2-6.帰り道
「くしゅん」
鶴喰七花が小さなくしゃみをしながら、カエルたちに追われた際に落としたビニール傘を拾い上げる。
「大丈夫ですか?」
「ああ……少し体が冷えただけだ」
そう言って鶴喰七花は体を小さく震わせる。
土砂降りの中の逃走劇を終え、僕と先輩は2人ともずぶ濡れになっていた。
普通に歩いていても靴の中まで濡れるような激しい雨が降っていたのだ。
傘一本に対し二人が入った状態では、なるべく彼女の方に雨が降りかからないように気を付けていたとはいえ、防ぎ切るのは無理があった。
「今日は帰って、図書館に行くのは明日にしませんか」
もう今日は調べ物どころではない。
先輩もそのように考えていたのか、静かに頷いた。
それから籠目坂駅に戻るまでの間、鶴喰七花は一言も喋らなかった。
普段ならばつい先ほどの出来事に対して、怪奇譚の知識を交えた彼女の考えを披露しているところだが、今回はかなり体力を消耗したようだ。
「それじゃあ、また明日」
駅を出るなり先輩は短く別れの挨拶をして、返事も待たずに歩き出す。彼女の小さな後ろ姿が遠ざかっていく。
いつもは真っすぐ伸ばしている背筋が丸まっていて……霧雨の中に溶けてしまうのではないかと思えた。
気が付けば僕は駆け出していた。
激しく水を跳ねる足音に気づいた先輩が振り返り、目を丸くする。
「どうしたんだい?」
ほんの少し口角を上げて小首を傾げる鶴喰七花の前で、僕は言葉に詰まる。
心配で追いかけたはいいものの、自分が何を言いたいかすら曖昧な状態だった。
ただ、このまま一人にしたくないということだけはハッキリしていた。
「……その、家まで荷物をお持ちしましょうか」
先輩は僕の言葉の意味を数秒咀嚼してから口を開く。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。明日には調子を戻すから」
「でも……体調だけじゃなくて、例のカエルのことも心配なんです」
偶然か必然かはわからないが、先ほどは運よくカエルたちを退けることが出来た。
でも、あのカエルたちが出没するのはあの住宅地だけとは限らない。『最近カエルの声がうるさい』という生徒の話をよく聞く以上、他の場所でも出ると考えるのが自然だろう。
もし鶴喰七花が一人で帰る際にあの不気味なカエルたちが襲ってきたりしたら? そう考えるだけで恐ろしかった。
「先輩の通学ルートにも例のてるてる坊主があるかもしれません。場所が分かればいざという時逃げ込めると思うので、それを探すためにも……」
「それは助かる、けれど……」
鶴喰七花は黙り込んでしまう。
今、彼女の中ではどんな考えが巡っているのだろうか。表情が読めない。
出過ぎた真似をしてしまったのではないかと不安が募る。
一方、先輩から見た僕は随分と分かりやすい顔をしていたようだ。
「……そんな顔をされたら敵わないな。わかった、よろしく頼むよ」
鶴喰七花は呆れの混じった笑みを浮かべて、スクールバッグを僕に預けた。
その笑顔はなんだか見覚えのある表情で……少し、胸の内がざわついた。
「そういえば聞いてなかったけど……君の視た『カエルみたいな何か』とはどんな怪異だった?」
てるてる坊主の位置を確認しつつ籠目坂駅周辺に広がる昔ながらの町並みを抜けた頃に、鶴喰七花は質問を投げかけてきた。
僕はあの忘れたくても忘れられそうにない異形のカエルについて伝える。
緑色の大きな身体に3本しかない脚、人のような目……。
それを聞いた鶴喰七花は少し眉をひそめる。
「見た目は青蛙神……青い蛙の神と書く、中国に伝わる神獣に似ていると思うけど……」
「何か気になることが?」
「……ちょっと、今は頭が回らないな……一晩考えてみて、また明日伝えるよ」
まだ本調子ではないようで、先輩はこの場で結論を出そうとはしなかった。
先輩がゆっくり考えると言った以上、僕の方からも言えることはない。僕は先輩の荷物を運びながらてるてる坊主を探す仕事に戻った。
「ああ、着いたね」
鶴喰七花が足を止めた時には、すっかり日は落ちていた。
駅を出てから数十分、籠目坂高校の前も通り過ぎて歩き続けた果てに辿り着いた家を見て、僕は声に驚きが混じるのを隠しきれなかった。
「ここがそうなんですか?」
目の前に現れたのは、かなりの敷地面積がありそうな日本家屋だった。
屋敷の横には几帳面に整えられた植え込みで囲まれた庭が広がっていて、立派な松の木や紫陽花の姿が見える。
「……先輩って由緒正しい家柄の人だったりします?」
「そういう反応をされるのが恥ずかしいから来てほしくなかったのに……」
そう言って鶴喰七花は口をとがらせる。
あまり見ない表情に、こっちも照れくさくなってきた。
「ともかく助かったよ。ありがとう」
僕が運んでいたスクールバッグを受け取って、鶴喰七花は屋敷の中に入っていく。
彼女の姿が引き戸の向こうに消えるのを見送り、僕も帰路についた。
弱々しい街灯の光を頼りに歩きながら、僕は今日までのことを振り返る。
葦火エレナが見た謎の人影と、彼女が羽織っている白い着物。霧渡川の龍神伝説に、枝垂れ桜に掛かっていたてるてる坊主。
そして、青蛙神に似ているという3本足のカエル。
様々な怪異が複雑に絡み合っている。
桜の時と比べて情報はずっと多いのに、事の核心は覆い隠されたままだ。
先行きの見えない状況に胸の内の焦燥感は燻ぶるばかりだった。
◇
翌朝、奇譚蒐集編纂部の連絡用グループチャットに先輩からの通知が入っていた。
『不甲斐ないことに風邪を引いてしまって……今日の活動は中止ということで』
そんなメッセージの真下には、デフォルメされたペンギンが頭を下げているスタンプが表示されている。
『了解しました。ゆっくり休んでください』
返信を送ってアプリを閉じ、小さく息を吐く。
雨は相変わらず降り続いている。重たい足をなんとか持ち上げて、学校へと向かう。
カエルの姿に警戒しながら通学路を歩いていたが、そんな心配とは裏腹に、結局一匹も姿を見ることなく学校に辿り着くことができた。
学校に着くまでは。
「……え?」
変な声を出して立ち止まった僕を何人かが迷惑そうな顔をして避け、校門をくぐっていく。
生徒たちが作る白と黒の波の中に点々と、鮮やかな緑色をしたモノが見えた。
カエルたちは一部の生徒にしがみつき、日常を浸食し始めていた。




