第15話 水を大事に
台所の流しに、洗いおけが二つ並んでいた。
一つには朝ごはんの食器が沈んでいる。もう一つには、すすぎ用の水が八分目まで溜めてある。母は蛇口を細く開けて、食器を一枚ずつ、ためた水の中ですすいでいた。水を出しっぱなしにしない。流しっぱなしにしない。ここ数日、母はずっとそうしている。
居間のテレビが朝のニュースを流していた。
「利根川水系では、今月二十日から始まった取水制限が続いており、首都圏の各地で、節水への協力が呼びかけられています」
画面に、干上がりかけたダムが映った。湖の底のひび割れた土。水の跡が、岸の斜面に何本も白い線を残している。それから街の様子。公園の噴水が止められ、プールの使用時間が短くなった、と言っている。
雨の少ない八月だった。梅雨が早く明けて、そのあとほとんど降っていない。七月の終わりのあの猛暑から、空はずっと乾いたままだった。
「お水、大事にしなさいって、学校からもお便り来てたでしょ」
母が食器をすすぎながら言った。
「歯みがきのときも、コップに汲んでね。出しっぱなしにしないで」
「うん」
俺はテーブルで麦茶を飲みながら、テレビの干上がったダムを見ていた。
七月は、水を飲むな、だった。
校庭で、子どもたちは水を飲むとバテると言われて走っていた。岳が倒れた。八月になったら、今度は水を大事にしなさい、になった。同じ夏の同じ水だった。飲むなと言われた水が、今度は足りなくて、大事にしろと言われている。
おかしな話だ、と思った。笑う気にはなれなかった。
麦茶を最後まで飲んだ。グラスの底に、氷が一つだけ残っていた。
今日の午後、公園にみんなが来る。
◇
誘ったのは、俺だった。木曜日の登校日に、教室でひかりに声をかけた。
「ひかりちゃん。土曜の夕方、公園で、サッカーしよう」
ひかりは二回まばたきをしてから、「する!」と言った。それから「なんで、こうえん?」と訊いた。
「すくない人数で、やりたいから」
「ふうん。じゃあ、する」
理由になっていたのかどうかは、分からない。
岳と陸は学校が違う。だから、母に頼んだ。少年団の連絡網の紙を見ながら、母が電話をかけてくれた。廊下の電話台の前で受話器を耳に当て、北村さんのお宅ですか、三上です、といつもより少し高い声で言った。
岳の母親は何度もお礼を言ったらしい。先日は本当に、と。それから、岳をよろしくお願いします、日陰でお水を飲ませてやってください、と。母は電話を切ったあと、受話器に手を置いたまま、すぐには動かなかった。
陸の家には、陸本人が出た。母が用件を言うと、受話器の向こうから陸の「いく!」という声が、俺のところまで聞こえてきた。
四時に公園に集まった。
住宅地の真ん中にある小さな公園だった。ブランコと、すべり台と、砂場。その奥に、土がむき出しの空き地のような広場がある。周りをブロック塀と生け垣が囲んでいる。真ん中に背の高い柱時計が一本立っていて、文字盤のガラスに、夕方の日が白く映っていた。
土はからからに乾いていた。蝉が生け垣の向こうの木で、やかましく鳴いていた。夕方なのに、まだ暑い。それでも日差しの角度が低くなって、ブロック塀の影が広場の半分くらいまで伸びていた。
ひかりと岳と陸が、もう来ていた。
岳は少し痩せたように見えた。けれど、顔色は普通だった。俺を見ると、岳は右手を胸の高さまで上げた。それだけだったが、岳がそんなふうに手を上げるのを、俺は初めて見た。
「なにするの」
ひかりが言った。俺は自分のサンダルを脱いで、地面に置いた。片方を置き、少し離してもう片方を。二つのあいだは、俺の歩幅で二歩。
「これが、ゴール」
「ちっちゃ」
陸が言った。
「キーパーなし。二人と、二人。ボールを、このあいだに通したら、一点」
ひかりにもサンダルを借りて、反対側に置いた。広場の端から端まで、二十歩くらいの細長いコートになった。
「五分で、おしまい。あの時計で」
俺は柱時計を指さした。四時七分だった。
「かったほうが、のこる。まけたほうは、こうたい」
「こうたいって、だれと?」
「……あとで、だれか来たら」
ひかりがくすっと笑った。
五月に、自由帳の四行目に、すくないにんずう、と書いた。大勢でやる試合しか知らないこの時代の大人に言っても、たぶん通じない。でも、六歳の友だちとなら、遊びとしてなら、できる。
俺と岳。ひかりと陸。ボールは俺の三号球だった。白に青の模様は、もうほとんど茶色だった。
「よーい、どん」
ひかりが言って、始まった。最初の一分で、陸が一点を取った。背が高くて足が長い陸は、ボールを持ってまっすぐ走るだけで、俺たち二人のあいだを抜けていった。サンダルのあいだを、ボールが転がっていく。陸は両手を挙げて「いっこ!」と叫んだ。
次は、ひかりが取った。ボールを持った俺の足もとに、ひかりが思い切り足を突っこんできて、こぼれたボールをそのまま蹴った。
「にこ!」
「ずるい」
「ずるくないよ」
ひかりは生えかけの前歯を見せて笑った。
二人とも、団子の中ではほとんどボールに触れない子だった。陸は背が高いのに、団子の中ではいつも押し出されていた。ひかりは一人だけの女の子で、二年生の男の子たちにぶつかられると、すぐに外へはじき出された。
ここには団子がなかった。四人しかいない。ボールはいつも誰かの足もとにある。取られても、すぐに取り返せる。取り返したら、すぐにゴールが見える。二歩幅のサンダルのゴールは、小さいけれど近い。
岳がボールを持った。ひかりが突っこんでいった。岳は慌てて、ボールを俺のほうへ蹴った。弱くて、少し逸れた。俺は走って、それを足の裏で止めた。
陸が目の前にいた。背の高い体で両手を広げて、通せんぼをするように立っている。右へ行けば、陸の長い足が伸びてくる。左へ行っても同じだ。
足の裏をボールの上に乗せた。
雨の居間で何百回もやった動きだった。足の裏で、ボールを自分のほうへ引く。陸の足が、引いたボールを追って前に出てきた。その瞬間、今度は足の裏で横へ転がした。出てきた陸の足の外側へ。
陸の体がついてこなかった。背が高いぶん、向きを変えるのが遅い。陸の足が、ボールの消えたところを空振りするように踏んだ。俺はその横を、ボールと一緒に抜けた。
抜けた。一人、かわした。
頭より先に、足が動いた。足の裏がボールの丸さを覚えていて、陸の足が出てくる瞬間に、勝手に横へ転がしていた。
「わっ」
後ろで陸が声を上げた。
前に、サンダルのゴールが見えた。ひかりがゴールの前に戻ってこようとしている。横に、岳が走りこんでいた。
蹴れば、入るかもしれなかった。
俺は、岳に出した。
足の内側で、岳の足もとで止まるくらいに。岳はそれを、足を伸ばして思い切り蹴った。ボールはひかりの足の横を抜けて、サンダルとサンダルのあいだを転がっていった。
入った。
岳が自分の足を見下ろした。それから顔を上げて、俺を見た。
「……はいった」
「うん」
「はいった!」
岳の顔がくしゃっと崩れた。笑っていた。口を大きく開けて、目を細めて、声を出して笑っていた。岳が声を出して笑うのを、俺は初めて聞いた。
柱時計を見ると、四時十二分だった。二対一で、ひかりと陸の勝ちだった。
「さくくん、いまの、どうやったの? もういっかい、やって!」
陸が叫んだ。勝ったのは陸のほうなのに、かわされたことのほうが気になるらしかった。陸は俺がやったとおりに足の裏をボールに乗せて、引いて、横へ転がそうとして、自分の足につまずいた。
交代する相手は、まだいなかった。だから、そのままもう一回やった。
二回目の途中で、公園の入口に自転車が止まった。
蓮だった。補助輪の取れたばかりのような、よろよろとした止まり方だった。蓮は自転車にまたがったまま、広場を見ていた。俺たちがサンダルのゴールで、二人と二人で走り回っているのを。
「なにやってんの」
「サッカー」
ひかりが答えた。
「ちっちゃ」
蓮は陸と同じことを言った。それから自転車を生け垣に立てかけて、走ってきた。
「おれも、いれて」
それからは、本当に勝ち残りになった。五人だから、一人が待つ。負けた組から一人が抜けて、待っていた一人が入る。抜ける一人は、じゃんけんで決める。そういう決まりを、俺が言う前に子どもたちが勝手に決めていた。
蓮はうまかった。団子の中でもうまい蓮は、四人しかいない広場ではもっとうまかった。誰にも邪魔されずにボールを運び、一人をかわし、もう一人の股を抜いて、サンダルのあいだにボールを流しこむ。蓮が一人で何点も取っても、ほかの子たちは悔しがりながら追いかけていった。ひかりは何度抜かれても、蓮の足もとに突っこんでいった。陸は長い足を伸ばして、一度、蓮からボールを取った。岳は、取られても、もう座りこまなかった。
五分は、あっという間だった。柱時計の長い針が一つ動くたびに、誰かが「あと、なんぷん?」と叫んだ。誰かが点を取るたびに、誰かが「ずるい」と言い、誰かが笑った。みんな、水を飲みに行くのを忘れていた。俺が大きい水筒を回すと、蓋のコップで順番にごくごく飲んだ。岳の番のとき、少しずつね、と俺は言った。岳はうなずいて、少しずつ飲んだ。
何回やったのか、分からなくなった。気がつくと、俺も笑っていた。
蓮に股を抜かれて笑った。ひかりに足を蹴られて、痛いと言いながら笑った。岳の蹴ったボールがサンダルに当たって、サンダルが吹っ飛んで、みんなで笑った。声を出して、笑っていた。
五月の練習試合で、蓮の笑い方をうらやましいと思った。あんなふうに笑ったことが、俺にあっただろうか、と。
今、俺は何も数えていなかった。何回触ったか。何本パスが通ったか。誰が何点取ったか。数えるのを忘れていた。ボールが来るから、触る。触ると楽しい。楽しいから、また触りたくなる。
触れば触るほど、足がボールを覚えていった。一回目の勝ち残りでは逸れていたパスが、五回目にはまっすぐ通るようになった。岳の止め方が少しずつ柔らかくなった。ひかりは、蓮の足もとに突っこむタイミングを覚えはじめた。誰も、練習しているつもりはなかった。
あとで思い返すと、その日、俺は一点も取っていなかった。蹴れば入りそうなときも、足は勝手に横にいる誰かへボールを出していた。そのことに気づいたのは帰り道だった。少しだけ、悔しかった。それでも、悔しさより夕方の公園の楽しさのほうが、ずっと大きかった。
◇
ブロック塀の影が広場の全部を覆うころ、空が橙色に変わりはじめた。
蝉の声が、いつのまにかひぐらしの声に変わっていた。かな、かな、かな、と遠くの木から細い声が聞こえてくる。広場の土は、俺たちが走り回ったせいであちこちが掘り返されて、サンダルのゴールの前だけ白っぽくへこんでいた。
「ひかりー! ごはんよー!」
公園の外から女の人の声がした。ひかりが「はーい!」と叫び返した。
「りくー!」
別の声。陸の母親が、生け垣の向こうから手を振っていた。
「がくくん、むかえ、きたよ」
ひかりが公園の入口を指さした。水色の小さな車が止まっていて、岳の母親が窓から顔を出していた。
みんな汗だくで、泥だらけだった。膝にも、肘にも、顔にも、乾いた土がついている。ひかりは結んだ髪がほとんどほどけていた。陸は靴の片方が脱げかけていた。岳はずっと笑っていたせいか、顔が赤かった。今日の赤は、汗の流れる赤だった。
「じゃあね」
「また、がっこうで」
「みかみくん、また」
岳がそう言って、小さく手を上げた。それから水色の車のほうへ走っていった。
俺はサンダルを拾って、履いた。中に細かい砂が入っていて、足の裏がざらざらした。
蓮が自転車のところに戻っていった。生け垣から自転車を起こして、またがる。ペダルに片足をかけて、それからこちらを振り向いた。
夕焼けの光が、蓮の顔を横から照らしていた。泥のついた頬が橙色に光っていた。
「さく」
呼ばれて、俺は蓮を見た。
「もう一回」
俺が何か答える前に、蓮はペダルを踏みこんで公園を出ていった。少しよろよろしながら、それでも速く。自転車のベルが、ちりん、と一度だけ鳴った。




