2-9.流れ落ちる
絡みついた舌を振りほどけないかと、傘を持っていない方の手で払ってみる。
しかし、僕の手はむなしく空を切るだけだった。
こちらから触れてもすり抜けるだけなのに、向こうからは干渉できる。
理不尽な仕打ちに眉間にシワが寄る。
カエルたちが女性にしか取り憑かない、というのは単なる思い込みだったのだろうか。
……いや、そうとも限らないのかもしれない。
先輩と一緒にカエルたちに追いかけられていた時、カエルたちの目には薄暗い執着が宿っていた。
今、僕を見つめているカエルたちの瞳に映っているのは怒りだ。
あの時と今とでは、カエルを衝き動かしているものが違う。
宿主を利用するための憑依とは異なり、危険を排除していようとしているのだから、性別は関係ないのだろう。
それはつまり、カエルたちにとって大事な何かがこの先にあるという証左だ。
道の左右に広がる草むらからは、多くの視線を感じる。カエルたちがまだ潜んでいるのだろう。
警告のつもりなのか、僕に舌を伸ばしている数匹以外は大人しくしている。
これ以上進めばどうなるか分からない。
しかし、ここで引き下がるわけにもいかない。
事態に気付けるのは僕だけなのだから。
何とかして進む方法はないかと考えていた時、ひと際大きな風が吹いた。
湿った空気をかき混ぜるような風に、草木が一斉にざわめく。
そして、雨霧の向こうに見える林の中で、白いものが大きく揺れた気がした。
てるてる坊主だ。
ハッキリ見えたわけではないが、そう直感した。
雨の中でも濡れることなく、カエルたちを踏み込ませなかった安全地帯の象徴。
――状況を変えるなら、これしか無い。
大きく深呼吸して身体に酸素を送る。まだ、余力を振り絞ればなんとか立ち上がれそうだ。
足に力を入れて上体を起こす。それと同時に、舌を巻きつけていたカエルたちの身体が引っ張られ、草の中に隠れていた姿が露わになる。
僕からは触れられないけれど、引っ張られるのはちゃんと痛いようだ。
苦しそうな鳴き声が上がるのを無視して、僕は足を一歩踏み出した。
それと同時に、草むらから3本足のカエルたちが無数に飛び出す。そして、僕の方へと薄ピンクの舌が伸びてくる。
傘を手放して全力で駆け出し、間一髪でそれを避けた。
心臓の鼓動がうるさい。肺の辺りが痛み、うまく息が出来ない。
悲鳴をあげる身体を無理やり動かし、カエルたちの追撃から必死に逃げる。
後のことは考えなくていい。
あのてるてる坊主のところまで行けば、いったん休むことは出来る。
それからしばらく待っていれば、雲の上に潜む何かがまたカエルたちを追い払ってくれるかもしれない。
上空に何がいるのか、何故カエルを追い払ったのか。それはまだ分かっていない。
しかし、先へ進むにはそれに賭けるしか思いつかなかった。
雑木林の中に逃げ込むまでには、数分もかからなかっただろう。
しかし、その短い距離がこれまで走ってきたどんな瞬間よりも苦しく感じた。
やっとの思いでぬかるむ地面に足を踏み入れる。
転ばないように気をつけながら、てるてる坊主の吊り下がっている木のところまで走り、ほとんどぶつかるようにして幹にもたれかかる。
もう一歩も動けない。
だが、ここまで来たら一安心だ。
そう思い呼吸を整えていた僕の目に、ふと地面に何か転がっているのが映った。
「……え?」
それは、白い布を丸めたような物だった。
白い球の一部分には引きちぎられたような断面があり、赤黒い何かが付着していた。
ゆっくりと顔を上げる。
遠くから見た時は救いの手のようにも思えたその白い物体は、今でも風にゆらゆらと揺れている。
それを縛っている紐の上側には本来あるべきものが無かった。
首の無いてるてる坊主が、こちらを見下ろしていた。
それはただ、赤錆色の液体を滴らせながら揺れるだけだった。
不意に身体が体重を支えられなくなり、泥と落ち葉が混じった土の上に倒れ込む。
地面スレスレまで低くなった視界の中で、肉色の紐が――カエルの舌が自分に伸びているのが見えた。
それを通じて僕の身体から何かが抜け出ていく。
そういえば、ガマガエルの妖怪は生気を吸い取るという話をどこかで聞いた気がする。
先輩から聞いたのだっただろうか。
それを思い出そうとする気力さえも消えつつある。
体温が雨と一緒に流れ落ちる。
意識が雨音に溶けていく。
「亀戸くん!」
思考を完全に手放す直前で、ほとんど悲鳴に近い声がした。
ほとんど閉じていた瞼を持ち上げると、そこにいるはずの無い人物がいた。
彼女が纏っている白い羽織と角隠しが、淡く発光しているように見えた。




