19.街を歩く俺
朝の町を歩く。
歩き方を意識する。歩幅を狭く、足は一直線上、腕は振らない、視線は少し遠く、腰から下で歩く。一つずつ思い出しながら歩くと、どうしてもぎこちなくなる。けれど五分、十分と続けるうちに、少しずつ体が慣れてきた。
不思議な感覚だった。歩き方を変えただけなのに、世界の見え方が違う。視線が安定すると、周囲の景色がゆっくり流れているように感じる。風がスカートの裾を揺らし、長い金髪が肩で揺れる。自分の足音が小さくなって、代わりに街の音──商人たちの声、馬のいななき、鍛冶屋の金槌の音──が耳に入ってくる。
「お嬢さん、花はいかが?」
花屋の青年が声をかけてきた。手には赤い薔薇の花束を持っている。にこやかな笑顔。
「えっ、あ、いえ……」
「こんなに綺麗な方を見ると、つい声をかけずにはいられなくて。一輪だけでも、いかがです?」
悪い人じゃなさそうだけど、明らかに口説いている。困って早足で通り過ぎようとすると、今度は別の方向から声がかかった。
「ねぇ、さっきからずっと見てたんだけど、すごい綺麗だね。お茶でもどう?」
革の胸当てを着けた若い冒険者が、自信ありげな笑みを浮かべて近づいてくる。身長は俺──この体──より少し高いくらいで、顔は悪くない。
「あ、ごめんなさい、急いでて……」
断って歩き続けるが、俺に向けられる視線は途切れない。市場を通りかかれば商人がおまけをしようと声を張り上げ、広場を横切れば座っていた男たちが一斉に目で追ってくる。
こんなもんなのか、美人の日常って。アルたんたちと一緒にいる時はあまり気にならなかったけれど、一人で歩くと注目の量が段違いだ。どこに行っても見られている。
「お姉さん、道に迷ってない? 案内しようか」
また声をかけられた。今度は酒場の前で暇そうにしていた三人組の冒険者。暇を持て余しているのか、朝から酒臭い。
「大丈夫です、迷ってません」
足を止めずに通り過ぎようとしたが、一人が横に回り込んできた。こいつは少し厄介かもしれない。
「そう冷たいこと言わないでさ。俺たち、この町のこと何でも知ってるぜ? 美味い飯屋とか、穴場の温泉とか」
「ほんとに大丈夫ですから──」
「まぁまぁ、そう急がないで」
腕を取られそうになった。手を引っ込めて距離を取ると、男たちは面白がるように笑った。
「はは、恥ずかしがり屋か。可愛いな」
……可愛い、か。
不思議なことに、完全に不快というわけでもなかった。もちろん、こういう強引なのは困るし怖い。けれど──声をかけられること自体は、嫌な気分ばかりじゃない。
村人のエミールだった頃、俺に声をかけてくる人間なんていなかった。仲間からも空気のように扱われて、町を歩いても誰の目にも留まらなかった。存在しないのと同じだった。
それが今は、通りを歩くだけでこれだけの人が振り向く。なんて声をかけようか迷っている男がいる。俺を──この姿を──綺麗だと言ってくれる人がいる。
認められている、と感じてしまう自分がいた。それは能力でもステータスでもなく、ただ存在するだけで発生する承認だ。こんな経験、男の俺にはなかった。
まんざらでもない。正直に言えば、そうだった。
男としての俺が、「ちやほやされて喜ぶなんて情けない」と言っている。けれどこの体の、あるいはこの状況に馴染みつつある心のどこかが、その承認を心地よく感じてしまっているのだ。
──これが、女性として生きるということなのか。
考え込んでいたのがいけなかった。
路地の角を曲がったところで、背の高い男に道を塞がれた。さっきの三人組の一人だ。いつの間にか先回りされていたらしい。
「よう、ようやく二人きりだな」
にやつく顔が近い。革鎧の上からでもわかる厚い胸板。酒と汗が混ざった匂いが鼻を突く。
「ちょっ、離して──」
「少しくらいいいだろ。お茶に付き合ってくれよ」
腕を掴まれた。力が強い。この体では振りほどけない。路地の奥──人通りのない方向へ引きずられそうになる。
「いやっ、放して!」
声を上げた瞬間──
「その手を離せ」
冷たくて低い声が、男の背後から聞こえた。
男の体がぴくりと硬直する。それもそのはず、男の背中に細身のナイフの切っ先が押し当てられていたのだ。
「な、なんだてめえ!」
「離せと言った。次はない」
クルトだった。
いつもの無表情で、男の背後に立っている。声に感情はなく、ナイフを持つ手は微動だにしない。その眼差しだけが、殺意に限りなく近い色を帯びていた。
男は一瞬だけ虚勢を張ろうとしたが、クルトの目を見て本能的に悟ったのだろう。こいつは本気だと。手を離して、舌打ちしながら走り去った。
「クルト……」
俺は壁に手をついて、荒い呼吸を整えた。手足が震えている。怖かった。村人の頃だって危険な目には何度も遭ったけど、女の体で男に掴まれた時の恐怖は質が違う。体格差が絶望的で、力では絶対に勝てないという無力感が直接本能に刺さるのだ。
「……大丈夫か」
クルトが短く聞いた。ナイフはもう鞘に収まっている。
「う、うん。ありがとう。でも、どうしてここに……」
クルトは少しだけ目を逸らした。
「別に。たまたまだ」
「たまたま……?」
この路地に、この絶妙なタイミングで? たまたまにしては出来すぎている。となると。
「もしかして、ずっと付いてきてた?」
「…………」
クルトは答えなかった。答えないということは、肯定だ。
「無防備すぎる」
ぼそりと吐かれた言葉には、僅かだが苛立ちの色がある。
「一人で歩くなとは言わない。だが、最低限の警戒くらいしろ。声をかけてくる奴の二割は善意、三割は下心、残りは犯罪者予備軍だと思え」
思った以上に実践的なアドバイスだった。
「それと──」
クルトが言葉を切って、俺を見た。いつもの無関心な目ではなく、なにかを確かめるような目つき。
「お前、歩き方が変わったな」
「う、宿の女将に教わったんだ。女の歩き方」
「あぁ……だから違和感があったのか」
クルトが、呟くように言った。
「前の歩き方は──」
途中で飲み込んだ。
「なんでもない。気をつけて帰れ」
それだけ言って、クルトは路地の影に消えた。嘘みたいに一瞬で気配がなくなる。シーフの隠密能力は本当に規格外だ。
──前の歩き方は、なんだ。自然だった? 見慣れていた?
まさかクルトが──俺の、エミールの歩き方を覚えていた?
だとしたら。女になった俺のぎこちない男歩きに、元の俺の面影を見出していた可能性がある。
ぞわりと背筋を走るものがあった。それは恐怖じゃない。正体がバレるかもしれない恐怖より先に、「クルトが俺のことをちゃんと見ていた」という事実に、胸が熱くなる感覚のほうが強かった。
あいつ、俺のことなんか眼中にないと思ってたのに。




