第9話 父の指
雨が居間の窓を叩いていた。
六月の終わりの月曜日だった。雨は朝から一度も止まずに降り続いて、学校から帰るころには傘の先から靴の中まで、全部が濡れていた。窓の外の空き地は草の根もとまで水が溜まって、池のようになっている。
もう三日、塀の前に立てていなかった。
居間のカーペットの上に三号球を置いた。白に青い模様のボールは、父と買ってから一か月で、すっかり土の色がしみついていた。縫い目のあいだが薄く茶色い。
右足の裏をボールの上に乗せる。前へ転がす。後ろへ引く。足の裏の真ん中で、ボールの丸さを感じながら。前、後ろ、前、後ろ。それから横。右から左へ、足の裏で撫でるように転がして、左足の内側で受ける。今度は左の足の裏で、左から右へ。
蹴らなくても、ボールには触れる。触れた回数だけ、足はボールを覚える。外で蹴れない日にも、触る回数を減らさなくていい。
カーペットの毛が、ボールの下でさわさわと鳴った。
「さく」
台所から母の声がした。
「家の中で、蹴らないでよ」
「けってない。ころがしてるだけ」
「転がしてても、そのうち蹴るでしょ」
母はエプロンで手を拭きながら居間をのぞき、テレビの横の棚をちらりと見た。棚の上には、写真立てが一つ置いてある。
入学式の朝の写真だ。四月の終わりに母が現像に出して、いちばん大きく引き伸ばしたものだった。門の前に、ランドセルを背負った俺が立っている。目は真っ赤で、口がへの字に曲がり、頬に涙のあとが光っている。そして、レンズを見ていない。レンズより少し上を、じっと見上げている。
カメラを構えた父の顔を見ていたのだ。
母はこの写真を気に入っていて、来る人来る人に見せた。いい顔でしょ、この子ったら、入学式の朝にわんわん泣いて。そう言って笑う。父はこの写真について、何か言ったことが一度もなかった。
「写真立て、割ったら、怒るからね」
「……ころがすだけ。やくそく」
「約束ね」
母は台所に戻りかけて、ふと足を止めた。
「それ、何の練習なの。足でころころするの」
「ボールに、なれる練習」
「なれる?」
「足が、ボールのこと、おぼえるように」
母は首をかしげて「ふうん」と言い、それから思いついたように付け足した。
「ほかには?」
ほかには。少し考えて、頼んでみることにした。
「……おかあさん、ちょっと、てつだって」
母を俺の背中側に立たせた。俺はカーペットの上で、ボールを足の裏で転がしつづける。母は後ろで、片手の指を何本か立てる。俺はボールを転がしながら首だけで振り返って、指が何本かを言う。
「それだけ?」
「それだけ。ボール、ころがしたまま、うしろ、みる練習」
受ける前に、どこに誰がいて、どこが空いているかを見る。画面の中の上手い選手ほど、ボールが来る前に何度も首を振っていた。六歳の体に今いちばん早く入れられるのは、たぶんこれだった。
「じゃあ、いくよ」
母が背中で言った。
ボールを前へ転がす。引く。そのあいだに、首を振る。
「……さん」
「せいかい」
前へ。引く。首を振る。
「いち」
「せいかい」
母の声がだんだん楽しそうになってきた。指を出すのが速くなり、出したと思ったらすぐ引っこめるようになる。首を振るのが遅れて、見えなかった。見ようとすると足の裏からボールが逃げて、カーペットの上を転がっていく。
「はい、ざんねん」
「……もういっかい」
テレビでは夕方のアニメが始まっていた。小さな車がコースを走る話だ。同じクラスの男の子たちが、毎朝そのアニメの話をしている。母はときどきそちらに気を取られて、指を出すのを忘れた。そのたびに俺は「おかあさん」と言い、母は「はいはい」と笑った。
雨はまだ止まなかった。窓を伝う雨粒が、外の街灯の光でぼんやりと白く光りはじめていた。
◇
玄関の戸が開く音がしたのは、七時を少し過ぎたころだった。
「うわ、ひどいな」
低い声が聞こえた。父だった。
居間の戸が開いて、作業着の父が顔を出した。髪がぺたりと額に張りつき、肩から胸にかけて作業着の色が濃く変わっている。駐車場から玄関までのほんの数歩で、これだけ濡れたのだ。母が「あら、たいへん」とタオルを取りに行った。
父は居間の入口で立ち止まった。カーペットの上で、俺がボールを足の裏で転がしている。その後ろに立っていた母は、タオルを取りに行ったきりだ。父の目が、ボールと俺の背中と、さっきまで母が立っていた場所を順番に見た。
俺は足を止めた。
「……指、だしてもらってた。うしろ、みる練習」
言い訳みたいな言い方になった。父は答えなかった。
母がタオルを持って戻ってきた。父はそれを受け取って、頭をごしごしと拭いた。それからタオルを首にかけたまま、しばらく居間の入口に立っていた。
父は鞄を床に置いた。カーペットの端で一度足を止め、片足ずつ濡れた靴下を脱ぐ。カーペットを濡らさないように、ということらしかった。脱いだ靴下を丸めて鞄の上に置くと、裸足で居間に入ってきて、さっき母が立っていた場所に黙って立った。俺の背中側に。
母が、あら、という顔をした。それから黙って台所に戻っていった。
背中に父の気配があった。母よりずっと大きくて、まだ雨の匂いがする。振り返らなくても、そこに父が立っているのが分かった。
ボールを前へ転がした。引いた。首を振った。
父の右手が指を二本立てていた。
「……に」
父は、正解とも違うとも言わなかった。ボールに目を戻すと、背中で父の手が動く気配がした。
前へ。引く。首を振る。指が四本。
「よん」
前へ。引く。首を振る。見えなかった。振り返ったときには、父の手はもう下りていた。速い。母のときよりずっと速い。
「……もういっかい」
前へ。引く。首を振る。一本。今度は見えた。見えた瞬間に、もう手が下りていく。
「いち」
父は出す速さを変えはじめた。ゆっくり出して、長く見せるときもある。ぱっと出して、すぐ引っこめるときもある。出すかと思って振り返ると、まだ出していないときもある。俺は振り返る間を、父の手に合わせて変えなければならなかった。ボールから目を離す時間を短く。首を振るのを速く。足の裏は止めずに。
頭で考えていたら間に合わない。考えるのをやめて、ただ振り返った。
「さん」
「ご」
「……に」
何回目だったか、分からない。カーペットの毛の上で、ボールは止まらずに転がりつづけていた。足の裏がボールの丸さを少しずつ覚えていく。首を振るたびにこわばっていた首筋が、だんだんほぐれていく。
振り返った瞬間、父の顔が見えた。父は指を出しながら、俺の足もとと目を交互に見ていた。その鼻から、ふっと短い息が抜けた。笑ったのか、何か言おうとしたのか、分からないくらいの息だった。すぐに、いつもの顔に戻った。
「……速いな」
独り言のような声だった。俺に言ったのか、自分に言ったのか分からない。首の振り方が速いのか、ボールの転がし方が速いのか、それとも何か別のことが速いのか。
台所から母が呼んだ。
「ごはんよ。お父さん、着替えてきて」
父はもう一度だけ指を出した。三本。俺が「さん」と言うと、首のタオルを取って居間を出ていった。
台所の入口で、母が菜箸を持ったままこちらを見ていた。いつから見ていたのだろう。目が合うと、母はくるりと背を向けた。鍋のふたがかたかたと鳴っていた。
俺は足の裏にボールを乗せたまま、しばらく動けなかった。背中に、父が立っていた場所の温かさが残っている気がした。
◇
七月に入って最初の土曜日は、夕方に雨が止んだ。
第一土曜で、学校は昼まであった。帰り道もずっと降っていた雨が三時ごろにふっと止んで、雲の切れ間から薄い日が差しはじめた。明日は別の少年団との練習試合がある。
俺は塀の前に立った。駐車場のアスファルトはまだ濡れて黒く光り、塀のブロックも湿って色が濃い。父の車は停まっていた。塀まで三歩。
ボールを置いた。左足を横に。こぶし一つぶん。つま先は塀のほうへ。蹴った。
ぽん、と湿った音がした。ボールは塀に当たって、まっすぐ戻ってくる。
右足の裏を出した。
ボールは、足の裏に吸いつくように止まった。
止まった。足の裏の真ん中で、ボールの丸さをちゃんと感じた。カーペットの上で何百回も転がした、あの丸さだった。来たボールの速さに、足の裏が勝手に合わせていた。
もう一度蹴った。戻ってきた。足の裏を出した。止まった。
三度目は、右に逸れたボールが足の裏の端に当たって跳ねた。四度目は、また止まった。五度目も。
頭より先に、足が知っていた。雨の居間で、母の指と父の指を見ながら転がしつづけたボールのことを、足の裏が覚えていた。
春の昼休みの空振りを思い出した。足が知らない、と思った、あの夕方。
足は、少しずつ知りはじめている。
塀を見ると、丸い跡が同じあたりに重なっていた。五号球のときのように、あちこちに散らばってはいない。俺の腰の高さのあたりで、灰色のブロックに薄い茶色の輪がいくつもいくつも重なって、一つの大きなしみのようになっていた。
蹴って、止める。蹴って、止める。塀のほうから、ぽん、という音が規則正しく返ってくる。ときどき止めそこなって、ボールがアスファルトの上を転がっていく。追いかけて拾い、戻ってくる。
何十回目かで、俺は手を止めた。どこかで音がした。
じい、と細くかすれた音。耳を澄ますと、もう一度聞こえた。じいいい、と、今度は少し長く。空き地の向こうの、電柱の脇の木のほうからだった。
蝉だった。今年初めて聞く蝉の声だ。雨の止み間のわずかな日差しの中で、一匹だけが、まだ慣れない声で鳴いていた。
雲の切れ間が少しずつ広がっていく。濡れたアスファルトが日を受けて白く光りはじめた。
明日の試合のことを思った。団子の外で待っていれば、ボールは来る。来たボールを、今度は止められるかもしれない。止めて首を振って、空いているところを見られるかもしれない。
俺はボールを足もとに置いて、もう一度蹴った。ぽん、と戻ってきたボールは、足の裏でぴたりと止まった。




