第14話 正しいが
八月最初の日曜日の校庭は、白く乾いていた。
あの土曜日から八日がたっていた。次の日の日曜と、その次の土曜は、高学年の大会があって低学年の練習は休みだった。だから、みんなと顔を合わせるのはあの日以来だった。
俺が着いたとき、一年生と二年生はもう何人か集まっていて、校庭のすみの木陰でしゃがみこんでいた。電池で走る小さな車の模型の話をしている。新しいモーターがどうとか、誰の兄ちゃんのが速いとか。俺が近づいていくと、話し声がすっと低くなった。
気のせいだ、と思おうとした。
「おはよう」
声をかけた。何人かが「おはよう」と返した。返さない子もいた。声の大きい二年生が、しゃがんだまま俺を見上げた。五月の練習試合で、監督に「いらん」と言われた俺を見て、小さく笑った子だ。
「なまいき」
その子は、聞こえるか聞こえないかの声で言った。それから隣の二年生と顔を見合わせて、くすくすと笑った。
聞こえなかったふりをして、木陰の少し離れたところに水筒を置いた。
なまいき。
あの日のことは、子どもたちのあいだでもう話になっているらしかった。一年坊主が監督に言い返した。ルールがどうのと、大人みたいなことを言った。監督が真っ赤になった。救急車が来た。それがどういうふうに伝わっているのかは分からない。けれど、木陰の子どもたちの目が俺のほうをちらちらと見ては、すぐにそれる。気のせいではなかった。
一人だけ、そらさない子がいた。ひかりだった。ひかりはしゃがんだ子どもたちのあいだから立ち上がって、まっすぐ俺のところへ来た。
「さくくん、ルールって、なに?」
なまいき、と言った二年生がこちらを見ていた。ほかの子たちも聞き耳を立てているのが分かった。
「……サッカーの、きまり」
「みず、のんでいいって、きまってるの?」
「……とまってるときは」
「じゃあ、かんとくが、まちがってたの?」
答えに詰まった。そうだと言えば、また「なまいき」になる。違うと言えば、嘘になる。少し考えてから言った。
「……むかしは、そうだったんだよ。かんとくが、こどものときは」
ひかりは「ふうん」と言って、首をかしげた。それから、なぜかふふっと笑って、俺の隣にしゃがんだ。ほかの子たちのほうではなく、俺の隣に。
岳は来ていなかった。
「北村くんね、病院では、もう大丈夫だって。でも、今週はお休みするって」
園田さんが俺の横にしゃがんで、声を落として教えてくれた。
「お母さんから、昨日、電話があったよ。朔くんにも、よろしくって」
「……はい」
よかった、と思った。いつのまにか上がっていた肩が、すとんと落ちた。
園田さんは帽子の上から、俺の頭をぽんと叩いた。それから立ち上がって、子どもたちのほうへ歩いていった。
「整列!」
監督はいつもと同じだった。紺のジャージの上着を、今日は最初から脱いでいた。白いTシャツに、首から下げた笛。腕を組んで、子どもたちの顔を一人ずつ見ていく。
俺の顔の上で、監督の目は止まらなかった。ほかの子と同じ速さで通り過ぎていった。先週のあの赤くなった顔も、「……なんだと」も、なかったことのようだった。叱られもしなかったし、褒められもしなかった。
それが、いちばん落ち着かなかった。
練習はいつものように始まった。ランニング、体操、対面パス。俺の組の相手は、あまり話したことのない一年生だった。その子は俺の蹴ったボールを、黙って蹴り返した。十本やって、一度も目を合わせなかった。
三十分ほどたったときだった。ピイッ、と笛が鳴った。
いつもより高い音だった。振り向くと、園田さんが、自分の首から下げた小さな笛を口にくわえていた。園田さんが笛を持っているのを、俺は初めて見た。
「はい、いったん止め! みんな、水、飲んでこい!」
子どもたちがきょとんとした顔で園田さんを見た。それから、監督のほうを見た。
監督は校庭の真ん中で、腕を組んだまま立っていた。止めろとも、まだ早いとも言わない。園田さんのほうを見もせずに、空のほうを見ていた。
「ほら、早く。一人、コップ一杯ずつな」
園田さんが手を叩くと、子どもたちはわっと木陰へ走っていった。紙コップに麦茶を注いでいたのは、今日の当番の陸の母親だった。
俺も木陰に行って、自分の水筒の麦茶を飲んだ。飲みながら監督のほうを見た。監督はまだ校庭の真ん中に立っていて、子どもたちが水を飲んでいるあいだ、一度もこちらを見なかった。
黙っていることが、監督の答えなのだと思った。言葉では何も認めない。認めないが、止めもしない。それが、五十を過ぎた大人の精いっぱいの譲り方なのかもしれなかった。
練習のあいだに、園田さんの笛はもう二回鳴った。そのたびに監督は黙っていた。
◇
練習が終わると、母が校門のところで待っていた。
今日は当番ではないのに、迎えに来ていた。日傘をさして、いつもよりきちんとした服を着ている。俺を見つけると、母は日傘の下で手を振った。それから、俺の後ろのほうを見た。
監督が道具の片づけを終えて、校門のほうへ歩いてくるところだった。
母は日傘を畳んだ。
「さく、ちょっとここで待ってて」
そう言って、母は監督のほうへ歩いていった。
俺は校門の柱の陰に立って、それを見ていた。
母は監督の前で立ち止まった。何か言った。声は、ここまで聞こえなかった。それから母は、深く頭を下げた。
腰から、深く。畳んだ日傘を両手で持って。頭を下げたまま、母は何かを言い続けていた。うちの子が。失礼なことを。口の動きで、そう言っているのが分かった。
監督は腕を組んだまま、母を見下ろしていた。それから腕をほどいて、首を横に振った。何か短く言った。母が顔を上げると、監督はもう一度だけ首を振り、校門とは反対のほうへ歩いていった。
俺は柱の陰から出られなかった。
母が頭を下げていた。俺のために。俺が言ったことのために。
俺が言ったことは正しかった。岳は助かった。今日は園田さんの笛で、みんなが水を飲めた。正しいことを言ったせいで、何かが一つ変わった。
その代わりに、母が頭を下げた。
一度目の人生で、俺は母に頭を下げさせたことがあっただろうか。思い出せなかった。たぶん、なかった。俺は誰ともぶつからない子どもだった。誰ともぶつからない大人になった。正しいことを言って誰かとぶつかったことが、ほとんどなかった。
母が戻ってきた。日傘を開いて、俺を日陰に入れた。
「帰ろうか」
それだけ言って、歩き出した。
田んぼの一本道には、今日も陽炎が立っていた。稲が先週より少し背を伸ばしている。俺は母の日傘の影の中を、母の歩幅に合わせて歩いた。
母はしばらく黙っていた。叱られると思っていた。どうしてあんなことを言ったの、と。大人に向かって、と。
用水路の脇まで来たところで、母が前を見たまま言った。
「さく」
「……うん」
「ああいうときはね、大人を呼びなさい」
穏やかな声だった。一言ずつ、区切るように話した。
「先週みたいに、大きい声で。お母さんでも、園田さんでも、誰でもいいから。呼んだら、大人が来るから。それで、いいの」
「……うん」
先週みたいに、と母は言った。母は、俺がすぐに呼んだと思っている。呼んだのは、岳が膝をついてからだった。あの日、母はずっと木陰にいたのに。
「あんたが、全部言わなくていいから」
俺は母を見上げた。
日傘の影の中で、母の横顔は前を向いたままだった。けれど、日傘を持つ手が少しだけ俺のほうに傾いていた。俺の頭の上に、影がちゃんと落ちるように。
全部言わなくていい。
俺は全部、自分で言って、自分でやろうとしていた。岳に麦茶を飲ませるのも、岳を見ているのも、監督に言い返すのも。この時代で何が正しいかを知っているのは、俺しかいないのだから。
「……ごめん」
「謝らなくていいの」
冷蔵庫の前で「なんで謝るの」と言われた、四月の夕方を思い出した。
「岳くん、助かったんだから」
日傘の影の中を、二人で黙って歩いた。
◇
その夜、九時に布団に入ったが、なかなか眠れなかった。
五月から一度も崩していない時間に、今夜は体がついてこなかった。目を閉じると、頭を下げる母の背中が浮かんだ。それから、白い顔の岳。震える自分の手。
喉が渇いて、布団を出た。階段を一段ずつ降りた。途中まで降りたところで、居間の明かりがすりガラスの戸からぼんやりと漏れているのが見えた。テレビの音はしない。父と母の話し声だけが聞こえた。
足が止まった。
「——それでね、今日、監督さんに、頭下げてきたの」
母の声だった。
「そしたら、監督さん、いや、いいです、って。それだけ。怒ってはいなかったみたい。でも、なんだか、ばつが悪そうな顔してた」
グラスをテーブルに置く音だけがした。
「あの子、ほんとに、どこであんなこと覚えたのかしら。最初に、救急車呼んで、って言ったのよ。それから、首と、わきの下と、足のつけね、って。私、言われたとおりにしただけ。園田さんも、あとで、朔くんの言ってたの、全部合ってますよ、って」
母の声が、少しだけ揺れた。
「なんだか、ときどき、あの子が、知らない子みたいに見えるの」
俺は階段に立ったまま、息を止めていた。
知らない子みたい。
母は気づいている。何に気づいているのかは、母自身にも分かっていないのだろう。それでも、何かがおかしいことには気づいている。四月から、ずっと。
父の返事は、まだなかった。冷蔵庫の低い音が、廊下まで聞こえてきた。
「……俺のときも」
父の声がした。低くて、少しかすれた声だった。
「倒れたやつが、いたんだ。高校の、夏の練習で。水、飲ませてもらえなくてな。グラウンドで、ばたっと。救急車が来て。……あれから、そいつ、部活、来なくなった」
母は黙っていた。
「誰も、何もしなかった。俺も、見てただけだった。監督に、何か言えるやつなんか、いなかった」
また、沈黙があった。グラスに何かを注ぐ音がした。
「……あいつ、間違ってないよ」
ぽつりと、誰に聞かせるためでもないような声だった。
俺は階段に座りこんだ。足から力が抜けていた。冷たい階段の板が、パジャマ越しに尻に当たった。手すりにつかまったまま、動けなかった。
あいつ、間違ってないよ。
父は俺に言ったのではなかった。母に言ったのでもなかったのかもしれない。グラスの中に落とすように言っただけだった。俺が階段にいることも知らない。
それでも、俺には聞こえた。
父は見ていたのだ。十何年も前の高校のグラウンドで、倒れた誰かを。何もできずに。それを、ずっと覚えていたのだ。
一度目の人生で、父からそんな話を聞いたことは一度もなかった。
目の奥が熱くなった。階段の暗がりの中で、俺は膝を抱えた。泣いてはいけない、と思った。泣いたら声が出る。声が出たら、ここにいることが分かってしまう。
居間から、テレビのスイッチを入れる音がした。夜のニュースの声が、低く流れはじめた。
俺は音を立てないように、階段を上った。
◇
次の朝、玄関に水筒が一つ置いてあった。
見たことのない水筒だった。紺色の大きな水筒。肩にかける太いベルトがついていて、蓋がそのままコップになっている。今の俺の水筒の倍くらいはありそうだった。上がり框で、俺の運動靴の横に、まっすぐ立ててあった。
誰が置いたのかは、分からなかった。
台所の母は、いつもどおりに朝ごはんを作っていた。俺が水筒のことを言いかけると、母は「ほら、早く顔洗っておいで」とだけ言った。父は、もう仕事に出かけたあとだった。
俺は水筒を持ち上げてみた。重かった。中は空なのに、前の水筒よりずっと重い。麦茶をいっぱいに入れたら、もっと重くなるだろう。六歳の肩には、少し大きすぎるかもしれない。
ベルトを肩にかけてみた。水筒が腰のあたりで、ずしりと揺れた。
ベルトの付け根に、白いビニールテープが貼ってあるのに気づいた。油性ペンで、名前が書いてある。
みかみ さく
角ばった、几帳面な字だった。一画ずつ定規で引いたような、まっすぐな字。四十歳の俺の部屋の棚に並んでいた、ビデオテープのラベルと同じ字だった。
その重さを肩にかけたまま、俺はしばらく玄関に立っていた。




