1-3.散花
夕方のショートホームルームが終わり、空気が急速に弛緩する。
友人と談笑を続ける者や、部活動見学の相談をしながら教室を出る者……自由を得たクラスメイトたちの顔は明るい希望に満ちていた。
僕も手早く荷物をまとめて教室の外に向かう生徒の波に乗ろうとする。
しかし、不意に前方の生徒が立ち止まり流れがせき止められる。
何があったのかと、進行方向の先に目を向けて見ると。
「やあ、後輩くん。昼休みぶりだね」
腰まで伸びた艶のある黒髪。三年生であることを示す赤いリボン。そして、足元に落ちる桜の花びら。
見間違えようがない……鶴喰七花が扉の方からこちらに向かって、ひらひらと手を振っていた。
「先輩、なんでここに……」
「君が忘れ物をしていることに気づいてね。一年生なのは内履きの色で分かったけども、すぐ見つかって良かったよ」
片手には白いビニール袋。当然ながら、鶴喰七花の方も僕の置き土産には気づいていたようだ。
「だからって、わざわざ一年生の教室まで届けに来なくても」
「いやなに……ついでに聞いておきたいことがあってね」
……聞いておきたいこと?
順当に考えると体験入部の返事のことだと思うが、それだけで僕を探しに来るのは少し違和感があった。
その内容を聞き返そうとした時、ふとざわつく声が耳に入る。
そして、ようやく気づいた。
僕たちが教室中の好奇の視線を集めていることに。
上級生の、それもかなり美人な女子の来訪。そんな女子生徒から親しげに話しかけられる1年生男子。
会話内容からして姉弟という線も低い。
刺さっている桜の枝を視認できない人間から見ても、先輩が……もとい、僕たちが相当目を引く存在だというのは明らかだった。
「先輩、場所を変えましょう!」
強引に彼女の手を取りその場から走り去る。背後から飛んでくる冷やかすような口笛を全力で無視して。
……明日からどんな顔をして教室に入ればいいのだろうか。
平穏で静かな学生生活の崩壊する音が後ろの方で聞こえてくるような気がした。
◇
「なんというか、困らせてしまったようで悪かったね」
「いえ……忘れ物をした、僕が悪いので……」
本日二度目の全力疾走を経て戻ってきた旧校舎。人の目につかない場所はここしか思いつかなかった。
息を整えるのもやっとな僕に対して、鶴喰七花は涼しい顔をしていた。
華奢な見た目とは裏腹に意外と体力がある。調査活動で鍛えられているのだろうか。
「こちらこそ、急に引っ張ってしまってすみません」
「構わないよ。私も二人きりで話したいと思っていたから」
……先ほどから彼女の言葉が僕の胸の内を小さく引っ掻く。
何か嫌な予感がする。
鶴喰七花や彼女に生えた桜に対してというより、この場に満ちる空気に対して。
一刻も早く去ってしまいたい思いだったが、鶴喰七花の双眸が僕の体を縫い付ける。
「初めから違和感はあったんだ」
「違和感、ですか?」
「ああ。私が君を招き入れた時や我が部の理念について語っていた時、君は時折他の場所を見ていた。その目の動きが、なにかを追っていたように見えてね」
心臓がひときわ大きく波打つ。
確かに身に覚えはある。舞い散る桜の花びらを目で追ってしまっていた。
だが、それだけのことで?
「……羽虫が飛んでいたので気になっただけですよ」
なんとかつっかえずに口に出した言葉に鶴喰七花は頷く。
「もちろんそれもあり得たし、気恥ずかしくて目を逸らしただけとか、他の可能性も頭にはあった。ただ、こういう活動をしている以上、些細な違和感を気に留めておくのは癖になっていてね」
彼女の目に宿っているのは、純粋な好奇心による輝きだ。
かつての僕にぶつけられてきた、侮蔑や排斥に満ちた眼差しではない。
鶴喰七花には彼らのような敵意はない。調査で培った鋭い観察眼と直感に従っているだけのことなのだろう。
問題なのは、どうやら僕が彼女の調査対象になってしまったらしいことだ。
「もしかしたら、と思ったのは私が君を勧誘した直後だ」
肌を焼くような焦燥感が思考を蝕み始める。
あの時僕は鶴喰七花が提示した体験入部の誘いを断ろうとし、そして言葉を飲み込んだ。
彼女も知らない内に彼女の体を侵食しようとしている桜の枝。それに視線を奪われ、同情と無力感の間で迷いを見せた。見せてしまった。
怪奇譚を追いかけることを生きがいとしている少女の前で。
「君は何かを言おうとして口を噤み、そしてジッと何かを見ていた。何もないはずの空間を」
『あいつ、また何もない所見てるよ』
『嘘ついてまで気を惹こうとか必死すぎだよね』
過去の幻影が僕の耳元で囁く。
彼女はあいつらとは違う。
それでもこの状況が、忘れたくても忘れられない過去を呼び覚ます。
「後輩くん、あの時君はいったい何を見て――」
過去の記憶に塗りつぶされて、鶴喰七花の声が次第に遠くなっていく。
目も耳もすべて塞いでしまいたかった、果てしない絶望に放り込まれたあの時の記憶に。
『亀戸、お前が何かやったのか?』
『いつも怪異がどうとか変なこと言ってただろ!』
「――うるさい!」
張り裂けそうな叫びが追及の声をかき消す。
反響したその声が自分の物だと気づき、空っぽの教室に意識が戻ってくる。
俯いた顔を持ち上げ視界に映り込んだ彼女は、眉根を下げてこちらを見つめていた。
「……そうだな、君の事情も考えるべきだった。すまない」
静かに謝罪を口にする鶴喰七花。僕は彼女に対して返すべき言葉を必死に探す。
しかし、混濁した思考の中からそれを引き上げることは出来なかった。
「引き止めてしまって悪かったね。もう帰ってくれてもいいよ」
萎れた作り笑顔を見せてそう言うと、鶴喰七花は空き教室を後にする。
引き止めるという考えすらわかず、僕はそれをただ目で追っていた。
一歩離れるたびに桜の花が落ちる。それと同時に、冷たい物が僕の心に積もるようだった。




