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第12話 三十五度

 朝のテレビの天気予報で、気象予報士が埼玉の北のほうを指さしていた。


「今日も、熊谷では三十五度を超える暑さになりそうです。日中の外出には、十分ご注意ください」


 八時のニュースだった。画面の地図の上で、真っ赤な太陽の印が関東の北のほうにいくつも並んでいる。昨日も、その前も、同じ印が並んでいた。


 天気予報の前には、大阪のほうで続いている食中毒のニュースが流れていた。給食を食べた子どもたちが、何千人も具合が悪くなったのだという。母はそのニュースのあいだ、台所でいつもより長く手を洗っていた。


「今日も暑いって。帽子、ちゃんとかぶってきなさいよ」


 今日は、母のお茶当番の日だった。流しの横にいつもの大きな水筒が二本並び、冷蔵庫から出した麦茶のやかんが、汗をかいたように水滴をまとっている。


 俺は帽子をかぶった。白い、つばの広い帽子だ。七月の初めの試合で頭のてっぺんが焼けるように熱くなってから、母に頼んで出してもらった。首の後ろまで隠れる布がついていて、少し格好悪い。それでも、かぶらないよりずっといい。


 肩から自分の水筒を下げた。中には、氷をたっぷり入れた麦茶が入っている。製氷皿の氷を、母が全部入れてくれた。


 玄関を出たとたん、空気が熱い布のように顔に貼りついた。


 まだ九時前なのに、日差しは真上から叩きつけるようだった。アスファルトがうっすらと揺らいで見える。田んぼの一本道に出ると、稲の上に陽炎が立っていた。風がまったくなかった。用水路の水も、今日は音を立てずにとろりと淀んでいる。


 校庭に着くと、土が白く乾いていた。照り返しが下からも顔を焼いた。地面のどこにも影がない。校庭のすみの木の下だけが、黒い穴のように暗く見えた。母はその木陰に水筒を置き、紙コップの束を並べはじめた。


 七月二十七日。夏休みの土曜日だった。


 この年の七月の終わり、埼玉の北部で三十五度を超える日が何日も続いたことを、俺は記録で見て知っていた。今日は、そのまんなかの一日だった。


   ◇


「整列!」


 大河原監督の声が、乾いた校庭に響いた。


 監督もさすがに暑そうだった。紺のジャージの上着を脱いで、白いTシャツ一枚になっている。それでも、首から下げた笛と組んだ腕は、いつもと同じだった。


「暑いからって、だらだらするな。こういう日に走れるかどうかで、夏の試合が決まる。いいな」


「はい!」


「それから」


 監督は子どもたちの顔を見回した。


「練習中に、水をがぶがぶ飲むな。飲むとバテる。腹が重くなって、走れなくなる。休憩まで、我慢しろ」


 子どもたちはまた「はい」と返事をした。誰も、おかしいとは思っていない顔だった。


 監督の少し後ろで、園田さんが首にかけたタオルで顔を拭きながら、空を見上げていた。雲一つない空だった。園田さんはタオルの端を握りしめたまま、監督の背中を見ていた。


 俺は木陰に置いた自分の水筒を見た。


 水を飲むとバテる。一九九六年のこの校庭では、当たり前の考えだった。監督が特別に厳しいわけではない。監督が子どもだったころも、そう言われて育ったのだろう。それが間違いだと日本中の大人が知るようになるのは、もう少し先のことだ。


「校庭、五周!」


 走りはじめた。一周目で、もう息が苦しかった。足もとから熱が上ってくる。土を蹴るたびに白い砂ぼこりが舞い上がり、汗ばんだ腕に貼りついた。帽子の中で、頭が蒸れていく。


 二周目で、俺は走りながら周りの子どもたちの顔を見はじめた。


 自分が苦しいのは、まだいい。俺は帽子をかぶっている。家を出る前に、麦茶をコップに二杯飲んできた。九時に寝て七時に起きて、体はちゃんと休んでいる。まだ大丈夫な苦しさだった。


 問題は、ほかの子たちだった。帽子をかぶっている子は半分もいなかった。何人かは朝ごはんを食べてこなかったのか、走りはじめから顔色が悪い。二年生の一人は、一周目から口を開けて、はあはあと肩で息をしていた。


 三周目に入ると、顔が変わりはじめた。


 最初は、みんな顔が赤い。汗がこめかみからあごへ、筋になって流れている。それは、まだいい。汗が出ているうちは、体が熱を逃がそうとしている。


 四周目。何人かの汗が止まりはじめた。


 顔は赤いのに、額が乾いている。さっきまで流れていた汗の筋が、白い塩の跡になって頬に残っている。走り方が少しずつ崩れていく。腕が振れていない。足が上がらない。


 蓮は平気な顔で先頭を走っていた。四月生まれの大きな体は、暑さにも強いらしい。ひかりは帽子をかぶっていて、顔は真っ赤だったが、汗はちゃんと流れていた。陸も汗だくで、口を開けて走っていた。


 岳が俺の少し前を走っていた。


 坊主頭の首筋が真っ赤だった。帽子はかぶっていない。走るたびに、頭が左右に揺れている。


 五周目で、岳は明らかに遅れた。


 俺は岳の横に並んで、その顔を見た。


 紙のように白かった。さっきまで真っ赤だった顔から、血の気が引いている。唇の色が薄い。首筋を見た。汗が、流れていなかった。


 胃の底が冷たくなった。


 汗が止まって、顔が白くなる。体の中の熱を、もう外に逃がせなくなっている。子どもの熱中症が、もう危ない形になっていた。


「岳くん」


 走りながら声をかけた。岳はゆっくりとこちらを見た。目の焦点が、少し合っていなかった。


「……なに」


「だいじょうぶ?」


「……うん」


 うん、と言った岳の声はかすれていた。


 五周が終わると、体操、それから対面パスだった。休憩はまだ先だ。監督は対面パスの組を言い渡すと、木陰に入らずに校庭の真ん中で腕を組んだ。


 俺は木陰に走った。自分の水筒を取って、蓋を開けた。氷がまだたっぷり残っていて、からからと音を立てている。そのまま岳のところへ走った。


「岳くん。これ、のんで」


 水筒を岳の前に差し出した。


 岳は水筒を見た。それから俺を見た。それから、校庭の真ん中の監督の背中を見た。首を横に振った。


「……いい」


「すこしでいいから。ひとくち」


「……かんとくに、おこられる」


 岳の声は小さくて、乾いていた。


「おこられないよ。ぼくが——」


「三上! 北村! 何してる、パスやれ!」


 監督の声が飛んだ。岳の肩がびくりと跳ねた。岳は俺の水筒から目をそらして、自分の組の相手のほうへ、ふらふらと歩いていった。


 俺は水筒を持ったまま、その場に立っていた。


 監督に言うべきだ、と頭は言った。北村くんの様子がおかしいです。休ませてください。水を飲ませてください。


 言えばどうなるか。それも頭は分かっていた。五月に「立ってるだけなら、いらん」と言われた一年生が、練習の途中に監督のところへ行って、休ませろ、水を飲ませろと言う。監督はまず俺を見るだろう。また三上か、という顔で。それから、立って走っている岳を見て、大丈夫だろう、と言う。甘やかすな、と言う。今の岳は、まだ立っている。まだ走っている。


 休憩まで、あと少しのはずだった。休憩になれば木陰に母がいる。母の前で、岳に麦茶を飲ませればいい。それまで岳から目を離さなければいい。


 それが、四十歳の頭が出した答えだった。正しい答えのつもりだった。


 手の中で、氷がからりと鳴った。冷たい水筒の表面に水滴がびっしりとついて、指のあいだを伝って落ちていく。こんなに冷たいものが、ここにあるのに。


 大人の頭は、何が起きているかを知っていた。何をすればいいかも知っていた。日陰に入れて、体を冷やして、水を飲ませる。それだけのことだ。それだけのことなのに、六歳の俺は、岳に一口の麦茶を飲ませることさえできなかった。


   ◇


 対面パスが終わって、紅白戦になった。


 休憩はなかった。監督は紅白戦の前に休憩を入れると言っていたのに、時計を見て「時間がない。紅白戦のあとで休憩だ」と言った。


 団子ができた。いつもより動きの鈍い団子だった。走りこむ足がもつれる。誰かが転び、転んだ子はしばらく起き上がらない。砂ぼこりが、風のない空気の中でいつまでも宙に浮いていた。


 俺は外に立っていた。右の少し後ろ。岳は、隣にいなかった。


 キックオフの前に、岳は監督に名前を呼ばれて、団子の中に入るように言われたのだ。「北村、お前はボールに行け」。岳は黙って団子のほうへ走っていった。その背中が、ふらふらしていた。


 俺は、団子の中の岳だけを見ていた。


 岳は団子の端にいた。ボールに向かって足を出そうとして、出せずにいる。周りの子たちに押されて、少しずつ団子の外へはじき出されていく。


 時計を見たかった。校庭の時計は、校舎の壁のずっと高いところにある。紅白戦が始まって、まだ五分も経っていないはずだった。休憩は紅白戦のあと。あと十五分。いや、二十分か。


 蝉の声が、耳の奥でわんわんと鳴っていた。暑さで頭の中まで白くなっていくようだった。木陰で自分の麦茶をもう一口飲んでくればよかった、と思った。それから、そんなことを思った自分が嫌になった。


 団子が左へ流れた。岳だけが、ついていかなかった。


 団子から一人取り残されて、岳はその場に立っていた。白い土の上に、ぽつんと。


 岳が、止まった。


 腕がだらんと垂れた。顔が空のほうを向いた。何かを探すように、ぼんやりと。


 それから、揺れた。体がゆっくりと右へ傾いた。踏みとどまる。今度は左へ。足が一歩、もつれた。


 俺は走りだしていた。


 待つべきではなかった。休憩まで、と頭が出した答えは間違っていた。岳から目を離さなければいい、と思っていた。目を離さずに、ただ見ていた。見ていただけだった。


 岳の膝が、折れた。


 白い土の上に、岳は両膝をついた。両手が地面についた。うつむいた頭から、汗の一滴も落ちなかった。


 遠くで監督が叫んでいた。


「行け! そこだ、蹴れ! もっと前に出ろ!」


 監督は団子のほうを向いていた。団子の中のボールのほうを。園田さんは反対側のゴールの近くで、二年生の誰かに何か言っていた。木陰の母は紙コップを並べていて、こちらを見ていなかった。


 大人たちは誰も、まだ気づいていなかった。


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