1-10.桜の森の満開の下
籠目坂駅から発車する私鉄に揺られること15分。そこから歩くことさらに15分。辿り着いたのは、深霧市役所の傍らに位置する広大な公園だった。
「ここ『深霧市さくら公園』はその名の通り桜の名所でね。約2000本の桜が立ち並ぶ姿が壮観で評判なんだ」
「……でも、今はほとんど花が散っていますね」
「まあ、見ごろを迎えたのは2,3週間前だったからね」
新緑の葉を揺らしてさわさわと音を立てる木々の下には、幼い子供を連れた家族や犬を散歩させている人の姿が見える。
今のところ特に異常な点はない、のどかな風景だ。
「普通の広い公園に見えますけど、ここにはどんな逸話があるんですか?」
「ここは……特に伝承や怪談といったものは無いんだ」
「え?」
ならばどうしてここに、と尋ねようとして鶴喰七花の方に顔を向ける。
彼女は目を細めて、桜の木々のさらに遠くを見るようにして眼前に広がる景色を眺めていた。
「これほど多くの桜があれば、坂口安吾が書き記した桜の森の美しさと虚空を感じ取れるのではないかと思って訪れたのさ」
坂口安吾。聞いたことのあるような無いような名前だ。教科書で見たのだったか。
「君は『桜の森の満開の下』という話は読んだことがあるかな」
「えっと……桜の樹の下には死体が埋まっている、って話とは別ですか?」
「それは梶井基次郎の『桜の樹の下には』だね」
先輩は足を進めながらつらつらと説明し始める。
その後を追い、葉桜の一本一本に目を配りながら話に耳を傾ける。
「『桜の森の満開の下』は、鈴鹿峠という桜の森がある山に住んでいた山賊が主人公だ。山賊の男は血も涙もない性格で、街道に出ては追いはぎをしたり女性を攫って妻にしたりしていた。しかし、そんな男でも満開の桜の森を一人で通るのはなぜか恐ろしく感じていた」
ふと、目の前の葉桜たちが満開の花を咲かせた姿が脳裏によぎる。
果ての見えない桜の森の中心に、たった一人で立ち尽くしている僕。
美しさへの感動よりも不安な気持ちが勝つこともあるのかもしれない。
「そんなある日、男はとりわけ美しい女を攫ってくる。この女というのがまた曲者でね。主人を殺されて連れ去られた身なのに、山賊の男に居丈高に命令して、七人いた男の女房を一人残して斬り殺すように指図するんだ」
「ええ……なんですかそれ。めちゃくちゃじゃないですか」
女の理解しがたい行動に思わず漏れた感想。
それに対して、先輩は苦笑いしながら頷いた。
「ああ、理不尽で残酷だ。けれど、つい言う事を聞いてしまうほど美しい。そんな女のことを、男は『桜の森の満開の下を通る時に似ている』と形容した」
美しくも恐ろしい桜のような女……と言うには過激すぎる気もするけれど。
桜に対して『人の命を吸い取って花を咲かせる物』というイメージがあったのかもしれない。桜の樹の下には死体が埋まっていると噂されるように。
「その後も男は女の希望を聞き入れて住処を都へと移し、女に言われるがままに人の生首を集めていた。男はそのことに罪悪感を覚えるような人間ではなかったが、都での生活や女の機嫌を取ることに退屈してしまう。女を殺してしまえば解放されると考えたこともあったが……それを実行すれば己まで死んでしまう気がしてならなかった」
こんな残忍な女を自分の半身のように思うなんて、現代人の感覚からしたら共感しづらい。
ただ、男の方も元から野蛮な性格だ。
だから、普通の人間同士が長年連れ添って情が湧くのとそう変わりはなかったのだろう。
「何日も悩んだ末に、男は鈴鹿峠の桜のことを思い出し、女を連れて懐かしい山に帰ることを決めた。そうして女を背負って山に戻ってきた男が、満開を迎えた桜の森の下を通った途端……女の姿は醜い鬼に変貌していた。驚いた男は首を絞めようとする鬼を必死に振りほどいて、逆に首を絞めるんだが……ふと気がつけば、男が絞め殺していたのは紛れもなく女だった」
「……女が人の命を弄んでいたのは正体が鬼だったから、ということですか?」
「そこは解釈が分かれるところだね。本当に鬼が女に化けていたのかもしれないし、あるいは桜のせいで狂ってしまった男が、振り落とされないように必死にしがみつこうとする女に対して『俺を絞め殺そうとしている』と勘違いしたのかもしれない」
桜の美しさが人を狂わせる、という話も確かに聞き覚えがあるが……女の普段の行いが常軌を逸していたのも事実だ。
狂っていたのは男か女か……あるいは、両方か。
「なんにせよ、女を失った山賊は孤独となり、満開の桜の下に広がる冷たい虚空の張り詰めた空間の中で、女の死体と共に桜の花びらに姿を変えて消えてしまう。……これが、『桜の森の満開の下』のあらすじだ」
「……なんというか、不思議な話ですね」
「普通に読んでも難解な話だからね。私の掻い摘んだ説明だけでは理解しきれなくて当然だ」
数歩先を歩いていた鶴喰七花が、くるりとこちらを向き直る。
一纏めにした髪が黒い軌跡を描き、それを追うようにして彼女の胸から花びらが散る。
「何より、坂口安吾の描いた幻想的な世界は伝聞じゃ伝えきれないから、是非とも原文を読むことをお勧めするよ」
時期外れの桜吹雪の中で微笑む彼女は、今にも桜の花びらと同化して消えてしまいそうな儚さがあった。




