18.淑女の仕草を学ぶ俺
翌朝、宿の食堂で朝食を食べていると、カウンターの向こうからこちらをじっと見つめる視線を感じた。
見上げると、宿の女将が腕を組んで立っていた。
フィーネ。確か、そんな名前だ。二十代後半くらいの切れ長の目をした女性で、背が高く、すらりとした体つきをしている。ウェーブのかかった黒髪を乱暴にひとつに束ねていて、前髪の隙間から覗く瞳は冷ややかだ。服装は飾り気のない白シャツに黒いロングスカート、腰にはエプロン──それだけなのに、妙に色気がある。必要以上に着飾らないところが、かえって肢体の美しさを際立たせていた。
──いや、知っている。俺はこの人を知っている。
エミールの頃、この宿には何度か泊まったことがあった。その時からこの女将はいた。愛想がなくて口が悪くて、冒険者相手にもまったく媚びなくて。けれど部屋は掃除が行き届いて衛生的だし、飯は量も多くて美味いし、なにより仕事が完璧だった。
そして俺は──男だった頃の俺は──この女将を夜中にこっそり、おかずにしたことがある。
あの冷たい目で見下されたい、という倒錯的な欲望が、俺の妄想を掻き立てたのだ。完全な変態だという自覚はある。あの頃はそういう発散の仕方しかできなかったんだよ。許してくれ。
その女将が、今まさに俺を──俺の全身を──値踏みするように眺めている。
「あんた、昨日入った新入りだろう」
フィーネの声は低くて素っ気なかった。思い出した。この声だ。この声にもゾクッとしたんだった──いやいや、今は女なんだから。変な方向に思考を走らせるのはよそう。
「は、はい。エミって言います」
「そう。この宿に泊まってる客で、あんたが一番目立つわね」
冷たい目が、俺の足元から頭のてっぺんまでをゆっくりとなぞった。品定めとも観察とも取れる視線だ。
「歩き方」
「え?」
「歩き方が、なってない」
フィーネが俺の前に来て、指を一本立てた。
「あんた、その胸と腰と顔で街を歩いてるのに、足の運びが完全に男よ。歩幅が広いし、重心が高いし、腕の振りが大きすぎる」
ぎくりとした。まさか歩き方で見破られるとは。
「男のふりをしていのか、それとも本当に歩き方を知らないのかは知らないけど──どっちにしろ、あの顔でその歩き方は不自然すぎて目立つ。しかも危ないね」
「危ない……?」
「この町には冒険者崩れのチンピラがうろうろしてるの。あんたみたいな上玉が隙だらけで歩いてたら、すぐに目を付けられるわ。山賊に絡まれたでしょう、もう」
どうしてそれを知っているのかと思ったが、アルたんたちから聞いたのだろう。宿の女将は情報通だ。
「あたしが教えてあげる」
フィーネがそう言い切った。提案ではなく、宣告だった。
「え、いいんですか?」
「いいも悪いもない。うちの宿に泊まってる女が変な歩き方で不審がられたら、宿の看板に傷が付くでしょ」
さっぱりした物言いに、温かみは欠片もない。けれど、断る理由もなかった。実際、女の所作なんてまったくわからないのだ。
「まず立って。背筋を伸ばしなさい」
言われるがままに立ち上がる。
「肩を落として。力を抜く。あんた、肩に力が入りすぎ」
フィーネの手が俺の肩に触れた。ひんやりして、細長い指だ。ぐっと肩を押し下げられる。
「腰をもう少し入れて。胸を張るんじゃなくて、骨盤から立つイメージ」
腰に手を回されて、ぐいっと矯正された。フィーネの体が近い。シャツの隙間から白い鎖骨が覗いていて、洗いたてのいい匂いがした。
こんなに近くで彼女の顔を見たのは、男の頃も含めて初めてだ。清潔感のある端正な顔立ちで、唇は薄くて冷たそうだけど形は綺麗で──。
「なに赤くなってるの」
フィーネの冷ややかな声で我に返った。
「あ、いえ、なんでも……」
「歩いてみて。この部屋の端から端まで」
食堂の端まで歩いてみせた。フィーネは腕を組んで目を細め、しばらく無言だったあと、
「論外」
一言で切り捨てられた。
「歩幅が広すぎる、半分にして。足は一直線上を置くイメージで。腕はほとんど振らない。視線は正面、少し遠くを見るように。腰から下で歩くの、上半身は動かさない」
言われた通りやってみるが、これが滅法難しい。歩幅を狭めると歩きにくいし、腕を振らないとバランスが取りにくい。一直線上に足を置こうとすると腰がくねって、ぐらついてしまう。
「違う。もっと柔らかく。あんた、腰が硬いのよ」
フィーネが近づいて、俺の腰に両手を置いた。後ろから、密着するように。
「こう。左足を出すときに右の腰を少し前に送る。逆も同じ。上半身に力を入れずに、下半身の動きに自然に付いていかせるの」
腰を掴まれて、半ば強制的に歩かされる。フィーネの胸が俺の背中に触れている気がする。気のせいかもしれない。気のせいだと思いたい。そうしないと下半身が反応してしまう──って反応するものはもうなかったんだった。
「ほら、そうそう。悪くないじゃない」
何往復かさせられると、少しだけコツが掴めてきた。確かに、腰主導で歩くと上半身がぶれにくい。しかもなんというかこの歩き方をすると、自然と仕草全体が柔らかくなる気がする。
「次、座り方」
椅子に座らされる。
「膝を閉じて。スカートの裾を押さえてから座る。背もたれには寄りかからない。浅く腰かけて、背筋は真っ直ぐ」
窮屈だ。男の頃なんて、足を広げて背もたれに全体重を預けるように座っていたのに。
「あと、物を取るとき。あんた、前屈みになるでしょ」
「え、普通そうじゃないですか?」
「普通じゃない。腰を折るんじゃなくて、膝を揃えて曲げる。じゃないと、その胸をあの男どもに見せつけることになるわ」
あぁ……そうか。谷間が見えるのか。盲点だった。
「いい? あんたはその体を持ってる限り、常に見られてるの。それを意識しなさい。守りの所作を身に付けないと、隙だらけの美人なんて餌を撒いてるのと同じよ」
フィーネの言葉は厳しいが、的確だった。俺は男の頃から、自分の外見を気にしたことなんてほとんどなかった。ろくに顔を洗わない日もあったし、服装だって動きやすければなんでも良かった。けれどこの体は──好むと好まざるとにかかわらず──人の目を集める。それに対応した振る舞いを身に付けないと、自分が危険に晒される。
「基本は叩き込んだわ。あとは実践よ。少し外を歩いてきなさい」
「えっ、一人で?」
「一人で。他の誰かと一緒だと、そいつに頼って気が緩むから」
フィーネは俺の背中を軽く押して、宿の玄関に追いやった。
「あたしに教わったこと、全部意識して歩くの。二時間くらい町を一周してきて。戻ったら採点するから」
「は、はい……」
追い出されるように宿を出た。扉が閉まる直前、フィーネの声が追いかけてきた。
「あんた、綺麗な顔してるんだから。もったいないことしないで」
その言葉の温度が、ほんの少しだけ──本当にほんの少しだけ──普段の冷たさとは違った気がした。向けられた視線も、むしろ逆になんか熱っぽい絡みつくような感じがしたような……? そう思うと俺の肩や腰を触る手つきも、いやらしかったように思えて来る。
男の頃の俺は女将さんに欲情していたけど、今の俺の体は女なんだから女将さんがそんな感情を抱くわけはないはずだから──いやいや、なに考えてるんだ俺は。
俺は、自分の妄想から逃げるように宿を出た。




