第11話 七月二十二日、朝七時半
目が覚めたのは、七時ちょうどだった。
目覚まし時計は鳴っていない。夏休みに入って三日目なのに、体は勝手に七時に起きるようになっていた。九時に寝て、七時に起きる。五月から一日も崩していない。四十年分の頭は最初のうちこそ夜ふかしをしたがったが、六歳の体のほうが先に、この時間に慣れてしまった。
カーテンの隙間から白い光が差しこんでいた。今日も暑くなりそうだった。窓の外で、蝉がもう鳴いている。二週間前に一匹だけ聞いた声が、今では空き地の木という木から、わんわんと押し寄せてくる。梅雨はあの数日後に、あっけなく明けた。
顔を洗って着替え、机の上の自由帳を開いた。五月から、寝た時間と起きた時間を毎日ひらがなと数字で書いている。今日の欄に「おきた 7じ」と書きこもうとして、鉛筆が止まった。
七月二十二日。月曜日。
階段の下からテレビの音が聞こえてきた。大勢の人のざわざわとした声に、興奮を抑えたような実況の声が重なっている。
七時半を回ってから、俺は階段を降りた。
居間の戸を開けると、カーテンを半分開けた窓から朝の光がいっぱいに差しこんでいた。その光の中で、テレビの画面だけが別の時間の色をしていた。
夕方の競技場だった。傾いた日が芝の上に長い影を落とし、その上を黄色いユニフォームと青いユニフォームが走っている。地球の裏側では、まだ昨日の夕方なのだ。画面の隅に、時計と点数が小さく出ていた。
ソファに父が座っていた。
白い半袖のワイシャツを着て、ネクタイはまだ締めていない。今日は午前中に事務所で打ち合わせがあるのだと、昨日の夕食のときに母に話していた。いつもなら、もう玄関で靴を履いている時間だった。父は身を乗り出すようにして、膝の上で両手を組み、画面を見ていた。
アトランタのオリンピックだった。日本と、ブラジル。
知っている。この試合を、俺は知っている。
一度目の人生で、何度も映像で観て、何度も記事で読んだ。二十八年ぶりにオリンピックに出た日本の男子サッカーが、最初の試合で世界でいちばん強い国に一対〇で勝った、のちに奇跡と呼ばれた試合だ。分析の動画を作るために、早送りと巻き戻しで何十回も観た。
でも、その朝のことは、何も知らなかった。
一度目の六歳の夏休み、この朝。俺は二階の布団で昼まで眠っていた。起きてきたときには、父はとっくに会社に行っていて、テレビではワイドショーが朝の試合の結果を大騒ぎで伝えていた。俺はそれを、たぶん見もせずにチャンネルを変えた。
◇
父が俺に気づいた。
「起きたのか」
「……うん」
父は腰を浮かせて、横にずれた。ソファの自分の隣に、子ども一人分の場所ができた。座れ、とも、早く顔を洗え、とも言わない。場所を空けただけだった。
俺はそこに座った。ソファのクッションが父の重さで少し傾いていて、俺の体は父のほうへ軽く寄りかかる形になった。父の腕から、ひげ剃りのあとの石鹸の匂いがした。
画面の中で、黄色いユニフォームが日本のゴールに迫っていた。速い。一人が持って、二人目が走りこんで、三人目がもう次の場所にいる。青いユニフォームはみんな自分のゴールの前に下がって、必死に足を伸ばしていた。
シュートが日本のゴールキーパーの手をかすめて、枠の外へ飛んだ。父が詰めていた息を吐いた。
「……危ねえ」
低い声の独り言だった。
結果を知っている。一対〇。日本が勝つ。後半の途中に一点を取る。その一点は、きれいなゴールではない。ブラジルのゴールキーパーと守備の選手がぶつかって、こぼれたボールを日本の選手が押しこむのだ。そのあとはずっとブラジルが攻め続ける。日本のゴールキーパーが何度も飛びつき、何本かはゴールの枠に救われる。そして、守りきる。
全部、知っている。隣で、父は何も知らずに観ていた。
黄色いユニフォームがボールを持つたびに、父の組んだ手に力が入るのが分かった。青いユニフォームがボールを奪うと、父の背中が前に出る。シュートが外れるたびに、息を吐く。父の体が、画面の中の試合と一緒に揺れていた。
壁の時計が七時四十分を指した。父は時計を見た。それから画面を見た。もう一度、時計を見た。
父が立ち上がった。出かけるのだ、と思った。打ち合わせがあると言っていた。父は、そういうことを守る人だ。
父は玄関ではなく、電話台のほうへ歩いていった。
受話器を取って、番号を押す。指の動きに迷いがなかった。何度も押したことのある番号なのだろう。少し待って、相手が出た。
「あ、三上です。おはようございます。……ええ。すみません、今日、少し遅れます。……いや、ちょっと。……ええ、打ち合わせには、間に合わせますんで。すみません」
受話器を置く、かちゃりという音がした。
台所の入口で、母がフライ返しを持ったまま立っていた。父を見て、「あら」とだけ言った。それから口もとをゆるめて、黙って台所に戻っていった。
父はソファに戻ってきて、さっきと同じように俺の隣に座った。何もなかったような顔で。
俺は父の横顔を見た。
ちょっと、と父は言った。ちょっと、遅れます。その「ちょっと」の中身を、電話の向こうの人は知らない。母は知っている。俺も、知っている。
一度目の俺は知らなかった。父が、サッカーの試合を観るために会社に遅れると電話をする人だということを。
前半が終わり、後半が始まった。
試合はずっと同じ形だった。ブラジルが攻め、日本が守る。日本のボールになっても、すぐに奪い返される。それでも日本は崩れなかった。画面の中の青いユニフォームたちは、汗だくになって何度でも自分のゴールの前に戻っていった。
後半の二十分を過ぎたころだった。知っている。そろそろだ。
日本の選手が、ブラジルのゴールの前へ高いボールを蹴りこんだ。ボールはゆっくりと弧を描いて、ゴールの前に落ちていく。
ブラジルのゴールキーパーが前に出た。守備の選手も、ボールに向かって跳んだ。
二人が、ぶつかった。
ボールが二人のあいだからこぼれた。誰もいないゴールの前に、ころころと転がる。
そこに、青いユニフォームが走りこんできた。押しこんだ。
ボールがゴールの網を揺らした。
「——っしゃあ!」
父がソファから跳ね上がった。
両手を握りしめて、叫んでいた。顔が赤い。口が大きく開いている。こんな声を出す父を、俺は一度も見たことがなかった。一度目の四十年でも、二度目のこの三か月でも。
「入った! 入ったぞ、おい!」
台所から母が顔を出した。
「なに、どうしたの」
「入ったんだよ、日本が、ブラジルに!」
父は画面を指さして、母に向かって言った。母は目を丸くして、テレビと父を見比べた。それから笑った。
「やだ、子どもみたい」
父は、母の言葉が耳に入っていないようだった。立ったまま、画面の中で喜び合う青いユニフォームたちを見つめていた。
俺はソファに座ったまま、父を見上げていた。
知っていた。こぼれ球の転がる向きまで覚えていた。だから、驚かなかった。
それなのに、胸が熱かった。
ボールが網を揺らした瞬間より、父が跳ね上がった瞬間のほうが、ずっと熱かった。三十四歳の父が、朝の居間で子どもみたいに叫んでいる。会社に遅れると電話までして、ネクタイも締めずに。
この人は、こんなふうにサッカーが好きだったのだ。
残りの二十分は長かった。ブラジルが何度も何度も攻めてきた。シュートが枠に当たり、ゴールキーパーが飛びつき、青いユニフォームが体を投げ出した。父は一度もソファに座らなかった。立ったまま拳を握って、画面に向かって何か言い続けていた。
俺は知っていた。最後まで、一点も入らない。
知っていても、黙っていた。言えるはずがなかった。大丈夫だよ、日本は勝つよ、と六歳の口から言ったら、父はどんな顔をするだろう。だから黙って、父と一緒に画面を見ていた。
試合終了の笛が鳴ったとき、父は大きく息を吐いて、ソファに崩れるように座った。それから顔を両手でごしごしとこすって、天井を見上げた。
◇
九時半が近かった。
父はネクタイを締めながら玄関へ急いだ。母が鞄を渡し、父はそれを受け取って玄関の段差に腰を下ろした。靴べらを使わずに、かかとを押しこむようにして靴を履いている。
俺は廊下の端に立って、それを見ていた。
父が靴紐を結びながら、顔を上げずに言った。
「……すごかったな」
俺に言ったのだった。母は台所に戻っていて、玄関には父と俺しかいない。
「うん」
うなずいてから、もう一度口を開いた。
「すごかった」
父の手が、靴紐を結ぶ途中で、ほんの一瞬止まった。それからまた動いて、きゅっと結び目を締めた。
父は立ち上がって、玄関の戸を開けた。外の暑い空気と蝉の声が、いっぺんに流れこんできた。父は振り返らずに「行ってくる」と言った。
「いってらっしゃい」
戸が閉まった。俺は居間に戻って、窓から外を見た。
駐車場の白い車に、父が乗りこむのが見えた。エンジンがかかり、車がゆっくりと道に出ていく。角を曲がって、見えなくなった。
すごかったな。うん、すごかった。
父が何かを見てすごかったと言い、俺がそれにすごかったと返す。たったそれだけのことが、一度目の四十年で一度もなかった。
テレビでは、さっきの一点がもう何度も繰り返し流れていた。こぼれ球。押しこむ足。揺れる網。それを見ながら、熱いものと重いものが、同時に胸の奥へ沈んでいくのを感じていた。
知っていて、黙っていた。結果を知っていても、父と並んで観られた。黙っていることは、少しも苦しくなかった。
けれど、俺が知っていることは、この試合の結果だけではない。
二十二年後に何が起きるのか。父の顔が、乾いた土のような色になっていくこと。それも、俺は知っている。それを黙っているのは、今日みたいに簡単なことではない。
窓の外の道には、もう誰もいなかった。蝉の声だけが、白く光る朝の空気の中で、途切れずに鳴いていた。




