1-6.迷いと決意
「睡眠不足かしらねぇ」
道中向けられた生徒の注目を受け流しつつ、鶴喰七花の軽い体を背負ってやって来た保健室で、中年女性の養護教諭はそんなことを言った。
「睡眠不足ですか? ただの?」
「うん。七花ちゃんはたまに寝不足で体調崩しちゃうことがあるのよ。まあ、いつもは倒れる前に自分で来るんだけど」
「……そうですか」
僕は視線を横にずらして、傍らの白いベッドの上で眠る鶴喰七花に目を向ける。
急に倒れた時に比べると呼吸は穏やかに見える。
しかし、呼吸に合わせて小さく揺れる枝と妖しい花がどこか不吉だ。
ただの寝不足だとは思えない。だが、それを目の前の養護教諭に説明する術は持ち合わせていなかった。
「部活の調べ物だとかでつい熱中して夜更かししちゃうらしいの。若さに甘えて体に無理させるといつかツケが来るって、何度も注意してるんだけどね。彼氏くんの方からも説得してあげて」
「はい……あ、いえ、違います。そんな関係じゃないです」
「あら、そうなの? ずいぶん深刻そうな顔で駆け込んできたから」
「急に人が倒れたら誰だって心配しますよ」
……どうしてこの学校の人間はすぐに人と人をくっつけたがるのだろう。
そういう怪異でも棲み着いているのだろうか?
「そろそろ昼休みが終わりそうなので戻っていいですか」
「うん、いいわ。あとは私が診てあげる」
鶴喰七花のことは彼女に任せて、教室へ戻るために丸椅子から腰を浮かせる。
しかし、制服の裾が引っ張られて中腰の姿勢で止められた。
どこかに引っ掛けたのかとそちらを見ると、掛け布団から伸びた七花の手がしっかりと僕の制服を掴んでいた。眠ったままの状態で。
「……やっぱり彼氏じゃないの?」
「ち、違いますって」
「ふーん。ま、いいわ」
あまり信じていないような返事をして彼女は立ち上がる。
「あなたが看病した方が良さそうだから、代わりに診てて。私は先生方に事情を伝えに行くから」
そう言い残して彼女は保健室から出て行ってしまった。
倒れて寝込んでいる人間を一人放置するわけにもいかず、僕は丸椅子に座り直す。
静けさに包まれた部屋の中、手持ち無沙汰になった僕の目は、自然と眼前の少女に吸い寄せられる。
白いベッドの上に広がる艶のある黒髪。
そのモノクロのキャンバスを彩る淡い色の花弁。
ある種の美術品を思わせるような美しさと不安の同居したその姿が僕の心をかき乱す。
関わらないと決めたのだから放っておけばいいのに……ここから離れれば消えてしまいそうな気がして足が動かない。
無意識の内に伸ばした手が、シーツの上に散った桜の花びらに触れ、すり抜ける。
昨日と結果は同じだ。僕には怪異を傍観することしかできない。
不意に「先生」の後ろ姿が脳裏をよぎり、胸が強く締め付けられる。
「……随分ひどい顔をしているな」
俯いていた僕を包み込む声がした。
顔を上げると、磨かれた黒曜石のような瞳がこちらを向いていた。
「起きて大丈夫なんですか」
「ああ、ちょっと休んだおかげかだいぶ楽になったよ。運んでくれてありがとう」
上体を起こした鶴喰七花の顔色は確かにいくらか良くなったように見える。
ひとまず無事であったことに胸を撫でおろす。
「それよりも、私には君の方が大丈夫じゃないように見えるね」
「……ついさっき倒れたばかりの人に言われたくないですよ」
「病み上がりの人間も心配になるような顔をしている、ってことだよ」
「何ともない」と言い返したかったが、彼女の瞳に映る自分はピンと張った糸が切れる寸前のような顔をしていた。
「……先輩には関係ないでしょう」
代わりに出たのは冷たく突き放す言葉。
心臓を刺すような痛みの中に、「これでいい」と呟く自分の声が聞こえる。
あの日みたいな思いを二度としないためには、人と関わらない方が――。
「ねえ、君はどうしてそう君自身を傷つけようとするんだ」
鶴喰七花が何を言っているのか、理解できなくて言葉を失う。
僕の吐いた言葉で先輩が傷つくのなら分かる。
だが、僕が僕自身を傷つけている?
「私が今から言う事は、もしかしたらまた君の触れられたくない過去に触れてしまうかもしれない。もし耐えられなければ、昨日のように拒絶してくれてもいい」
「最初から言わなければいいでしょう、そんなこと」
「私もそうするつもりだったさ。つい先ほど目覚めるまでは」
鶴喰七花の言葉に嘆息が混じる。
そして、こちらを見据えた彼女の瞳には鋭い光が宿っていた。
「でも、苦しそうな君の顔を見て……多少荒療治になっても、嫌われてしまったとしても、見ないフリをする方が後悔すると思ったんだ」
桜の枝に貫かれた少女の放ったその言葉が、今の僕の境遇を的確に指摘しているようで、深く胸に突き刺さる。
「君はどうにも、自分を殺し続けているように見える。何かが君の前に立ち塞がって、迷いを生み、本心から目を背けさせている。人の世を生きる上でその方が丸く収まる場面もあるだろうけど……行き過ぎれば自分を傷つける結果にしかならないよ」
「……先輩は何も知らないからそう言えるんです。僕がこれまでどんな思いをしてきたかを」
「それは否定できないな……。私と君は出会ったばかりでほとんど赤の他人だ」
困ったように笑う鶴喰七花だったが、その目には決意の色が見えた。
昨日のように引き下がらず、僕に手を差し伸べる決意が。
「だからこそ、君を縛り付けている過去と私は関係ない。君がどんなトラウマを抱えているのかは知る由もないが、私は彼らとは違うんだ」
どうせ彼女も皆と同じ反応をする。
そう思い込むには、鶴喰七花はいささか特殊な少女だった。
奇譚を追いかけることに情熱を燃やし、たった一人でも背筋をまっすぐ伸ばして立ち、こんな僕なんかを気にかけてくれる。
澄んだ瞳が、過去ではなく今を見ろと訴えかけている。
「……本当に、僕に何かできるんでしょうか」
それでも、心に深く刺さった棘はなかなか抜けてくれない。
かつての苦い記憶が僕の頭を押さえつけ俯かせる。
「またあの日みたいに、己の無力さを噛み締める結果に終わるんじゃないかと……そんな考えが頭から離れないんです」
「……すまないが、私には成功を保証することはできない。私はコンサルタントやアドバイザーではなく、ただの怪奇譚蒐集家だからね」
「…………」
「だけど」
その一言と共に、淡色の花びらがにわかに舞い上がる。
顔を上げた先にいる少女は、確信に満ちた顔つきをしていた。
「この籠目坂高校の先輩として、そして奇譚蒐集編纂部の部長として、君を支えることくらいはできるさ」
彼女の胸に咲いた、桜の花。
ただ不気味に思っていたその花びらが、今この瞬間は祝福の象徴に見えた。
「それに、古今東西あらゆる怪奇譚を追いかけて来た私が味方になるんだ。成功する確率はずっと高いと思わないか」
「……なんですか、それ」
めちゃくちゃな理屈だ。それを堂々と振りかざすものだから、呆れてしまう。
だけど、胸の痛みはいつしか消え失せていた。
「……体験入部の話、まだちゃんと返事できていませんでしたよね」
そう言いながら、僕は先輩の胸に生えた桜の枝に目をやる。
この怪異から逃げずに立ち向かうことができれば、ようやく僕は前を向いて歩けるような気がした。
目の前の少女、鶴喰七花のように胸を張って。
「先輩が倒れた原因、先輩の身に起こっている現象を解決するまで。その間は調査活動に付き合います。それでいいですか?」
差し出した僕の手に、鶴喰七花の白く細い手が触れる。
力を込めれば壊れそうなそれをそっと握ると、予想以上の力強さで握り返される。
それは僕の決断を勇気づけているようにも思えた。
「ああ、十分だ。奇譚蒐集編纂部は君を歓迎しよう」




