り江の先に大輪の花が咲く。
「あら……」
ニーノは、あまりの景色に、それ以上何も言えなかった。
美しかった。
今まで見た花火のどれよりも。
勿論、その時々で共に過ごした人や、楽しい想い出があるから、一概には言えない。
だが、満点の星空と、豊かな山々の中で開く光の花は、あまりに美しかった。
海が光を照らし返し、幾重にも広がっていく。
「綺麗だな」
「ええ」
そうして、ニーノは暫く夜空に咲く花を一心に見上げていた。
花火が終わっても、瞼の裏にはあの鮮やかな景色が残っている。
「本当に、綺麗だった。あんな特等席、よく知ってたわねぇ」
帰り道。ニーノが言うと、木谷は機嫌良さそうに鼻を鳴らした。
「伊達にこの島を歩き回ってない」
「そうよねぇ。流石だわ」
クスクスと笑うと、繋いだ手に力が籠もった。それにきゅっと握り返して応えてから、ニーノは胸に込み上げた想いに溜め息を吐いた。
「今夜は、本当に有難う。勿論楽しみにしてたけど、こんなにも楽しいなんて思ってなかった。実の所、人込みももうしんどいし、あの浜でゆっくり楽しめて嬉しかったわ」
木谷は、ひとつ頷いて応えると、ニーノに顔を向けた。
「そんなに楽しめたなら、来年も観に行こう」
ニーノは、ドキリと胸が跳ね、顔が熱くなるのを感じていた。それに身を委ねながら、小さく頷く。
「ええ、そうね。行きたいわ、貴方と一緒に」
その言葉は、甘い響きを含んで秋虫の合唱に加わった。
秋は畑の世話をしている内に過ぎ、早くも冬の気配が忍び寄って来ていた。
ニーノは体調を崩し、伏せていることが多くなった。
「すみれが、色々と作ってくれたもの、冷蔵庫に入れておくぞ。こっちは冷凍しておくから」
木谷は、大きな袋から次々にタッパーを取り出すと、慣れた手つきで冷蔵庫に収めていった。
「いつも有難う、ってお伝えしてね。今、お茶を──」
「いいから、横になってろ。茶の淹れ方くらい判る」
「じゃあ、そっちの棚のを淹れてくれる? 沼川さんが差し入れてくれたの。体が温まるのよ」
ニーノが手で示すと、木谷は缶を幾つか掲げて見せた。そのひとつを指差し、ニーノはクッションに寄り掛かった。
体調を崩してからというもの、寝室は物置として使い、居間で全ての用が済むようにしていた。
木谷を始め、松島や沼川の手を借りて整え直した家は、今のニーノには丁度良かった。
ひしひしと、その日が近付いているという気がしていた。
だが、今はそれが嫌だった。
部屋に飾られた笑顔の遺影と、慣れた様子で家の中を行ったり来たりしている厳めしい顔と。
「ごめんなさいね」
つい出た声に、木谷が振り向いた。じっとニーノを見つめ、眉を寄せる。
「なに、弱気になってる。アンタはそんな女じゃないだろ」
「だって……私は、きっと貴方を置いて行くわ」
ニーノの声がポツリと響いた。
それを掻き消すように、ヤカンがヒューッと音を立てる。
木谷はゆっくりとした動作で急須に湯を注ぎ、ふたつのカップに注いだ。
ひとつをニーノへ。ひとつを口元へ運ぶ。「妙な味だな」と顔を顰めてから、息を吐いた。
ふと窓の外を見やる。畑には、まだ幾つか野菜が残っていた。
「平均寿命ってあるだろ」
「え……?」
木谷はカップに目を落とし、もう一度それを口に運んだ。ゴクリ、と茶を飲み、続ける。
「アイツは、そんなの関係なく死んだ。あっけなくな。ニーノさん、アンタの旦那は平均寿命超えたんだったか」
ニーノは、遺影をちらと見やり、頷いた。
「一応」
「俺ももうすぐ、平均寿命になる。これを超えるか、超えないか……誰にも判らない。自分にだってな。例え、アンタが先に行ったとしても、俺もすぐに行くさ。アイツと……アンタの旦那と三人で待っててくれ。──なんて言って、俺の方が先にポックリ行くかもしれないけどな」
そう言ってから、木谷はじっと黙り込んだ。
ニーノは茶の温もりを感じながら、考え込んだ。
残された時間は、どれだけあるだろう。
愛すべき人々と共に過ごせる時間は、あとどれだけあるのだろう。
「ねぇ、うちの延子にも会ってみない?」
ニーノが言うと、木谷は少しだけ驚いた顔をして、頷いた。
「今度、此処に会いに来るっていうから、その時に。どんな顔をするかしら」
『お母さんは、いつも勝手』
その言葉が耳の奥に蘇る。
木谷の存在は、これまでに話したことがあるが、より踏み込んだ関係であることは伝えていない。
「やっぱり、止めようかしら……失礼なことを言ったら──」
「ほら、弱気になってる。アンタの子なら、多少は覚悟を決めておくよ」
そう言って笑う木谷に、ニーノは釣られるようにして笑った。
「でも、ちゃんと良い子なのよ」
「判ってる」
しかし、実際に対面した延子は、木谷を紹介すると、酷く動揺して、声を荒げたのだった。




