第17話 運動会
台所から、卵の焼ける甘い匂いがしていた。
まだ六時前だった。窓の外はようやく明るくなったところで、空き地の草の上にうっすらと朝霧がかかっている。俺はいつもより一時間早く目が覚めて、階段を降りてきた。
母は四角い卵焼き器の前に立っていた。菜箸で薄く焼いた卵の端を持ち上げて、くるくると巻いていく。巻き終わった卵を奥に寄せて、また卵液を流しこむ。じゅっ、と音がして、甘い匂いがもう一段濃くなった。
「あら、早いのね。まだ寝てていいのに」
「……目、さめた」
「緊張してる?」
「してない」
母は笑って、卵焼きをまな板の上に移した。湯気の立つ黄色い四角を包丁で切っていく。断面に、薄い卵の層が渦を巻いていた。
「一個、味見する?」
母が端の切れ端を指でつまんで差し出した。俺は口を開けた。甘かった。砂糖がたっぷり入った、母の卵焼きだった。一度目の人生でも、運動会の朝はいつもこの卵焼きだった。大人になってから何度か自分で作ろうとして、一度も同じ味にならなかった。
食卓の上に重箱が三段並んでいた。おにぎり、からあげ、ウインナー、ブロッコリー、うさぎの形に切ったりんご。母はそこに卵焼きを詰めはじめた。
階段を降りる足音がした。父だった。作業着を着ている。日曜日なのに今日は仕事なのだと、昨日の夜に母から聞いていた。現場がどうしても抜けられないのだという。
父は食卓の重箱をちらりと見て、椅子に座った。母がお茶を置いた。父は新聞を広げずに、お茶をすすりながら台所の母の背中を見ていた。
「何時だ」
母が振り向いた。
「なにが?」
「……五十メートル」
母は少しだけ目を丸くした。それから、冷蔵庫の扉に貼ってあった運動会のプログラムを磁石ごと外して、父の前に置いた。
「一年生の徒競走は、十一時半ごろだって。お昼の前」
父はプログラムを指でなぞった。一年生、徒競走。その欄の上で指が止まった。
「……抜けてくる」
それだけ言って、父はプログラムを母に返した。お茶を飲み干し、立ち上がって玄関へ向かった。
俺は食卓の椅子に座ったまま、父の背中を見ていた。どうしても抜けられない、と母は言っていた。それなのに、抜けてくる、と父は言った。五十メートル。十秒ちょっとで終わる、一年生の徒競走のために。
「お父さん、いってらっしゃい」
母が声をかけると、玄関の戸が閉まる音がした。
母は重箱に卵焼きを詰める手を、少しのあいだ止めていた。それから俺のほうを見て笑った。
「抜けてくるって」
「……うん」
「速く走らなきゃね」
◇
九月のあいだ、俺は走り方を練習した。夕方、塀の前で壁当てをしたあと、田んぼの一本道で。腕は横ではなく前後に振る。肘を直角に曲げる。体をほんの少し前に倒して、倒れそうになるのを足で追いかけるように。足は大きく踏み出すのではなく、速く回す。
一度目の人生で、子どもの走り方を教える映像を何本も見た。腕を横に振り、のけぞって上に跳ねていた子が、そこを直すだけで目に見えて速くなっていた。
自分の体でやってみると、映像のとおりにはいかなかった。
腕を前後に振ろうとすると、足のほうを忘れた。体を前に倒すと、つまずきそうになった。足を速く回そうとすると、腕がばらばらになった。三つのことを一度にやれない。田んぼの一本道を、一つずつ、行っては戻り、行っては戻りした。
夕焼けの中を走る俺を、通りかかった近所のおばあさんが不思議そうに見ていた。
運動会の朝の校庭は、万国旗で飾られていた。
校舎の屋上から校庭の四隅のポールまで、色とりどりの小さな旗が何本もの線になって張られている。空は高く、雲が薄く流れていた。朝のうちは、半袖の腕が少し寒かった。
校庭の周りには、家族の場所取りのビニールシートがびっしりと敷かれていた。母も朝早くに来て、フェンスの近くの桜の木の下にシートを敷いていた。
十一時半が近づいて、一年生が入場門の後ろに集まった。背の順ではなく、六人ずつの組に分けられている。俺は自分の組の列に並んだ。
隣に蓮がいた。
「さく、おなじ」
蓮はうれしそうに言った。九月の五十メートルで九秒台を出した蓮だ。組はクラスをまたいで出席番号の順に決められているらしく、偶然同じ組になったのだ。
「……うん」
「まけないぞ」
「……ぼくも、まけない」
蓮は目を丸くして、それからにかっと笑った。
前の組が走りだした。号砲の乾いた音。歓声。また号砲。
俺はフェンスのほうを見た。桜の木の下のシートで、母が手を振っていた。その隣は空いていた。校庭の外の道には何台か車が停まっていて、近所の人たちが運動会を外からのぞいている。その中に、作業着の色はなかった。
来ないのかもしれない、と思った。抜けてくる、と父は言った。けれど、仕事は仕事だ。一度目の人生で大人になってから、俺は来ると言った約束を何度も仕事で破った。破られた側の気持ちも、破った側の事情も、どちらも知っていた。
「つぎ、おれらの、くみ」
蓮が俺の腕をつついた。
スタートラインに並んだ。足もとに白線が一本、まっすぐ引かれている。その先に、五十メートルのまっすぐなコース。ゴールの向こうで、赤いテープを持った六年生が二人待っていた。
六人が白線の後ろにしゃがんだ。俺は外側から二番目で、蓮は左隣だった。
ゴールのさらに向こうを見た。
校庭の端のフェンスの外を、誰かが走ってくるところだった。砂利の道を、腕を大きく振って。灰色の上下。首に巻いたタオルが、走るたびに跳ねている。
その人はゴールの正面あたりでフェンスに片手をかけて止まった。肩が大きく上下していた。
父だった。
父は息を整えるより先に、スタートラインのほうを見た。目が俺を探していた。見つけたのが分かった。父は手を振らずに、フェンスの網をつかんだままこちらを見ていた。
「よーい」
先生がピストルを上に向けた。
腕を引く。体を前に倒す。足の指に力を入れる。九月のあいだ、田んぼの一本道で何十回もやった姿勢だった。
ぱん、と鳴った。
走った。腕を前後に。肘を曲げて。体を前に倒して。足を速く回す。三つのことを一度に。九月の終わりには、どうにか一度にできるようになっていた。
まっすぐ前にフェンスがあった。その向こうに父がいた。
四月の田んぼの道を思い出した。白い枠を振り返って、母の手を離して父の背中のほうへ走った。あのときも父は立ち止まって、こちらを見ていた。
最初の十歩で、蓮が前に出た。
視界の左前に、体操服の白い背中がすっと現れた。鉢巻きの赤い端がひらひらと揺れている。ほかの四人は見えなかった。前にいるのは蓮だけだった。
追いかけた。蓮の背中までの距離が縮まらない。十歩目で三歩ぶん。二十歩目で三歩ぶん。三十歩目でも三歩ぶん。離されてもいない。縮まってもいない。赤い鉢巻きの端が、ずっと同じ距離で俺の前で揺れていた。
蓮の足もとから舞い上がった土ぼこりが、顔に当たった。
届かない。四月生まれの蓮の一歩は、俺の一歩より大きい。同じ速さで足を回しても、蓮のほうが前に進む。九月の紙の数字を見たときから分かっていた。
それでも、悔しかった。
蓮がテープを切った。三歩遅れて、俺がゴールラインを駆け抜けた。
二着だった。六人のうちの二着。九月に十一秒八だった俺の後ろに、四人がいた。
膝に手をついて、肩で息をした。顔を上げると、一着の旗の後ろで蓮がにかっと笑っていた。
「さく、はやくなった! まえ、もっと、おそかったのに」
思ったことを、そのまま口にしただけの顔だった。
二着の旗の後ろに並びながら、俺はフェンスのほうを見た。
父はまだそこにいた。網をつかんでいた手を離して、首のタオルで顔の汗を拭いていた。俺と目が合うと、父はタオルを持ったまま、一度だけあごを引いた。うなずいたのかどうか、分からないくらいに。
◇
昼になって、桜の木の下の母のシートに戻った。重箱がもう広げてあった。母は俺の顔を見るなり「二着! すごいじゃない!」と言って、俺の頭を両手でくしゃくしゃにした。
シートのすぐ後ろのフェンスの外に、父が立っていた。徒競走のあと母に手招きされて、校庭の外の道をぐるりと回ってきたのだった。
「お父さん、ほんとに来たのね」
「……来るって言った」
母が重箱からおにぎりを一つ取って、フェンスの網の隙間から差し出した。父はそれを受け取って、一口で半分かじった。それから卵焼きを一切れ指でつまんで、口に放りこんだ。
もぐもぐと噛みながら、父は俺を見た。
「速くなったな」
俺は父を見上げた。
「……いつより?」
父は眉を上げた。訊かれるとは思っていなかった、という顔だった。
「入学式の、帰り」
卵焼きを飲みこんで、父は言った。
「田んぼの道で、走ってきただろ。俺のほうに。ランドセル、がちゃがちゃ鳴らして」
覚えていた。四月のあの道で、父の背中のほうへ走った俺の走り方を、父は覚えていたのだ。
「あんときは、こけそうだった」
父は鼻から短く息を抜いた。笑ったのだと、少ししてから分かった。
俺はおにぎりを持ったまま動けなかった。
蓮には三歩ぶん届かなかった。それは今も悔しい。けれど、四月の俺には勝っていた。田んぼの道で、ランドセルを鳴らしてこけそうになりながら走った俺には。それを父が見ていて、覚えていた。
父はおにぎりの残りを口に押しこんで、腕時計を見た。
「戻る」
「もう? お弁当、もっと食べていけば」
「現場、待たせてる」
父はフェンスの網から手を離し、もう一度だけ俺を見た。それから、くるりと背を向けて走っていった。
フェンスの外の道を、作業着のまま校門とは反対の方向へ。その先の駐車場に車を停めてあるのだろう。首のタオルが走るたびに揺れていた。
速かった。三十四歳の父は、俺よりずっと速く走った。腕はちゃんと前後に振れていて、体が少しだけ前に倒れていて、足が速く回っていた。
高校までサッカーをやっていた人の走り方だった。
父の背中が道の角を曲がって見えなくなるまで、俺はフェンスの網をつかんで立っていた。




