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観るだけだった俺の、二周目のサッカー人生 —— 「やっておけばよかった」を、六歳から取り返す  作者: 八夜巡
第1章 小学一年生

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第13話 水を

 岳のところまで、十歩もなかった。


 それが、ひどく遠かった。乾いた土を蹴る足が、思うように前へ出ない。帽子がずれてつばが目にかぶさり、俺はそれを片手で払いのけて走った。


 岳は両膝と両手を地面について、四つんばいのような格好のまま動かなかった。うつむいた坊主頭の首筋が、まだらに赤い。


「岳くん」


 隣に膝をついて、岳の腕に触った。


 熱かった。子どもの体温ではなかった。日向に置きっぱなしにした石のように、中まで熱がこもっている。そして、乾いていた。これだけ走ったのに、腕のどこにも汗のぬめりがない。


「岳くん。岳くん、きこえる?」


 岳がゆっくりと顔を上げた。


 白い顔だった。目が半分しか開いていない。俺の顔を見ているのに、俺を見ていない目だった。唇が何か言おうとして動いたが、声は出てこなかった。


 日陰に運ばなければ。


 校舎の陰が二十歩ほど先にあった。岳の脇の下に腕を差しこんで、持ち上げようとした。


 持ち上がらなかった。


 岳は俺より、いくらか背が高い。それに、力の抜けた六歳の体は、思っていたよりずっと重かった。引っ張っても、岳の体はずるりと横に傾くだけで、少しも前に進まない。腕が震え、足が土の上で滑った。倒れかけた岳を、俺は自分の体でどうにか支えた。


 一人では、だめだ。


 顔を上げると、団子はまだ向こうで揺れていた。監督はこちらに背を向けて叫んでいる。木陰の母は紙コップを並べていて、園田さんは反対側のゴールの近くにいた。誰も、こちらを見ていなかった。


 胸いっぱいに息を吸った。熱い空気が喉を焼いた。


「おかあさーんっ!!」


 自分の声とは思えない声が出た。甲高くて、割れていて、蝉の声も団子の叫び声も突き抜けて校庭に響いた。この体になってから、こんな声を出したことは一度もなかった。一度目の人生でも、たぶんなかった。


「コーチ!! そのだコーチ!! 岳くんが!!」


 木陰の母が顔を上げた。俺と、俺に寄りかかる岳を見た。母の手から、紙コップの束が落ちた。


 母は首にかけていたタオルを握ったまま走ってきた。サンダルが脱げそうになるのもかまわずに。反対側のゴールのほうからは、園田さんが走ってきた。大人の足は速かった。校庭の向こうから、あっという間にここまで来た。


 団子がばらけはじめた。子どもたちが、何事かとこちらを振り向く。


「どうしたの、さく、岳くん——」


 母が岳の顔をのぞきこんで、息を飲んだ。


 言うべきことは全部、頭の中に並んでいた。子どもが暑さで倒れたとき、何から、どの順番でするか。並んでいた言葉は、六歳の言葉に直す前に、そのまま口から出ていった。


「きゅうきゅうしゃ、よんで。いますぐ」


 母が俺を見た。


「それから、日陰に運んで。首と、わきの下と、足のつけねを冷やして。冷たいもので。へんじができるまで、水は、のませないで」


 ほんの一瞬だった。母の目の中で、何かが揺れた。驚きなのか戸惑いなのか、それとも別の何かなのか、俺には分からなかった。


 母は何も訊かなかった。


 園田さんは俺の顔と岳の顔を見比べた。一秒もかからなかったと思う。それから校門のほうへ振り向いて、大声で叫んだ。


「すいません! 向かいの酒屋さんの電話で、救急車、お願いします! 若宮小の校庭って!」


 校門の近くで練習を見ていた二年生の母親が、弾かれたように走りだした。


 園田さんは岳の背中と膝の裏に腕を回して、軽々と抱き上げた。俺がどうやっても動かせなかった体が、大人の腕の中にすっぽりと収まった。園田さんは岳を抱えたまま、校舎の陰へ走った。


 母は反対の方向へ走った。タオルを何枚もつかんで水飲み場へ駆けていき、蛇口を全部ひねる。水の音が、ここまで聞こえた。


 母の手は速かった。水を含ませたタオルを絞りもせずに抱えて戻ってくると、校舎の陰に寝かされた岳の首に一枚、両方の脇の下に一枚ずつ、足のつけねに一枚ずつ当てた。ためらいがなかった。俺が言ったとおりに、母の手が動いていた。


 俺は木陰から自分の水筒を持ってきた。蓋を開けると、氷がまだ残っていて、からからと鳴った。氷を手のひらにいくつか出して、母に渡した。


「これ、タオルに、つつんで。首のとこ」


 母は黙ってうなずき、氷を濡れタオルに包んで岳の首筋に当てた。それから自分の帽子を脱いで、岳の顔をあおぎはじめた。


 岳の体がぴくりと動いた。


「岳くん」


 俺は岳の顔のそばに膝をついた。


「岳くん。きこえる? みかみ、だよ」


 岳のまぶたが震えた。目が少しずつ開いていく。さっきより、ちゃんと開いていた。俺の顔の上で岳の目が止まった。今度は、俺を見ている目だった。


「……うん」


 かすれた、小さな声だった。


 それを聞いた瞬間、体じゅうの力が抜けそうになった。膝ががくがくと震えた。


「岳くん。これ、じぶんで、もてる?」


 水筒の蓋に、麦茶を少しだけ注いだ。園田さんが岳の上半身をゆっくりと起こしてくれた。岳は両手で蓋を受け取った。指が震えていたが、落とさなかった。


「すこしずつ。ゆっくりで、いいよ」


 岳が蓋に口をつけた。喉がこくりと動いた。


「……つめたい」


「うん。つめたいよ」


 母が横から言いかけた。


「さく、もっといっぱい飲ませたほうが——」


「だめ。いっきに飲むと、はいちゃう。少しずつ。俺が——」


 言いかけて、止まった。母と園田さんが、俺を見ていた。


「……ぼくが、みてるから」


 俺は空になった蓋に、もう一度だけ麦茶を注いだ。注ぐ手も、自分の声も、震えていた。


   ◇


「どうした」


 低い声が背中から聞こえた。


 振り向くと、大河原監督が立っていた。団子はもう完全にばらけていて、子どもたちが校舎の陰の手前で、遠巻きにこちらを見ている。蓮も、ひかりも、陸も。監督はその子どもたちのあいだを抜けてきたのだった。


 監督は寝かされた岳を見下ろした。首と脇と足のつけねの濡れタオル。母の帽子。俺の手にある水筒の蓋。


「北村か」


「暑さにやられたみたいです。救急車、呼びました」


 園田さんが答えた。


「救急車?」


 監督の眉が上がった。


「大げさな。ちょっとふらついただけだろう。北村、立てるだろ。そんなに甘やかすな」


 監督は岳の顔をのぞきこむように、少しかがんだ。


「だいたい、水なんか飲ませてるから、よけいにバテるんだ。試合になったら、途中で水なんか飲めないんだぞ。今から慣れておかないと——」


 黙っていればいい、と頭のどこかが言った。岳は目を開けた。救急車も呼んだ。あとは、監督が何を言おうと、母と園田さんがいれば大丈夫だ。五月に「いらん」と言われた一年生がまた口を挟めば、話がこじれるだけだ。


 それなのに、岳の首筋の濡れタオルが目に入った。さっきまで汗の一滴も出ていなかった、乾いた、熱い首。


 慣れておかないと。


 慣れるものではない。慣れようとして、倒れるのだ。


「飲めます」


 声が出ていた。


 監督が俺を見た。


「ルールでも、止まっているときは、飲めます。試合が止まっているときに、線のところで。だめなのは、ルールじゃないです」


 しんとした。蝉の声だけが、急に大きくなったように聞こえた。遠巻きの子どもたちが息を飲んだのが分かった。蓮が目を丸くしていた。ひかりは両手を口の前で握りしめていた。陸は監督と俺の顔を何度も見比べていた。母の手が、帽子を持ったまま止まっていた。


 言ってしまった、と思った。


 ルール。止まっているとき。線のところ。全部、四十歳の頭の中にある言葉だった。それが、そのまま六歳の口から出てしまった。


 監督の顔が、ゆっくりと赤くなっていった。暑さのせいではない赤さだった。眉のあいだに深いしわが寄り、組んでいた腕がほどけた。


「……なんだと」


「監督」


 園田さんが間に入った。


 岳の上半身を支えたまま体をずらして、監督と俺のあいだに肩を入れる。声は、いつもの軽い調子だった。細い目は笑っていなかった。


「今日は暑いっす。ほんとに。休憩、入れましょう。ほら、みんなも」


 園田さんがあごで子どもたちを示した。


 監督が振り向いた。


 子どもたちが、そこに立っていた。顔の赤い子。顔の白い子。汗の止まった子。肩で息をしている子。帽子をかぶっていない頭が、日差しの中で、どれも同じようにうなだれていた。


 監督はしばらく子どもたちを見ていた。何を思っていたのかは分からない。けれど、監督の目が一人ひとりの顔の上をゆっくり動いていくのが見えた。口を開けてはあはあ言っている二年生。膝に手をついてふらついている一年生。


 遠くでサイレンの音がした。国道のほうから、少しずつ近づいてくる。監督の肩が、わずかに動いた。監督は校門のほうを一度だけ見て、それから首から下げた笛を手に取った。


 短く、一回、吹いた。


「……休憩。全員、木陰に入れ。水、飲んでこい」


 子どもたちは一瞬きょとんとして、それから、わっと木陰のほうへ走っていった。誰かが「みずー!」と叫んだ。水飲み場の蛇口に、子どもたちが群がっていく。


 監督はそれを見届けると、岳のほうに向き直った。かがんで、さっきよりずっと近くから、岳の顔をのぞきこんだ。


「北村。……大丈夫か」


 ぶっきらぼうな声だった。それでも、さっきの「立てるだろ」より、ずっと低くて静かだった。


 岳は小さくうなずいた。監督は短く息を吐いて立ち上がり、俺を見た。口は閉じたままだった。俺の顔を一度だけじっと見て、それから背を向け、校門のほうへ歩いていった。サイレンの音が、もうすぐそこまで来ていた。


   ◇


 白い救急車が校門の前に止まった。


 ヘルメットをかぶった救急隊の人たちが、担架を持って校庭に入ってくる。園田さんが手を挙げて呼んだ。隊員の一人が岳のそばにしゃがみこみ、岳の名前を呼び、手首に指を当て、首のタオルに触れた。


「冷やしてくれてたんですね。よかった。いつから、こうなってました?」


 園田さんが答えた。母が横から少し付け足した。隊員はうなずきながら、てきぱきと岳を担架に移した。


 そのとき、校門のほうから自転車のブレーキの音がした。


 エプロンをつけたままの女の人が、自転車を放り出すようにして走ってきた。痩せた人だった。岳と同じ、細い目をしていた。酒屋の電話から、岳の家にも知らせが行ったのだ。


「岳!」


 岳の母親は担架の横にしゃがみこんだ。岳が担架の上から「……おかあさん」と言った。その声を聞いて、岳の母親の肩から力が抜けるのが分かった。


「すみません、すみません。うちの子、体が弱くて。ご迷惑を——」


「迷惑なんかじゃないですよ」


 母が、岳の母親の肩に手を置いた。


 それから母は俺のほうを見た。何か言うかと思った。母は黙って俺の頭に手を伸ばし、帽子の上から一度だけぎゅっと押さえた。帽子のつばが、また目にかぶさった。俺はそれを直さずに、母の手の重さを頭の上で感じていた。


 担架が運ばれていく。俺はその後ろをついていった。


 救急車の後ろの扉の前で、隊員が担架を持ち上げようとしたとき、岳が首をこちらへ向けた。顔はまだ少し白い。それでも、目はちゃんと俺を見ていた。


「……みかみくん」


「うん」


「……ありがと」


 蝉の声に、半分かき消されそうな声だった。俺は何も言えずに、ただうなずいた。


 岳の母親が救急車に乗りこみ、扉が閉まった。サイレンが鳴りだして、白い車がゆっくりと動きだす。校門を出て、国道のほうへ曲がっていく。サイレンの音が、田んぼの向こうへ遠ざかっていった。


 振り向くと、校庭の木陰で、監督がこちらを見ていた。


 腕を組んで、首から笛を下げた、いつもの立ち方だった。さっき岳の顔をのぞきこんでいたときとは、違う目をしていた。生意気なやつだ、と言われている気がした。


 一年坊主のくせに、大人に向かってルールがどうのと言い返し、救急車まで呼ばせた子ども。監督の目には、俺はそう映っているのだろう。それでいいとは思えなかった。仕方がない、とも思った。


 正しかった。岳は目を開けて、つめたい、と言った。ありがと、と言った。


 正しかったのに。


 自分の手を見た。右手が、まだ震えていた。水筒の蓋を持っていた指が小刻みに震えて、左手で押さえても止まらなかった。


 持ち上げられなかった岳の体。白い顔。焦点の合わない、あの目。


 あと五分、遅かったら。そう思いかけて、やめた。もう、遅れていた。五周目に白い顔を見たとき。木陰で、紙コップを並べる母の背中を見たとき。あそこで呼んでいれば、岳は白い土に膝をつかなくてすんだのかもしれない。


 震える手を、ぎゅっと握りしめた。握っても、震えは指の奥のほうでまだ続いていた。


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