第8話 なんで、そこにいるの
前の晩に降った雨で、校庭の土は黒っぽく湿っていた。
朝のテレビが、昨日梅雨に入ったと言っていた。空は低い灰色で、雨は止んでいるのに空気が肌にまとわりついてくる。校庭のあちこちに浅い水たまりができていて、紅白戦の前に上級生がトンボで水を端へ押しやっていた。それでも、走るたびに靴の裏に泥がつき、ボールは水を吸って重くなった。
あの試合から二週間がたっていた。俺は、まだ団子の外に立っている。
監督に「いらん」と言われた次の日曜は、言われたとおりボールに行ってみた。団子の中は、思っていたよりずっとひどかった。前が見えない。ボールも見えない。誰かの足、誰かの肘、誰かの背中。触れたのは二回だけで、どちらも誰かが蹴ったボールが俺のすねに当たっただけだった。
外も見えなかった。団子の外に誰かが立っていても、中からは、いないのと同じだった。中の子はみんな、何か叫んでいた。こっち、おれの、いたい。俺は、何を叫べばいいのか分からなかった。
それで、外に戻った。監督が二年生のほうを見ているあいだだけとか、団子が向こうにあるときだけとか、自分なりに加減はした。正しいと思うことをやめる気にはなれない。かといって、正面から逆らう度胸もない。四十年生きてきて、やっていることは、怒られないように様子をうかがう子どもと同じだった。
紅白戦の途中だった。団子は校庭の向こう側で、泥をはね上げながら左右に揺れていた。俺はそこから七歩ほど離れた、右の少し後ろに立っていた。
「ねえ」
隣から声がした。
ひかりだった。いつのまにか団子から抜けてきたらしく、膝から下が泥で茶色くなっている。後ろで一つに結んだ髪が、湿気でふくらんでいた。ひかりは俺の顔と団子と俺の足もとを、順番に見た。
「なんで、さくくんは、いつもそこにいるの」
いつも、と言われて、どきりとした。見られていたのだ。
「……ボールが、来るから」
「くるの?」
「うん。みんなのとこから、こぼれて、こっちに来る」
ひかりは団子のほうを見た。団子はちょうど左のほうへ流れていくところで、ボールは一向にこちらへ来そうになかった。
「こないよ」
「来ないときもある」
「こなかったら?」
「……来るまで、待つ」
「じゃあ、なんで、いるの」
なんで。陸にも同じことを訊かれた。あのときは、答えにならない答えしか返せなかった。今度も、頭の中にはいくらでも理由があるのに、六歳の口から出せる形にならない。来るから待つ。来なくても待つ。それはひかりにとって、理由になっていないのだろう。俺自身にも、うまく理由になっていない気がした。
ひかりは俺の答えを待たなかった。ふうん、と一度だけ言うと、俺の隣にすとんと立った。俺と同じように団子のほうを向いて、両手を腰に当て、ちょっと背伸びをするようにして。
「なにしてるの」
「さくくんの、まね」
ひかりはまじめな顔で団子を見ていた。
「ボール、くるんでしょ。みてる」
俺は笑いそうになるのをこらえて、団子のほうを見た。
団子がこちらへ寄ってきていた。
誰かが蹴りそこねた。泥を吸ったボールが、団子の端から重たそうに転がり出てくる。こっちだ。右の、少し後ろ。俺の立っているところより、ほんの少しだけ左。
ひかりの真正面だった。
「わっ」
ひかりは目を丸くした。転がってきたボールを、えいっ、と思い切り蹴る。ボールは泥をはね上げて斜めに飛んでいき、誰もいないところへ転がっていった。
ひかりは自分の泥だらけの靴を見下ろし、それから顔を上げて俺を見た。
「ほんとに、きた!」
前歯が二本、大人の歯に生え変わりかけている。その歯を全部見せて、ひかりは笑っていた。きた、きた、と二回言って、その場でぴょんと跳ねる。ボールがどこへ行ったかは、ちっとも気にしていなかった。
「さくくん、すごい。ほんとに、くるんだね」
俺は何も言えなかった。説明は何一つ伝わっていない。団子の形も、こぼれる理由も、外が空く仕組みも。ひかりはそんなことは何も聞かずに隣に立ってみて、本当に来るかどうか自分で確かめた。そして、来た。だから笑っている。
来なかったら、ひかりはたぶん「こないじゃん」と言って、団子へ戻っていっただろう。それだけのことだ。それだけのことが、俺にはずっとできなかった。
「ひかり! ボール!」
団子のほうから誰かが叫んだ。ひかりは「いま、いくー」と返事をして、泥の上を駆けていった。途中で一度だけ振り返って、もう一度歯を見せて笑った。
◇
練習が終わると、また雨がぱらつきはじめた。
母は今日は当番ではなく、迎えにも来ていなかった。若宮小の子は歩いて帰り、別の学校の子は親が車で迎えに来たり、自転車で帰ったりする。俺は水筒を肩にかけて校門を出た。
フェンス沿いの道を歩きはじめて、すぐに気がついた。後ろに誰かいる。
振り向くと、北村岳だった。三歩ほど後ろを、うつむいて歩いている。傘は持っていない。坊主に近い短い髪に、細かい雨粒が光っていた。
俺が足を止めると、岳も止まった。
「……岳くん、こっち?」
「……うん」
岳の学校は若宮小の東、用水路を越えた先にある。田んぼの一本道は、途中まで同じ方向だった。
並んで歩いた。岳は何も話さない。俺も、何を話せばいいのか分からなかった。父と二人きりの車の中を思い出した。六歳の子どもと、六歳のふりをした四十歳が、並んで黙って歩いている。
用水路の脇の道に出ると、水の音が大きくなった。昨日からの雨で水かさが増え、茶色く濁った水がコンクリートの壁に当たりながら勢いよく流れている。アスファルトは濡れて黒く光り、ところどころに雨に誘われて這い出したミミズがいた。
岳の運動靴は泥だらけだった。白かったはずの布が、つま先から足首まで茶色に染まっている。左のつま先には小さな穴があいていて、そこから靴下の灰色がのぞいていた。少し大きいのか、歩くたびにかかとがぱかぱかと浮いた。
岳は道の小石を一つ、つま先で蹴った。小石は俺の前を斜めに転がって、用水路の縁で止まった。岳は拾いに行くわけでも、もう一度蹴るわけでもなく、それを見ていた。
「岳くんは、なんで、サッカーはいったの」
訊いてから、自分でも驚いた。沈黙に耐えられなかったのかもしれない。
岳はしばらく黙っていた。答えないのかと思ったころ、ぽつりと言った。
「……おかあさんが、からだ、つよくなるからって」
「そっか」
「ぼく、すぐ、つかれるから」
ランニングの二周目で座りこんだ岳の顔を思い出した。もういい、という顔。あれは、なまけていたのではなかったのかもしれない。
また黙って歩いた。雨が少し強くなった。用水路の水音が、二人のあいだの沈黙を埋めていた。
田んぼのほうから蛙の声が聞こえてきた。一匹が鳴くと、あちこちから応えるように何匹も鳴く。植えたばかりの苗が水面から細い緑の先をのぞかせていて、雨粒が落ちるたびに輪が広がっては消えた。
岳が蛙の声のほうをちらりと見た。俺も見た。それだけで、また前を向いた。話すことはなかったが、気まずいとは思わなかった。少なくとも俺は。岳がどう思っているのかは分からない。
田んぼの一本道が二つに分かれるところまで来た。右へ行けば俺の家。左へ行けば用水路を渡る小さな橋があって、その先が岳の家のほうだ。
岳が立ち止まった。橋のほうを向いたまま、言った。
「みかみくんも、へた?」
雨の音にまぎれそうな声だったのに、はっきり聞こえた。
へた。頭の中に、いくつもの答えが浮かんだ。下手だよ。今はね。でも、すぐに上手くなる。やり方は分かっている。体が追いついていないだけだ。二十二年後には——
どれも言えなかった。
岳は俺を見ずに、橋の向こうを見ていた。ランニングで座りこんだときの横顔だった。答えを期待していない顔。どうせ、と思っている顔。
四月の昼休みの空振りを思い出した。五月の試合で、足の下を抜けていったボール。監督の「いらん」。
「……うん」
岳がこちらを向いた。坊主頭の下の細い目が、少しだけ大きくなる。驚いたような顔だった。それから、その顔がふっとほどけた。
「ぼくも、へただから」
それだけ言うと、岳はくるりと背を向けて、橋のほうへ歩いていった。ぱかぱかと浮くかかとで、濡れたアスファルトを踏みながら。一度も振り返らなかった。
俺は分かれ道に立ったまま、その背中を見ていた。胸の奥が温かかった。
岳は俺を、下手でボールを止められなくて監督に叱られる、同じ一年生だと思ったのだろう。仲間を見つけた、と。
そして、その温かさのすぐ下に、冷たいものがあった。
俺は岳と同じではない。体は六歳でも、頭の中には四十年がある。二十二年後に何が起きるかも、どうすれば上手くなるかも知っている。今は下手でも、上手くなる道筋が頭の中にちゃんとある。どうせ、という顔をしていた六歳の岳と、俺は同じふりをした。
うん、と言ったのは嘘ではない。俺は本当に下手だ。それでも、俺の「うん」と岳の「へた」は、重さが違った。
岳の背中が、橋の向こうの雨にけむる田んぼの中に小さくなっていった。俺は濡れた前髪を手でかき上げて、右の道へ歩き出した。
◇
次の日曜も、空は灰色だった。雨は降っていなかったが、校庭の土はまだ柔らかく、紅白戦の団子はいつもより重たそうに動いていた。泥がはね、誰かが転び、転んだ子に誰かがつまずいてまた転ぶ。
俺はいつもの場所に立っていた。団子の外の、右の少し後ろ。
ボールは来なかった。団子はずっと左のほうで揺れている。監督は二年生に何か怒鳴っていて、こちらを見ていなかった。
足音が近づいてきた。振り向くと、岳だった。
団子から抜けてきたらしく、肩で息をしていた。膝に泥がついている。岳は俺の二歩ほど手前で止まって、俺の顔と、俺の立っている場所を交互に見た。
「……ここ、いい?」
俺は一拍おいてから、うなずいた。
「うん」
岳は俺の隣に来た。ひかりのように背伸びはしない。両手を体の横にだらんと下げて、俺と同じ方向を向いた。団子のほうを。
二人で、団子の外に立った。ボールはまだ来ない。団子は左のほうで、泥をはね上げながら揺れている。甲高い声が灰色の空に吸いこまれていく。
岳がちらりと俺を見た。俺もちらりと岳を見た。目が合うと、岳はすぐに団子のほうへ顔を戻した。
岳の息が、少しずつ落ち着いていく。さっきまで上下していた肩が、ゆっくりになった。団子の中では走っても走ってもボールに触れず、押されて蹴られて、疲れるだけだったのだろう。
「……ここ、すこし、らく」
岳がぽつりと言った。俺は笑いそうになった。来るから待つ、という俺の理屈より、ずっと分かりやすい理由だった。
「うん。らくだよ」
「ボール、くる?」
「たぶん。あっちから、こぼれてくる」
俺が団子の右端を指さすと、岳はそちらをじっと見た。来ない。まだ来ない。岳は文句を言わなかった。
それでも、岳は隣から動かなかった。




