1-4.在りし日の教訓
空き教室は冷たい静けさに包まれた空き教室に一人残される。
赤い陽の光に照らされ染められている桜の花が目に入る。
床に落ちているそれをなんとなく拾い上げようとしたが……。
本物と見紛うほど精巧な淡い桃色の花びらは、僕の指をすり抜けるだけだった。
鶴喰七花。怪奇譚を追いかける変わり者で、孤独を背負いながらも堂々と背を伸ばして立っている少女。その小さな背中が脳裏に蘇る。
彼女ならば僕のことを理解してくれたかもしれない。だけど、自らの手で断ち切ってしまった。
……いや。今からでも追いかければ、まだ繋ぎ止められるかもしれない。
『まだ自分が何かできると思っているのか?』
動きかけた足は、頭の中に響いた声によって止められる。
まぎれもない、僕自身の声だ。
『無力なくせに思い上がって、それで苦しんだあの日々を忘れたのか?』
責めるような声とともに、目の前の景色が歪む。
長年堆積した汚泥のような、在りし日の記憶が溢れ出す。
◇
小学生の頃、僕は孤立していた。
今のようにただ孤独であるだけならマシだった。純粋で容赦を知らない同級生たちは異分子である僕を気の向くままに攻撃した。
靴を隠されたり教科書を汚損されたり、創作物に描かれるようなイジメは大体経験してきた。
すべての原因はかつての自分にあった。
小学校に入学したての頃、自分の目がどれほど異常なのかを分かっていなかった僕は、それを隠そうとせず怪異への興味や恐怖を露にしていた。
『嘘ついてまで気を惹こうとか必死すぎだよね』
最初は冗談だと思っていた同級生や先生も、僕が何度もそれを繰り返している内に距離を取っていき――最終的に、『頭のおかしい嘘つき』だとラベリングされることとなったのだ。
この目のことは隠すべきだと学習した時には既に遅かった。一度貼られたラベルを剥がすのは難しく、小学校での生活はほぼ迫害されながら過ごしてきた。
そんな6年間だったが、救いの手が全くないわけでもなかった。
『お前たち! またイジメなんてつまらないことしているのか!』
6年生の時に僕のクラスの担任を受け持った「先生」。
正義感が強く、若い女性ながら物おじしない性格だった彼女は、どんな大人も見て見ぬふりしてきた僕の傷を無視することはなかった。
『亀戸、君も少しは抵抗したらどうなんだ。幽霊がいるだなんて騒いでいたのは、もうずっと昔の話なんだろう?』
僕の言う事を信じて理解してくれた、というわけではなかったけれど。
それでも「先生」は、泥沼の底でもがくような学校生活を送っていた僕に呼吸ができる時間を与えてくれた。
しかし、怪異が見える僕なんかと関わってしまったせいだろうか。
ある日の朝礼に現れた「先生」の体には怪異がまとわりついていた。
日に日に体を覆われていく「先生」の姿を目の当たりにして、他の全てを我慢してきた僕も見過ごすことができなかった。
なけなしの勇気を振り絞り、周囲の冷たい視線も振り切ってやれるだけのことはやろうとした。
けれども僕に出来るのは怪異を感知することだけだ。
それを引きはがそうとして伸ばした指先はすり抜けて空を切るばかりだった。
結局僕にできたのは、不吉なものが迫っていることを「先生」に訴えることだけ。
『わかった、どこかお祓いにでも行ってくるから、もう泣きやんでくれないか』
困ったようにそう笑っていた先生と別れた翌週。
月曜日の朝、教頭先生が教室に入ってきて、「先生」は意識を失って病院に運ばれたという知らせを僕たちに伝えたのだった。
『亀戸、お前が何かやったのか?』
そして、怪異などいないとあれほど嘲笑していた同級生たちは、僕が「先生」を呪ったのだとありもしない濡れ衣を着せた。
……いや、もしかしたら全部が濡れ衣でもないのかもしれない。当時あの怪異が育っていたペースからしてもう少し余裕はあったはずで、僕が余計なアドバイスをしたばかりに刺激してしまったのかもしれない。
真相は藪の中で、それをつついて確かめる気力はカケラも残っていなかった。
それから数年間、誰とも会わず1人家にこもっていた僕の心は黒く塗りつぶされていた。
怪異から「先生」を守れなかった後悔の色。
いとも簡単に意見を翻す不条理な人間に対するやるせなさの色。
そして、何の役にも立たないこの目と僕自身への憤りの色。
それらが混ざり合って濁った感情が僕を満たした時、頭の中で僕自身の声が響いた。
『どうせ何もできないのなら、最初から関わらない方がいい』
冷酷で薄情だ。
けれど、それが正しい。
人も怪異も時が経てば、どこかへ流れ去る。目を背けていれば、いずれ僕の前からいなくなる。
ならば深入りして傷つく必要がどこにあるのだろうか。
それから僕は転校をして知り合いのいない中学校に入り、他人との交流を最低限に抑える生活を送ってきた。
怪異とも人とも必要以上に関わらない1年間は、無味乾燥ではあったが、同時に平和でもあった。
◇
いつの間にか床に座り込んでいた僕は、大きく息を吐いて腰を上げた。
泥濘みに絡み取られたように重い足を一歩、また一歩と動かす。
今回は偶然にも関わってしまったから、お互い傷つくことになってしまった。
だが、これでもう終わりにすればよい。
鶴喰七花にもあの桜にも、これ以上首を突っ込む必要は無い。そうするのが正解だ。
棘が刺さったような胸の痛みを無視して、何度も自分に言い聞かせる。
旧校舎の埃っぽい空気と桜から背を向けるようにして、僕はその場を後にした。




