2-2.七花とエレナ
夏が来る前に旧校舎から他の場所に避難するという計画は、未だに実行されていなかった。
先輩が言うには使用許可を貰うのに手こずっているらしく、僕たちは梅雨の間も旧校舎を拠点とすることになっていた。
この雨では先月のように窓を開けるわけにもいかず、湿気がこもりっぱなしだ。外気温がさほど高くないことは救いだったが、それでも肌に衣服が張り付く感覚は耐えがたいものがある。
そんな悪環境にも関わらず、鶴喰七花は涼しい顔をして旧校舎で昼休みの時間を過ごしていた。
僕の来訪に気づいた先輩は持っていた本から顔を上げ、そして視線を僕の横へとずらす。
「おや……隣の子は?」
先輩と目が合った葦火エレナは少しの間先輩の顔をジッと見つめ、それから慌ててお辞儀をした。
「あの、亀戸くんと同じクラスの葦火エレナって言います」
「ああ、君が『花海長屋の神隠し』に遭った子か」
「えっと、はい」
先日の校外学習での出来事は先輩に報告していた。
話を聞いた先輩が現地での再調査を決めた時の、興奮を隠し切れていない表情をふと思い出す。
結局あの空間を再訪することは出来ず肩を落としていた彼女の姿も。
「先輩が亀戸くんに神隠しのことを話していなかったらと思うと……ありがとうございます」
「お礼を言われるほどのことはしてないよ」
「いえいえ、そんな」
何度も深く頭を下げるエレナを見て、先輩は少し困ったようにはにかんでいた。
照れくささが限界に来たのか、先輩は小さく咳ばらいをして話を元に戻す。
「改めて……奇譚蒐集編纂部の部長、3年2組の鶴喰七花だ。それで、今日は何の用かな」
「その、実は……今日学校に来る時に不思議なことがあったんです。それで、オカルト部なら何かわかるかなと思いまして」
「となると……調査依頼だね」
鶴喰七花の声はわずかに弾んでいるように聞こえた。
僕が初めてここを訪れた時も『調査依頼』という単語を口にしていたけれど……彼女にとっては、まだ出会ったことのない怪奇譚と遭遇できるかもしれない貴重なチャンスであるようだ。
さっそく差し出された椅子に葦火エレナは腰掛け、何があったのかを話し出す。
「今朝、いつもの道を通って学校に向かっていた途中で、誰かが倒れているのを見かけたんです。それで、自転車を停めて『大丈夫ですか?』って声をかけたんですけど反応が無くて……」
おそらく、何かの事件の被害者かもしれないと考えが頭をよぎったのだろう。
女子高生の行方不明という物騒な話を最近聞かされたばかりなので、心配するのも理解できる。
ただ、今回は事情が違ったようだ。
「どうしようかと思いながら、もう少し近づいてみたら……いきなり足首を掴まれて」
その時のことを思い出したのか、葦火エレナは小さく体を震わせる。
「それでびっくりして、振りほどこうとした拍子に転んじゃって……起き上がった時には、もうその人が消えていたんです」
「消えていた?」
思わず聞き返すと、エレナは口を閉じてこくこくと頷いた。
「それは立ち去っていたということではなく、文字通りの意味で?」
「はい……堤防の上の道で、隠れるような場所は無かった、はず……」
先輩の質問に対してエレナは自信なさげに答える。
いろんな事が瞬時に起きて冷静に周りを見る余裕が無かったのだろう。
ただ、堤防の上という視界の開けた場所であれば、彼女の言う通り身を隠す場所はなかった可能性が高い。
「あとは……その倒れていた人の特徴は何かあるかな」
「うーん……顔とかは良く見えなかったですけど……真っ白な着物?を着ていて、珍しいなとは思いました」
白い着物。葦火エレナが身に纏っている純白の羽織とそれが無関係だとは思えなかった。
ただ、僕以外に見えていないその羽織については一旦伏せておき、会話の成り行きを見守ることにした。
「とりあえず、放課後現場に向かってみることにするよ。詳細な場所は分かるかな」
「えっと……良ければ道案内しましょうか?」
「それは助かるけど、エレナくんの都合は大丈夫なのか?」
「うーん……今日はパート練だけなのでそこまで問題ない、かも……」
「吹奏楽部なのかな? 練習も多いだろうし、私たちに任せてくれてもいいんじゃないか」
先輩からそう提案されてしばらく迷っていたエレナだったが、やがて意を決したように口を開いた。
「いえ、吹奏楽部の先輩と相談して今日は休ませてもらいます。その、私のことなのに七花先輩と亀戸くんにばかり負担をかけるのも申し訳ないので」
「ありがとう、助かるよ」
それから鶴喰七花と葦火エレナは、今回の調査活動の間に分かったことや思い出したことを伝達できるように連絡先を交換していた。
水島美奈たち友人が待つ教室へと戻っていくエレナを見送った後、二人っきりになった空き教室で先輩は僕に声をかける。
「それで、君の目には何か映っていたか?」
「はい」
葦火エレナが慌ただしく登校してきた時から今に至るまで、純白で上質そうな布が彼女の身体を覆っているように見えていたことを僕は先輩に伝える。
「角隠しのような白い頭巾に白い羽織か……君の言うように花嫁衣裳を模した物に聞こえる」
鶴喰七花はそこで言葉を区切ると、腕を組んで少しの間思考に耽る素振りを見せた。
「ただ、あくまで候補の1つだが……てるてる坊主やその由来とされている掃晴娘という線もあるかもしれない」
てるてる坊主。確かに、教室へと戻るエレナの後ろ姿はそのようにも見えたかもしれない。
……それはそれとして。
「ソウセイジョウ、ってなんですか?」
聞き慣れない単語をオウム返しすると、先輩は生き生きと語り始めた。
「掃除や清掃の『掃』に晴れ模様の『晴』、そして『娘』という漢字をあてる、中国の伝説上の女性だよ。連日続く雨に悩まされていたある村の少女が、雨を止めるよう天に祈りを捧げたところ、『お前が龍神の妃になるなら雨を止ませてやる』という声が降ってきた。少女はそれを承諾して天に昇り、雨は無事に止んだ……という話が伝わっているんだ。掃晴娘を模した人形を吊るして晴れを願う風習が日本に伝わって、てるてる坊主になったという説がある」
「……一応、花嫁とも関係がありそうですね」
「うん。今のところ、一番もっともらしいと思っている」
その言葉と鶴喰七花の表情は、彼女がまだ確信に至っていないことを物語っていた。
「ただ……掃晴娘と似た構造の、『治水の願いを叶える代償に水の神である龍神や蛇神に身を捧げる』という話は日本各地でも多く見られる。今回の件の詳細については、もう少し調べてみないと分からないだろう」
そう言われてみると、似たような話をどこかで聞いた気がした。
いつのことだったか思い出そうとしている途中で、鶴喰七花の声が僕の思考を遮る。
「それから……エレナくんが見た倒れていた人というのは怪異の可能性が高いだろうね」
「状況を見れば、そうですね」
一瞬の隙を見て姿を消した点。その人物との接触がエレナの身を包む白い布と関係がありそうな点。まだ確証はないが、ただの人間だとは思えなかった。
「だとすると……私の目に見えなかった桜の怪異や、エレナくんには見えなかったという花海長屋の猫又と比べて、その怪異はより強い力を持っているということになるのかな」
鶴喰七花の指摘する通りだった。
あくまで僕の経験則ではあるのだが……この世に干渉する力が強いほど、怪異は現実味を帯びた姿で人前に現れる。
これに照らし合わせれば、葦火エレナの目に映った何かは、この数か月の間に見てきた怪異の中でも格が違う恐れがあった。




