2-7.孵化
教室の中に足を踏み入れても、カエルをくっつけた後ろ姿がちらほら見えた。
僕を含めて36人いるクラスの中で取り憑かれているのは3人。
面識のあまりない女子生徒2人と、校外学習で行動を共にした水島美奈だ。
教室に入るまでに見かけた生徒も含め、取り憑かれているのが全員女子だというのが気味が悪かった。
今思えば、昨日先輩の傘にカエルが飛び乗ってきたのも偶然ではなかったのかもしれない。
「はー、だる……」
「珍しく元気ないね」
「最近低気圧が酷いせいか、頭痛くて」
「あー、昨日の雨も凄かったよね」
彼女らは当然、怪異に取り憑かれていることなど知る由もない。
体調不良も気象の影響だと信じて疑っていなかった。
「あー、あと嫌な夢見てよく寝れなかったんだよね」
「嫌な夢?」
「大きいカエルが引っ付いてくる夢」
その言葉の直後、話の輪に入っていた葦火エレナがピクリと肩を震わせて、こちらに視線を送る。
昨日遭遇したカエルの件については、彼女にも『もし変なカエルを見かけたらてるてる坊主の近くに逃げるように』と伝えていた。なにかあった時に難を逃れられる確率は増やしておきたかったのだ。
てるてる坊主が見えるからといって、水島美奈についているカエルの姿には気づいていないようだが。
ともかく、僕からそんな話を聞かされていたから、もしかしてと思ったのだろう。こちらにアイコンタクトを送る彼女に対して僕は小さく頷く。
エレナは逡巡する様子を見せた後、水島美奈に何か話しかけた。
その声は小さくこちらに届かなかったが、直後の水島美奈の反応で何を聞いたかは分かった。
「夢の内容……? うーん……」
どうやら夢の詳細について聞いたみたいだ。彼女は記憶をたどるような素振りを見せる。
「山の中でそのカエルから逃げてたことくらいかな、覚えてるのは」
……山の中。重要そうな単語が聞こえた。
もっと詳しいことを聞けないかと耳をそばだててみるが、その直後に笹島千百合の声が話を遮った。
「というか、エレナってそういう話興味あったっけ?」
「あー、ちゆ、それ多分……」
首を傾げた笹島千百合に対して、水島美奈が何かを耳打ちする。
そして、2人揃ってエレナの方を見てニマニマと笑みを浮かべている。対するエレナは少し頬を赤くして、橘咲楽が呆れたような顔をしていた。
なんだか話が変な方向に曲がり、それ以上の情報は得られないまま、授業開始の予鈴が鳴り響いた。
離れない影のように人の背中に張り付いた、3本足のカエル。
そして、水島美奈が夢で見たという山。
そのことが気がかりで、授業に集中するどころではなかった。
この辺りで山といえば、真っ先に深霧山が思い浮かぶ。県内の最高峰であり日本の名山にも数えられていて、知名度は抜群に高い。
しかし、当然ながらそれ以外にも山はある。隣県との県境には深霧山を含めた背の高い山々が連なる山脈があり、それらを調べるだけでも膨大な時間がかかるだろう。
さらには、もっと小さい山まで候補に入れると両手でも足りない数になってくる。
山に何かがありそうだ、といのがわかっただけでも助かるが……もう少し手掛かりが欲しかった。
変な目で見られることは承知でカエルに憑かれている人に話を聞いて回るか、あるいは先輩が言っていた通り図書館で調べ物をするか……。
――先輩は本当にただの風邪なのだろうか。
ふと、そんな心配が脳裏をよぎる。
単なる杞憂だと思いたい。それに、先輩が無事帰る姿は紛れもない僕自身が見届けた。
しかし、生徒の背中にくっついた異形のカエルを見ていると、自分を説き伏せる言葉の数々が細雨に遮られたようにぼやけてしまう。
……そういえば、昨日見た先輩のあの表情。
困ったような、それでいてこちらを安心させようとしている優しい笑顔。
あの笑顔は……怪異に取り憑かれて意識を失った、僕が小学校の頃の「先生」が最後に見せた表情と似ていた。
それに気づいた瞬間、呼吸が止まった。
べちゃっ。
突然、思考を遮るように馴染みのない音がした。
雨音のようにも聞こえたが微妙に違う。水をたっぷり含んだ雑巾が叩きつけられたような、鈍い水音だ。
ノートから顔を上げて、音の鳴った方――教室の真ん中へと視線を向ける。
そこにはカエルに取り憑かれていた女子生徒の内の1人がいた。
3本足のカエルは相変わらず彼女の背中にしがみついて、目をギョロギョロと回している。
そんな彼女の座っている椅子の下……そこに、多数の黒い点を包み込んだ、細長いゼリー状の物質が落ちていた。
――卵だ。
そう気づいたのも束の間、カエルの卵はみるみる内に孵化し始める。
次々と生まれるオタマジャクシたちは空中を水のように泳ぎ、教室の外へと飛んで行った。




