20.見られる俺
宿に帰ると、フィーネがカウンターに肘をついて待っていた。
「おかえり。どうだった」
淡々とした表情で、彼女が聞いてくる。
「色々ありました……」
その一言に全てが集約される。とにかく疲れた。
「顔色で大体わかるわ。ナンパされたでしょ」
「なんでわかるんですか」
「あの顔で一人歩きしたら、十分持たないわよ。でも、経験としてはいいことだったはずよ。次からは対処できるでしょ」
フィーネの言い方は冷たいけど、たぶんこれが彼女なりの優しさだ。最初から一人で歩かせたのは、こういう経験をさせるためだったのかもしれない。厳しいけど、合理的な人だ。
「歩き方は……まぁ、六十点ってとこね。まだ肩が硬いし、足首の使い方がぎこちない。明日もやるわよ」
「明日も?」
「当然でしょ。一日で身に付くなら苦労しないわ」
有無を言わさず通告されて、俺は大人しく頷いた。
「あと──」
フィーネがカウンターの向こうから身を乗り出して、俺の顔を覗き込んだ。近い。切れ長の目が、至近距離で俺を捉える。
「うん、やっぱり綺麗な顔。もったいない」
指先が、ほんの一瞬だけ俺の顔の輪郭をなぞった。冷たくて細い指が、顎のラインを辿って離れる。
心臓が跳ねた。違う、これは──男としての跳ね方と違う。男の頃、この人を妄想のおかずにした時のドキドキとは質が異なる。あの頃は支配されたいという倒錯的な興奮だったのに、今のは、もっと直接的で、もっと素朴な──。
触れられた顎のラインが、じんわりと熱い。
「な、なにを……」
「肌の手入れも教えてあげる。素材がいいんだから、ちゃんと磨きなさい」
フィーネはそれだけ言って、台所に戻っていった。なんでもないことのように。
俺だけが、心臓をばくばくさせたまま取り残された。
……なんだったんだ、今の。
午後はリーゼとの魔術訓練があったので(散々しごかれた)、宿に戻った時にはもう夕方を過ぎていた。
体が重い。魔術訓練で魔力を絞り出しては制御する練習を繰り返したせいで、全身が筋肉痛のように軋んでいる。リーゼは容赦がなかった。「基礎は体が覚えるまで反復よ」と言って、同じ魔力操作を五十回以上繰り返させた。軍隊かよ、と毒づきたくなるような厳しさだった。。
部屋に戻って、扉を閉めた。
あぁ、今日は本当に疲れた。とにかく服を脱ぎたい。汗だくだし、ロングスカートの裾は泥だらけだし、ブラウスは張り付いて気持ち悪い。
俺は──特に何も考えず──服を全部脱いだ。
ブラウスを脱ぎ、スカートを落とし、下着を外す。男の頃の癖で、全裸になるのに一切の抵抗がない。風呂上がりも着替えの時も、エミールの頃はずっとこうだった。パーティーメンバーとの共同部屋でも平然と裸で歩き回って、アルたんに「せめてパンツは履け」と言われたものだ。
窓から入る夕方の風が、汗ばんだ素肌に気持ちいい。大きく伸びをした。解放感がある。やっぱり裸が一番楽だ。
全裸のまま水差しの水をコップに注いで、喉を潤す。ふぅ、生き返る。
──その時、扉がノックもなく開いた。
「エミ、飯の時間だ──」
アルたんだった。
勇者が一歩部屋に踏み込んで、目の前の光景を視認するまでに約一秒。金色の長い髪、豊満な胸、くびれた腰、そこから続く滑らかな肌──生まれたままの姿の俺を、アルたんは頭のてっぺんからつま先まで、完全に視界に入れてしまった。
「…………」
「…………」
時間が止まった。
水を汲んだコップを口元に持ったまま硬直している俺と、扉のノブを握ったまま石になっているアルたんの間で、夕暮れの光が金色の粒子みたいにゆっくりと漂っている。
三秒後。
「きゃあああああっ!」
生まれて初めて、俺は心から悲鳴を上げた。
しかも「きゃ」だ。人生で一度も発したことのない音が、喉から飛び出した。手に持っていたコップの水がアルたんの顔に直撃する。
「すっ、すまんっ!」
アルたんが両手で目を覆いながら後退する。顔面ずぶ濡れだ。濡れたまま壁にぶつかり、扉の枠に肩をぶつけ、よろめきながら廊下に出ていった。
「ば、バカっ! ノックしてよ!」
手近なシーツを引っ掴んで体に巻きつけながら叫ぶ。心臓が壊れそうなほど暴れている。顔が熱い。耳まで燃えるように赤くなっているのが自分でもわかった。
「すまない! まさか裸でいるとは思わなかったから──っ、本当にすまん!」
廊下の向こうでアルたんが必死に弁解している。声が裏返っている。
確かに男の頃の癖で部屋で全裸になっていた俺も悪いかもしれない。。
だけど──だけど! 女の部屋にノックもしないで入るのはマナー違反だろう!
「見た!? 見たでしょ!?」
「見てない!」
「嘘つき! 完全に目が合ったじゃん!」
「いや、合ったのは目であって、その──他は見てない!」
「目が合った時点で全部見えてるでしょうがぁっ!」
理屈が崩壊した言い争いが廊下に響き渡る。隣の部屋からゲオルクの「なにやら楽しそうな」という声が聞こえたので、手近にあった枕を壁に投げつけて黙らせた。
「……とにかく、本当にすまなかった。飯は食堂にある」
アルたんの力ない足音が遠ざかっていく。
俺はシーツにくるまったまま、ベッドの上に崩れ落ちた。
顔が、熱い。
体中が、熱い。
心臓が、痛いほど鳴っている。
恥ずかしかった。とにかく恥ずかしかった。
男の時は──アルたんの前で裸になるなんて、なんとも思わなかった。一緒に川で水浴びもしたし、野営で着替えるのも当たり前だった。それが今は──顔が燃えるほど恥ずかしくて、心臓が破裂しそうで、逃げ出したくなるほど──。
これは、この体が女だからか。女の体が、男に裸を見られることを本能的に恥じているのか。
それとも──相手が、アルたんだからか。
胸の奥で、なにかが疼いた。
痛いんじゃない。苦しいんでもない。もっと甘くて、もっと切ない、じんわりと広がっていく感覚。名前をつけるなら──ときめき、という言葉が一番近い。
いやいやいやいや。ときめいてどうする。相手はアルたんだぞ。幼なじみだぞ。俺を追放した男だぞ。しかも俺は男だぞ。心は男だぞ。男が男にときめくなんて──。
でもこの体は、嘘をつかない。肌が粟立って、耳が赤くて、心臓がばくばくして、胸の奥が甘く疼く。アルたんの目に自分の裸が映ったという事実が、俺の全身を支配している。
「……やばい」
シーツの中で呟いた。声が震えていた。
恥ずかしさとも興奮とも違う、得体の知れない感情が嵐のように渦巻いている。男として生きてきたこれまでで、一度も経験したことのない種類の感情だ。
これが、心が女になるということなのか。
それとも──もともと、こういう感情は心のどこかにあったのか。いやいやそんなことない。あるはずない!
答えは出なかった。
ただ、一つだけ確かなことがある。
明日、アルたんの顔をまともに見られる気がしない。




