21.訓練で抱き着かれる俺
リーゼとの魔術訓練が始まって三日目の朝だった。
東門の外に広がる草原は、朝靄がまだ残っていて、地面からうっすらと立ち上る白い霧が足首を覆っている。遠くに遺跡探索で歩いた森の稜線が、薄紫の空を背にして黒い刷毛で引いたように伸びていた。草のあいだからは名前の知らない白い野花が点々と咲いていて、朝露を載せた花弁が光を弾くたびに宝石を撒いたように煌めく。風が吹くと草原が波打ち、甘い青草の匂いと、微かに土の湿った匂いが鼻腔をくすぐった。
この場所をリーゼが訓練場に選んだのは、周囲に人家がなく、多少の魔力暴走があっても被害が出にくいためだ。実際、初日に俺が放った制御不能の火球は、半径十メートルの草原を焦土に変えた。今でもその焦げ跡が黒い円を描いて残っていて、リーゼは毎朝それを見るたびに「これが反面教師よ」と俺に言って聞かせる。
「集中して。魔力の流れを意識するの。体の中心──胸の辺りにある核から、右腕を通って指先に流す。一本の糸みたいに、細く、真っ直ぐに」
リーゼが三メートルほど離れた位置で指示を出す。杖を構えた姿勢は堂に入っていて、教官然とした雰囲気がある。栗色のショートボブが朝風に揺れるたびに翡翠色の瞳がちらりと覗いて、その眼差しには教え子の出来不出来を見極めようとする真剣さがみなぎっていた。学院で三年間揉まれただけのことはある。あの小柄な体の中に、どれほどの矜持と覚悟が詰まっているのだろう。
「……こう?」
右手を前に伸ばし、体の奥に意識を向ける。遺跡での覚醒以来、魔力の存在自体は感じられるようになっていた。胸の深いところに、温かく脈打つ光の塊がある。金色に輝く、掌ほどの大きさの灯火だ。それを指先に向かって流し込もうとすると──
「あっ」
指先から金色の光が弾けた。制御が甘い。放出量が多すぎて、意図した方向ではなくあらゆる方向に拡散してしまう。光の粒が火花のように散って、周囲の草が火傷を負ったように萎れた。
「暴走する! 止めて!」
リーゼが、叫ぶと同時に朝露の草を蹴散らして走り寄ってきた。
そして──背後から、俺の体に密着した。
「っ!?」
リーゼの両腕が俺の腰に回り、背中に小さな胸が押し付けられる。リーゼの顎が俺の肩に乗り、耳元で荒い呼吸が聞こえた。吐息が首筋の産毛をくすぐって、肌が粟だつ。リーゼの心臓の鼓動が背中越しに伝わってくる──速い。緊張と魔力行使の昂りが混じった拍動。
「動かないで。あたしの魔力をあなたに繋ぐから」
リーゼの指先が俺の腹部──臍の少し上あたり──に触れた。薄いブラウス越しに、熱い指先の感触が伝わってくる。細い指が、布地の上から肌に食い込むように押し当てられた。
瞬間、体の中をなにかが駆け抜けた。
リーゼの魔力だ。翡翠色の、俺のものとは異なる色彩の魔力が、リーゼの指先から俺の体内に流れ込んでくる。それは清涼な水流のようでもあり、微かにミントの香りを帯びた冷たい風のようでもあった。暴走しかけていた金色の魔力を、翡翠色の魔力が包み込むようにして抑え込んでいく。荒れ狂う炎に水を注ぐのではなく、炎の揺らぎそのものに寄り添って、共に呼吸を整えるような制御だった。
「はぁっ……ん、くっ……」
息が詰まった。他人の魔力が体の中を流れる感覚は、得も言われぬ──なんと表現すればいいのか──全身を内側から撫でられているような、痺れるような感覚だった。熱い。体の芯から熱い。リーゼの魔力が通過する経路が、じわりと火照っていく。背骨に沿って上昇する翡翠の流れが、肩甲骨のあいだを過ぎ、首筋を這い、頭蓋の内側に到達したとき、一瞬だけ視界が翡翠色に染まった。
「力を抜いて。あたしの流れに合わせるの」
リーゼの声が耳元で囁かれる。吐息が首筋にかかって、ぞくりとした。彼女の唇が耳朶に触れるか触れないかの距離にある。その湿った呼気のなかに、朝食に食べたのだろう蜂蜜パンの甘い残り香がした。
「あ……う、うん」
「自分の魔力をあたしの流れにのせて。一緒に流すイメージ。呼吸を合わせて──吸って」
リーゼが大きく息を吸う。背中に密着した胸の膨らみが押し付けられる感触が変わる。小さいけれど確かにそこにある柔らかさが、深呼吸とともに俺の背中で膨らんで、縮んで、また膨らむ。
「──吐いて」
同時に息を吐く。呼吸が重なると、不思議と魔力の流れが安定した。金色と翡翠色が混じり合って、渦を巻きながら俺の右腕を通り、指先に向かって整然と流れていく。二つの色が螺旋を描くように絡み合う様は、まるで二本の糸を撚り合わせて一本の紐にするかのようだった。
「そう、それでいいの。そのまま……ゆっくり、放出して」
指先から、制御された魔力の光が放たれた。暴走ではなく、意図した方向に、意図した量だけ。小さな光の球が、まっすぐ前方に飛んで、離れた岩に着弾して弾けた。着弾点に金色と翡翠の混じった花火が散って、岩の表面に小さな放射状の亀裂を刻む。
「……できた」
「できたわ」
リーゼの声にも、安堵と達成感が滲んでいた。背中越しに伝わる心拍が、さっきまでの緊迫した速さから少しだけ落ち着いている。
しかし──問題はここからだ。
「あの、リーゼ……もう、離れてくれても……」
「え? あ──」
リーゼが、俺に背後から抱きついたままだったことに今更気付いたらしい。慌てて手を離して、飛び退いた。ローブの裾が翻って朝露を散らす。
「べ、別に、これは魔力を繋ぐために必要だったんだからね!」
「わ、わかってる。わかってるよ!」
二人とも顔が真っ赤だった。
だが、これは──魔力の暴走を制御するには一番効率的な方法だった。肌の接触面積が大きいほど魔力の伝達効率が上がるのだ、とリーゼは学術的に説明してくれた。学術的に。しかし学術的に説明されても、背中から抱きしめられて耳元で囁かれながら体の中に他人の魔力を流し込まれる体験は、どう取り繕っても学術の範疇を逸脱している。
「じゃ、じゃあもう一回。今度は風属性で試すわよ」
「う、うん」
再び背後に回るリーゼ。今度は少し迷った後、俺の腰に手を回して密着した。さっきよりも意識的に間合いを詰めたのか、肩甲骨のあいだにリーゼの額が当たった。
「…………」
「…………」
二人とも無言だ。気まずい。けど慣れるしかない。遠くで鳥が鳴いている。朝の爽やかな風が草原を渡って二人の間を吹き抜けるのだが、密着しているせいで風の通り道がなく、互いの体温が溶け合ってじんわりと蒸す。
「い、いくわよ。集中して」
「はい……」




