第16話 おしい
給食の前の手洗いが、二学期から変わった。
石けんで指のあいだまで。爪の先も、手首も。洗い終わったら、担任の田村先生が廊下の水道の前に立って、一人ずつ手のひらを見る。前は水で濡らして半ズボンで拭けば、それで終わりだった。
「はい、三上くん。手、見せて」
田村先生は四十くらいの女の先生だった。眼鏡をかけていて、声がやわらかい。俺が両手を広げて見せると、先生は手のひらと甲をひっくり返して爪の先まで確かめた。
「はい、合格」
夏のあいだに、大阪のほうで給食を食べた子どもたちが大勢病気になった。テレビで毎日のようにやっていた。九月になって学校が始まると、給食の時間の前に校内放送で手洗いの呼びかけが流れるようになった。教室の後ろの掲示板には、手を洗う順番を描いた大きな紙が貼られた。
二学期の最初の週、生活科の時間だった。
田村先生は黒板にその大きな紙を貼り直して、みんなのほうを向いた。
「じゃあ、みんなに質問です。どうして、ごはんの前に、手をよーく洗わないといけないのかな。わかる人」
何人かが手を挙げた。
「きれいにするため!」
「ばいきんが、いるから!」
「はい、そうだね。ばいきんがいるからだね。じゃあ、ばいきんがいると、どうして困るのかな」
手が少し減った。先生は教室を見回して、なぜか俺のところで目を止めた。俺は手を挙げていなかった。挙げていなかったのに、先生はにこにこして俺を指した。
「三上くん、わかるかな?」
立ち上がると、頭の中に答えが浮かんだ。夏のあいだテレビで何度も聞いた言葉。一度目の人生で、仕事でも生活でも当たり前に使っていた言葉。
「手についた菌が、食べ物と一緒に口から入ると、体の中で増えて、感染するからです。だから、食べる前に、手から菌を落として、感染の経路を断つ必要があります」
言い終わってから、教室が静かになっているのに気がついた。
田村先生が眼鏡の奥で目をぱちぱちさせていた。
「……かんせんの、けいろ」
「……あ」
「むずかしい言葉、知ってるのねえ。三上くん、どこで覚えたの?」
どこで。四十年かけて、です。
「……テレビ」
「テレビかあ」
先生は少しだけ首をかしげた。それから気を取り直したように「そうだね、ばいきんが体の中に入ると、おなかが痛くなっちゃうんだね」と言って、黒板におなかを押さえた子どもの絵を描いた。
俺は座った。顔が熱かった。
斜め前の席で、ひかりがこちらを振り返っていた。口を両手で押さえて、肩を震わせている。目が三日月の形になっていた。押さえた指のあいだから、くすっと音が漏れた。
「……なに」
「かんせんの、けいろ」
ひかりは俺の口まねをして、また肩を震わせた。それから前を向いた。結んだ髪が背中で揺れていた。
前歯のない子が隣の席の子に「さくくん、また、おとうさんみたい」とささやいているのが聞こえた。
俺は机の上の教科書に顔を近づけた。
春からずっと気をつけてきたつもりだった。四月には「俺」と言い、冷蔵庫の前では「のですが」と言い、七月の校庭では「ルール」と言った。気をつけても気をつけても、口は四十歳に戻ろうとする。夏休みに公園で六歳の友だちと走り回っていたときは、一度も漏れなかったのに。教室で大人に質問されると、だめだった。
大人に向かって話すときの言葉しか、俺は持っていないのかもしれなかった。
◇
その週の昼休みだった。
九月の空は夏の終わりの色をしていた。日差しはまだ強いが、八月のような肌に貼りつく重さはない。校庭の土にはまだ八月の乾きが残っていて、白っぽかった。
一年生の団子が、校庭の西の端にある子ども用の小さいゴールのほうへ流れていた。
十五人か十六人。春より多い。二学期になって、昼休みにサッカーをする子が増えたのだ。夏休みにテレビでオリンピックを観た子が多かったのかもしれない。
俺はいつもの場所に立っていた。団子の外、右の少し後ろ。朝の体育で引いた白線が半分消えかけている、その内側だ。
四月の終わりに空振りをした場所だった。靴の先で溝を作って、誰にも見られないうちに消した場所。
あれから四か月と少し。家の塀の丸い跡は腰の高さで重なりつづけて、灰色のブロックに薄茶色の円を作っていた。
団子が崩れた。
誰かが蹴りそこねた。ボールが団子の端から斜め後ろへ飛び出した。浮いて、俺の三歩ほど手前に落ちる。一度はねて、右のほうへ転がってくる。
四月とよく似たボールだった。あのときより少し速く、はね方も高い。けれど、来る場所は同じだった。俺の体の前を、左から右へ。
ゴールは左の前。左足をボールの横に置いた。こぶし一つぶん。
四月はここが遠かった。ボール一個ぶん遠かったから、右足を伸ばすしかなかった。今は、左足がボールのすぐ横にちゃんと下りた。足が、知っていた。転がってくるボールが、いつ、どこに来るのかを。塀から戻ってくる何千本ものボールが、それを教えてくれた。
膝を曲げた。膝の裏は突っぱらなかった。右のつま先を外へ開いた。
開いたまま、閉じなかった。
当たった。
足の内側のいちばん平らなところに、ボールが当たった。ぱん、と乾いた音がした。足首から膝へ、ボールの重さがまっすぐ伝わってきた。
ボールはまっすぐ飛んだ。地面を低く、白線を越えずにゴールのほうへ。網のない小さいゴールの左の隅をめがけて。
入る、と思った。
ボールは左の柱のすぐ外側を抜けていった。柱との隙間は、ボール半分もなかった。柱の横をかすめて、その向こうのフェンスのほうへ転がっていった。
「おしいっ!」
声のほうを振り向くと、前歯のない子が団子の端で両手を頭に乗せていた。前歯は、もう半分くらい生えてきていた。
「さくくん、おしい! いまの、おしかった!」
その子は自分のことのように悔しがって、地団駄を踏んでいた。団子の何人かもこちらを見ていた。おしい、おしい、と誰かが言った。
俺は右足を見下ろした。足の内側に、まだボールの感触が残っていた。当たった、という感触。四月に残ったのは、靴の先が土を削るざらりとした感触だけだった。足もとを見た。溝は、なかった。土の上には、俺の運動靴のきれいな足跡が二つ並んでいるだけだった。
入らなかった。悔しかった。あとボール半分、柱のすぐ外だった。
それなのに、悔しさの下から別のものがこみ上げてきた。
当たった。
あのボールに当たった。四月に、見えているのに体が六歳だった、あのボールに。
俺は柱の向こうに転がっていったボールを、走って取りに行った。拾って振り向くと、団子はもう俺がボールを持ってくるのを待っていた。前歯のない子が「はやく、はやく」と手招きしていた。
俺はボールを団子のほうへ蹴った。まっすぐ転がっていった。
団子の向こうで、ひかりがこちらを見ていた。ひかりも二学期から昼休みのサッカーに混ざるようになっていた。男の子ばかりの団子の中で、一人だけ結んだ髪を揺らしている。ひかりは俺と目が合うと、親指を立ててみせた。誰に教わったのか、少し不格好な親指だった。
俺はどう返していいか分からずに、うなずくだけにした。
午後の授業のあいだじゅう、右足の内側がむずむずしていた。
国語の時間、教科書の音読を聞きながら、机の下でこっそり右足のつま先を開いてみた。開いたまま、閉じない。膝を少し曲げる。足首を固める。昼休みの一本を、頭の中で何度も巻き戻した。
四月の夕方にも、こうして巻き戻した。何度巻き戻しても、同じところで同じことが起きた。軸足が遠い。膝が突っぱる。つま先が閉じる。
今日の一本は、何度巻き戻しても当たった。入らなかったところまで同じだった。それでも巻き戻すたびに、足の内側にあの「ぱん」という感触がよみがえった。
◇
九月の半ば、体育の時間に五十メートル走のタイムを測った。
十月の運動会の練習だった。校庭のいちばん長いまっすぐなところに、白線で五十メートルのコースが引かれた。二人ずつ並んで、田村先生の笛で走る。ゴールでは隣のクラスの先生がストップウォッチを持って待っていた。
俺は隣のクラスの知らない子と並んだ。
笛が鳴った。走った。腕を振って、足を回した。春の練習のランニングのときより、少しはましに走れている気がした。それでも隣の子の背中は、最初の十歩でもう前にあった。その背中は、ゴールまで一度も近づかなかった。
ゴールを駆け抜けると、隣のクラスの先生がストップウォッチを見て、記録の紙に何か書いた。
「三上くん、十一秒八」
紙を渡された。小さな紙だった。名前の欄に、ひらがなで「みかみ さく」と田村先生の字で書いてある。その下に鉛筆で、十一秒八。
ほかの子たちの紙をちらりとのぞいた。十秒台の子が何人もいた。九秒台の子も一人いた。隣のクラスの蓮だった。
俺は紙を半ズボンのポケットにしまった。
知っていた。蓮は四月の生まれで、俺は三月の生まれだ。六歳と七歳の一年の差は、走る速さにいちばんはっきり出る。背の高さ、足の長さ、筋肉の量。同じ一年生の中で俺がいちばん遅いほうにいるのは、当たり前のことだった。
当たり前だと分かっていても、紙の上の数字は少しも当たり前の顔をしていなかった。
教室に戻る途中、ポケットの上から紙に触れた。紙の角が指先に当たった。
生まれた月は変えられない。足の長さも、今すぐには変えられない。変えられるのは走り方だけだった。腕の振り方。体を前に倒す角度。足を回す速さ。
運動会まで、あと三週間あった。
家に帰ると、俺はポケットの紙を自由帳に挟んだ。五月に「けいかく」と書いたページの次に。十一秒八という鉛筆の字を、もう一度見た。
自由帳を閉じて、玄関で運動靴を履き直した。外に出ると、田んぼの道はまだ明るかった。




