15.目覚める俺
目を開けて最初に見えたのは、天井の自然光だった。
あの広間にいるのか。横になっているらしい。硬い石の床だが、頭の下にはなにか柔らかい物が敷かれていた。アルフレッドが畳んだマントを枕にしてくれたのか。
体が重い。指一本動かすのにも、信じられないほどの気力が要る。全身の魔力を搾り取られたような疲労感だった。
「あ、気がついた」
頭上から声がした。見上げると、クルトが壁に寄りかかって立っている。俺のすぐ近くだ。
「……クルト?」
「おい、起きたぞ」
クルトが声を投げると、急に周囲が騒がしくなった。
「エミ! よかった……!」
真っ先に駆け寄ってきたのはアルたんだった。片腕に応急処置の包帯を巻いている。膝をついて俺の顔を覗き込む目が、安堵に満ちていた。随分と心配してくれていたみたいだ。
「……どのくらい気を失ってた?」
「三十分くらいだ。ゲオルクが診たところ、魔力の急激な消耗による一時的な昏倒で、命に別状はないそうだ」
三十分か。その間、みんなここで待っていてくれたのか。
「はぁ……心配させてごめん」
「謝るな。おまえが──いや、君が俺たちを救ったんだ」
アルたんの声は真剣だった。勇者の目だ。俺を見ているその目には、昨日のような男女の恋愛的な動揺ではなく、戦場で命を預けた者への純粋な感謝と敬意が宿っている。
少し、胸が熱くなった。
「まったくもって大した方ですな」
ゲオルクが近づいてきた。彼も片膝をつき、俺の額に手をかざして魔力の回復状態を診ている。今度は、本当に治療目的だけみたいだ。さすがに新入りがぶっ倒れた直後にセクハラする度胸はないらしい。
「魔力の流れは安定しておりますが、当面は大きな術の行使は控えたほうがよろしいでしょう。器が空に近い状態です」
「器?」
「魔力という酒を注ぐ器──つまり魔力容量ですな。エミ殿の器は途方もなく大きいようですが、今は底が見えておりますぞ」
なるほど。空になった器に魔力が戻るのを待たないといけないということか。
「にしても……」
ゲオルクが、珍しく畏怖のこもった声で呟いた。
「あれは全属性同時展開──いわゆる《万象統合魔術》でしたな。拙僧も文献でしか見たことがございませぬ。伝説の大魔術師しか使えぬとされる、幻の術式ですぞ」
「……わたしにも、なにが起きたのかよくわかってないんです」
正直な答えだった。体が勝手に動いて、知らない呪文が口を突いて出て、気がついたら五色の光がキメラを飲み込んでいた。まるで自分じゃない誰かが操っていたみたいだ。……いや、実際そうなのかもしれない。あの体の元の持ち主が遺した、本能のような魔術の記憶。
「ははっ、とにかくすげえのは間違いない! あの化け物をアレだぜ、ドカーンだぜ! ははっ」
カールが擬音語だけで戦闘を総括した。語彙力に問題はあるが、率直な賞賛なのは伝わってくる。こいつの単純さには、救われることがある。
「カール、怪我は?」
「ははっ、この程度かすり傷だろ。ゲオルクが治してくれたしな。ははっ」
戦斧の柄にヒビが入っていることには触れないのか。次の戦闘までに修理しないと、折れるぞ。
「……座れるか」
不意に、低い声。クルトだった。
さっきから壁際に立っていたクルトが、水筒を差し出していた。
「あ……ありがとう」
起き上がって受け取り、口をつけた。冷たい水が喉を潤して、少しだけ体に力が戻った気がする。クルトは無言で壁に戻った。
けど、今のは──クルトのほうから動いてくれた。水を渡すなんて、些細なことかもしれないけれど。エミールだった頃の俺には、一度たりともなかったことだ。クルトとはろくに会話もしなかったし、俺のことなんて眼中にないと思ってた。
「クルト」
呼び止めると、クルトが肩越しにこちらを見た。
「さっきの戦い、蛇の目を射抜いたの、すごかったね」
「……別に。やることやっただけだろ」
クルトは素っ気なく答えて、弓の弦をぱちんと弾いた。
「お前のほうがよっぽどだろ。……あれは、相当な」
最後の方は独り言みたいに小さくなって、聞き取れなかった。でも、クルトが俺に対してこれだけの長さの言葉を発したのは初めてだ。
そして──気になるのは、リーゼだった。
少し離れた場所で、壁に背を預けて座っている。目は覚めているようだ。ゲオルクの治癒のおかげで体は回復しているはずだが、顔がこちらを向いていない。
俺は重い体を引きずるようにして立ち上がり、リーゼの隣に歩いていった。
「リーゼ」
「…………」
返事がない。壁の文様を見つめたまま動かない。
その横に、さっきと同じように腰を下ろした。
「……怪我、大丈夫?」
「見たらわかるでしょ。ゲオルクに治してもらったわ」
声は低いけれど、震えてはいなかった。怒ってもいない。ただ、その翡翠の瞳にはさっきまでの炎がなく、静かな湖面のように凪いでいた。
「あたし、何もできなかった」
リーゼが、ぽつりと言った。
「あのキメラの雷撃を防げなくて、倒れて。あんたが一人で片付けた。あたしがいなくても、結果は同じだった」
「そんなことない」
即座に否定した。
「リーゼがバシリスクを倒してなかったら、みんなもっと消耗してた。ゴブリンの時だって封印の時だって、リーゼのおかげでパーティーが前に進めたんだ」
「慰めなんていらない」
「慰めじゃないよ」
俺は、言葉を選んで続けた。
「わたしが使った魔術は、自分で制御できたものじゃない。みんなが危ないって思った瞬間に、体が勝手に動いただけ。再現できるかもわからない。もし次の戦いで同じことが起きなかったら、わたしはまたなにもできない足手まといだよ」
これは、嘘じゃない。本当に再現できるかわからないのだ。あの魔術を意図的に使えるようになるまでには、相当な訓練が必要だろう。
「でもリーゼは違う。三年かけて積み上げた力は、裏切らない。いつでも、確実に使える。それはわたしにはないものだよ」
リーゼはしばらく黙っていた。横顔が見えた。目が少しだけ潤んでいたけれど、瞬きで押し殺した。
「……あんたさ」
「うん?」
「なんか、変な人ね」
リーゼの声に、わずかに温かみが戻っていた。
「普通、自分のほうが強いってわかったら、もっと偉そうにするでしょ。なのにあんたは卑下して、あたしのこと持ち上げて……変よ」
「変かな」
「変よ。すっごく変」
リーゼが、くすっと笑った。さっきの壁際での小さな笑みよりも自然で、翡翠の瞳が柔らかく細められた。
「でも──嫌いじゃない。その変なところ」
それだけ言って、リーゼは立ち上がった。ローブの埃を払って、杖を拾い上げる。
「次は、あたしも最後まで立ってる。絶対倒れない。あんたの隣で、最後まで戦ってみせるから」
振り向かずにそう言って、出口に向かって歩き出した。
その背中は、遺跡に入る前より少しだけ、大きく見えた。




