2-8.焦燥と雨の中
ホームルームが終わると同時に僕はスマートフォンを開き、奇譚蒐集編纂部のグループチャットを覗く。
『具合はどうですか?』
昼休みの間に僕から送ったメッセージが一番下に表示されている。返信はまだ来ていない。既読もついていない。
「寝ているだけだろう」と自分を落ち着かせようとする心の声は、焦燥感に焼かれて消失した。
『先輩、大丈夫ですか?』
もう一度身を案じる言葉を投げかけてみる。
数分待ってみるが、やはり既読はつかない。
『部活は中止って言ってましたけど、気になることがあるので調査に行きます』
追加でメッセージを残し、僕はスマートフォンをしまって通学用のリュックサックを担いだ。
数十分かけて図書館へ移動し、エレナに憑いている怪異や3本足のカエルの情報を調べて……なんて考えは、あのおぞましい光景を見た後では悠長に思えた。
カエルに取り憑かれている者たちをどこかのてるてる坊主まで連れていけば、とも考えた。
しかし、面識のある水島美奈はエレナと協力すればなんとかできるかもしれないが、話したこともない他の生徒たちを説得するのは難しい。
それに、電車で移動した先にもカエルがいたことを考えると、校内だけでなく相当広い範囲が既に影響を受けているだろう。
個々を対処したところでどうしょうもない。
一刻も早く、元凶から断つ必要がある。
幸い「山の中でカエルに追いかけられる夢を見た」というヒントはあった。
詳細な位置は分からない。だが、山により近い籠目坂南部へ行けば、きっとカエルやオタマジャクシと遭遇できるだろう。
そいつらが集まっている場所を見つけることができれば、どうして活発に動き始めたのか、その原因まで辿り着けるはずだ。
「亀戸くん」
教室を出ようとした僕の背中に、か細い声がかけられる。
振り向くと、葦火エレナが眉根を寄せてこちらを見ていた。
「その……どこに行くの?」
「調査活動ですよ。葦火さんが依頼したんじゃないですか」
「それは、そうだけど……」
葦火エレナは何かを言い淀んでいる。
引っ込み思案で言葉を選ぶ癖があることは、何度か顔を合わせたことでなんとなく分かっていた。
彼女のその慎重さが、急いでいる今は疎ましかった。
「……そろそろ行ってもいいですか」
「あっ、待って……!」
立ち去ろうとした僕の腕をエレナが掴む。
「その……私も手伝っていい、かな」
エレナの手が声と同じように震えているのが伝わる。
きっと、なけなしの勇気を振り絞って、未知のものに立ち向かう恐怖を抑えつけているのだろう。
そんな彼女の手を振りほどくのは心苦しい気持ちがあった。
しかし……彼女はまだ、僕の目のことを知らない。
それを隠した状態でカエルの見えない彼女の同行を許すのは、行動が制限されると予想できる。
そして何より……誰かを危険に巻き込みたくはなかった。
観測した範囲内では、カエルの怪異は女性にのみ取り憑いている。行くなら僕一人の方が安全だろう。
「僕は大丈夫ですから、葦火さんは部活頑張ってください」
「あ……」
できるだけ傷つけないように、柔らかい口調を心掛けて申し出を断る。
僕の腕を掴んでいたエレナの力が緩み、彼女は一歩後ずさる。
「……心配してくれてありがとうございます」
その場に立ち尽くしている彼女にそう伝えて、僕は教室を後にした。
◇
一度籠目坂駅に立ち寄り、そこから深霧山方面へと向かうバスに乗る。
乗客はほとんどいない。老人が数人座っているだけだ。
あちら方面にあるのは限界集落と登山道くらいで、この雨模様では後者を目的とする者はまずいないだろう。
ゆっくりとした口調で世間話が紡がれている車内で、僕の存在は少し浮いていた。
僕は窓に額をくっつけるようにして、バスの外を観察する。
片側一車線の狭い道がどこまでも続く。年季の入った民家や工場らしき建物を取り囲むように、畑や田んぼ、よく分からない空地などの緑が目立つ。
まだ人の生活圏であるとは思うのだが、眠っているように殺風景な町並みだった。
景色を注視し続けて十分も経たない内に、黒い点が宙に浮いているのが見えた。
すぐさまバスの停車ボタンを押す。次に停まるバス停の名前は、一度も聞いたことがない場所だった。
バスの運転手に怪訝な顔をされながらバスを降りる。
この雨の中何もない場所で降りる高校生を見たら、そういう反応をされるのもおかしくないのかもしれない。
周りには自然が色濃く残った景色が続いている。
一応歩道はあるものの、歩いている人は誰もいない。車が時折通り過ぎていくだけだ。
ひとまず先ほど黒い点を見つけた場所まで歩いてみると、拍子抜けするくらいあっさりオタマジャクシの群れは見つかった。
カエルたちよりは多少すばしっこいが、それでも追いつけないほどではない。
僕のことなど無警戒に、悠々と泳いでいるというのもあるのだろう。
――こいつらも、誰かの体の中から出てきたのだろうか。
忌々しく思う気持ちを堪え、警戒されないように距離を取って後を追いかける。
相手は自在に宙を泳いでいる。道などあってないようなもので、雨で視界の悪い中見失わないようにするのは骨が折れた。
だが、オタマジャクシの群れは1つだけではなかった。
障害物に阻まれて振り切られてしまっても、似たような方向へ泳いでいく別の群れをすぐに見つけることができた。
それは同時に、少なくない数の人間がカエルに取り憑かれていることを示唆していた。
尾行を始めて三、四十分は過ぎただろうか。
オタマジャクシたちの向かう先は予想とは異なるルートへと逸れていた。
深霧山に向かうのならば、バスが通っていた道路を真っ直ぐ南へ進めば辿り着くはずだ。
しかし、オタマジャクシは途中で左の方向に、つまり東の方へと泳いでいった。
それを追いかけている内に周りから建築物の姿は随分と減っていた。
道路のすぐ横には草が伸びっぱなしになった土地が続いている。
歩道は整備されておらず雑草に侵食され、車が一台すれ違える程度の幅の道路には、申し訳程度に白線が引かれた路側帯があるだけだった。
長い時間雨の中を歩き続け、靴の中まで濡れてしまっている。昨日の逃走劇の疲労も残っていて、少し歩くペースが落ちてきていた。
顔を上げて遠くへと目をこらしてみる。
白くぼやけた雨霧の向こう側に、確かに山の姿は見える。ただ、あとどれくらい歩けば辿り着くかは分からない。
このままでは、周囲に街灯もほとんど立っていないこの場所で日没を迎えてしまうかもしれない。
しかし、立ち止まるわけにはいかない。
怪異による被害を見過ごすのは、もうたくさんだ。戻るなら、せめて何かを掴んでからでないと。
そう考えながら、オタマジャクシたちは何を目指して泳いでいるのか当たりをつけるために、僕はスマートフォンを取り出そうとした。
その時――すぐ横の草むらから、生肉のようなピンク色をした物が何本か伸びてきた。
反応が遅れ、その紐状の何かが足にまとわりつく。
同時に身体から何かが抜けていく感覚がした。
足に力が入らず、僕はその場で膝をついた。心臓が早鐘を打ち始め、呼吸が荒くなる。
何が起こったのかと、そのピンク色の物体の出所へと頭を向ける。
草むらの中に混じってこちらを見つめている、黒い瞳と視線がぶつかった。
緑色の体を景色に溶け込ませていた3本足のカエルたちが、僕に向かって舌を伸ばしていた。




