第10話 最初の一本
昇降口の脇に、笹が一本立てかけてあった。
金曜日に一年生の各クラスで飾ったものだ。日曜の朝の誰もいない校舎の前で、色とりどりの短冊がぬるい風にくるくると回っていた。ゲームがほしい。ケーキやさんになりたい。おばあちゃんのびょうきがなおりますように。ひらがなばかりの大きくて斜めの字。
その中に、俺の短冊もあるはずだった。
金曜日の教室で、俺は何を書けばいいのか、長いあいだ鉛筆を持ったまま迷っていた。本当の願いは短冊に書けるようなものではなかった。二十二年後のこと。父のこと。書いたところで、誰にも意味が分からない。結局、隣の席の子と同じようなことを書いた。
サッカーが、うまくなりますように。
校庭のほうから甲高い声が聞こえてきた。今日の相手の少年団が、もう着いているらしい。俺は肩の水筒をかけ直して、そちらへ歩いた。
七月の最初の日曜日は、朝から暑かった。
空は、昨日の午後まで降っていた雨が嘘のように晴れていた。九時前なのに、日差しはもう肌に痛い。校庭の土は昨日の雨をまだ含んでいて、日に照らされたところから、湯気のようなものがうっすらと立ちのぼっていた。
相手は赤いシャツの少年団だった。二年生に、体の大きい子が何人かいる。
「今日も、ボールに行け。前へ蹴れ。いいな」
大河原監督はいつものように短く言った。八人ずつ。俺は真ん中の右だった。
水筒を校庭のすみの木陰に置いた。母に頼んで、五月から持ってくるようになった水筒だ。麦茶がたっぷり入っている。練習の途中、ほかの子が飲んでいないときに飲むのは、まだ気が引けた。それでも休憩のたびに、一口か二口は必ず飲むようにしていた。
位置につくと、隣に岳が来た。
何も言わない。ただ、俺の左側に半歩下がって立つ。六月のあの日曜から、紅白戦のたびに岳はそうするようになっていた。
左のほうを見ると、陸が立っていた。
陸は監督に言われた場所を離れて、こちらへ走ってきた。背の高い体をかがめて、俺の顔をのぞきこむ。
「さくくん。そとって、どこ?」
「……え?」
「まえに、いってた。そとのほうが、さわれるって。そとって、どこ?」
五月の練習試合の前に俺が言った、答えにもならない答えだった。陸はそれを、一か月半覚えていたのだ。
俺は、団子ができそうな真ん中より少し左の奥を指さした。
「みんなが、まんなかに、あつまったら……あっちの、ゴールの、ひだりのほう。だれも、いなくなるから」
「わかった」
陸はうなずくと、自分の場所へ走って戻っていった。本当に分かったのかどうかは、分からなかった。
笛が鳴った。
◇
団子ができるまで、三秒もかからなかった。
赤と黄色が校庭の真ん中でぶつかり合い、一つになる。泥はもうほとんど乾いていて、砂ぼこりが白く舞い上がった。その中で蓮の声がいちばん大きく響いている。
俺は外にいた。右の少し後ろ。岳が、その左隣。
団子は右へ左へ、ずるずると動いた。俺はそれに合わせて、立つ場所を少しずつ変えた。団子が右へ寄れば、俺も右へ。団子との距離は、いつも七歩くらい。ボールが逃げてきそうなほうへ、半歩ずつ。
一本目は、蹴り出されたボールが高く浮いて俺の頭を越えていった。追いかけたが、拾ったのは相手の後ろの子だった。二本目は、来る前に赤いシャツの二年生に拾われた。体の大きい、坊主頭の子だった。その子は拾ったボールを、俺の目の前で思い切り前へ蹴った。
汗が目に入った。帽子をかぶってくればよかった、と思った。日差しが頭のてっぺんに当たって、髪の中が熱い。団子の砂ぼこりが、歯のあいだでじゃりっと鳴る。木陰の水筒が遠くに見えた。
「……こない?」
隣で岳がつぶやいた。
「くる。たぶん」
「たぶん」
岳は俺の言葉をそのまま繰り返した。確かめるような、平らな声だった。
団子の向こうで、陸が一人そこから抜けて、左のほうへ歩いていくのが見えた。団子の中で転んだのか、膝の土を払いながら。陸は団子には戻らずに、ゴールの左のほうで立ち止まった。俺が指さした場所だった。
三本目が来たのは、前半の終わりごろだった。
団子の中で蓮がボールを奪われた。奪った赤いシャツの子が前に蹴ろうとして、その足に黄色いビブスの誰かの足がぶつかった。ボールは二人の足のあいだで弾けて、団子の外へ転がり出た。
俺のほうへ。
地面を低く、少し跳ねながら。速い。けれど、塀から戻ってくるボールよりは遅い。
右足の裏を出した。最後の一跳ねが落ちてくるところへ、上からかぶせる。毎日やってきた出し方だった。
足の裏の下で、ボールがまだ少し回ろうとして、止まった。
止めた。俺が、止めたのだ。うれしいと思う暇はなかった。
首を振った。
左を見る。団子はまだ右寄りに固まっていた。ボールがこぼれたことに、まだ半分も気づいていない。その左側が、がらんと空いている。相手のゴールの左。
そこに、陸がいた。
一人だった。団子から離れて、ゴールの左の少し手前に立っている。周りに赤いシャツは一人もいない。相手のゴールキーパーの二年生は団子のほうを向いていて、陸を見ていない。
陸がこっちを見ていた。目が合った。陸の目が大きく開いた。ボール、と言いたげに口が少し開いた。
父の指を思い出した。二本、四本、一本。振り返った一瞬で見る。見たら、もう迷わない。
左足をボールの横に置いた。こぶし一つぶん。つま先を陸のほうへ。
強く蹴らなくていい。遠くまで蹴らなくていい。陸まで二十歩もない。陸の足もとでちょうど止まるくらいの強さで。駐車場で、父が俺に蹴ってくれたように。
右足の内側で、押し出した。
ボールが転がっていった。まっすぐだった。乾いた土を鳴らしながら、陸のほうへ転がっていく。赤いシャツが一人、気づいて走りだした。間に合わない。ボールは陸の右足の前で、少しずつ勢いを落とした。
陸が、蹴った。
止めなかった。転がってきたボールに、そのまま右足を合わせた。つま先に近いところで、少し不格好に。ボールはゴールキーパーの足の横を抜けて、網のない枠の中をころころと転がっていった。
入った。
一瞬、校庭が静かになった気がした。それから、陸がこちらを振り向いた。
腕をまっすぐ伸ばして、俺を指さしていた。人差し指を、まっすぐ俺に向けて。顔は真っ赤で、口が大きく開いて、何か叫んでいた。何を言っているのかは聞こえなかった。黄色いビブスの子たちが、わあっと陸に駆け寄っていく。蓮も走っていった。陸はもみくちゃにされながら、まだ俺のほうを指さしていた。
体の真ん中から、熱いものが湧き上がってきた。叫びたかった。叫ばなかった。代わりに右の拳を、誰にも見えないようにぎゅっと握った。
自分の足で止めて、自分の目で見つけて、自分の足で転がしたボールが、陸の点になった。四月からずっと頭の中にあったことが、今、校庭の上で本当になった。うれしくて、握った拳が小さく震えた。
「矢島ぁ! よし!」
監督の声が響いた。手を叩いている。
陸を囲んだ輪の中から、蓮が一人抜け出してきた。自分の位置に戻る途中で、俺の横を走り抜けていく。すれ違いざま、蓮は振り向かずに言った。
「さく、いまの、ナイス」
それだけ言って、蓮はもうキックオフの位置へ走っていった。
俺は蓮の背中を見ていた。ナイス、と言われた。蓮に。
岳が俺の隣で、ぽかんと口を開けていた。
それから、ゆっくりと俺のほうを見た。何か言いたそうに口を動かしたが、言葉は出てこなかった。代わりに岳は自分の手のひらを見て、それから、そっと俺の背中を一回だけ叩いた。ぽん、と。
キックオフの笛が鳴って、また団子ができた。俺はまた外に立った。右の少し後ろ。岳が、左隣。さっきまでと何も変わらない場所なのに、土を踏む感触まで違って感じられた。
来い、と思った。もう一本、来い。
◇
試合は三対二で負けた。
陸の一点のあと、蓮が一点を取り、そのあと赤いシャツの大きな二年生に三点を取られた。
整列のあと、監督の前に集まった。
「負けは負けだ。ボールに行かないから、取られる。次は、もっと行け」
監督はいつもより少し長く話してから、解散を告げた。子どもたちがそれぞれの水筒や荷物のほうへ散っていく。
俺は木陰の水筒を取りに行った。
後ろから、ぱたぱたと足音が追いかけてきた。ひかりだった。結んだ髪が汗で首筋に張りついている。ひかりは俺の横に並ぶと、歩きながら俺の顔をのぞきこんだ。
「さくくん、なんで、りくくんがいるって、わかったの?」
「……みたから」
「いつ? さくくん、ボール、みてたじゃん」
「とめてから、みた」
「ふうん」
ひかりは自分でも首を振る真似をしてみせた。勢いよく振りすぎて結んだ髪が顔に当たり、「いたっ」と言って笑った。それから「おかあさん、まってるから」と言って、校門のほうへ走っていった。
木陰の水筒は、ぬるくなりかけていた。一口飲むと、麦茶が喉を通って、胸の奥まで落ちていった。
水筒を肩にかけ直したとき、監督と園田さんが話しているのが聞こえた。
「監督、さっきの、三上のパス」
「ん」
「あれ、狙ってましたよね。止めて、ちゃんと見て」
監督は首の笛を指でいじりながら、一つ間を置いた。
「たまたまだ」
「そうですかね」
「一年坊主が、狙って出せるか。たまたま止まって、たまたま矢島がいた。それだけだ」
園田さんはそれ以上言い返さなかった。首をかしげて、俺のほうを見た。目が合うと、細い目をもっと細くして笑った。
たまたまでは、なかった。
それでも、言い返したいとは思わなかった。
今日は、それでよかった。監督がどう思おうと、陸の点は入った。狙って出した一本だと知っているのは、俺と、たぶん園田さんと、それから——
「さくくん!」
振り向くと、陸が走ってきた。
顔はまだ赤い。汗で前髪が額に張りついている。陸は俺の前で止まると、息を弾ませながら、また俺を指さした。
「さっきの、さくくんの、だよね」
「……うん」
「すごい、ぴたって、きた。ぼくの、まえに。とまって、けったら、はいった」
陸は両手で、ボールが転がってきて止まる様子を空中に描いてみせた。それから俺の顔をのぞきこんだ。
「そとにいたら、ほんとに、さわれた」
「さくくん、また、ちょうだい」
「……うん。また」
「やくそく!」
陸はそう言うと、くるりと向きを変えて校門のほうへ駆け出した。フェンスの外で、陸の母親らしい人が手を振っている。陸は走りながら、大きく手を振り返した。
「おかあさーん! ぼく、いれたー!」
陸の背中が日差しの中を遠ざかっていった。腕を大きく振って、跳ねるように。




