第18話 園田さんの四対四
「朔くんだったらさ」
園田さんが俺の横にしゃがんで言った。
十月の三つ目の日曜日だった。練習が始まる前の校庭で、子どもたちはまだばらばらにボールを蹴っていた。空は高く、校庭の土は秋の乾いた色をしていた。風が吹くと、桜の木から黄色くなった葉が何枚か落ちてきた。
「どんな練習にする?」
俺は園田さんの顔を見た。細い目が、いつもより少しだけ真剣だった。本当に訊いている顔だった。
「……ぼくだったら?」
「うん。一年生と二年生の練習。朔くんが、コーチだったら」
頭の中に答えが並んだ。一度目の人生で、低学年の練習について何百本も読み、何十本も自分で動画にして説明してきた。人数、コートの大きさ、ボールの数、どうすれば一人ひとりがボールに触る回数が増えるか。
それを全部言ったら、どうなるか。七月の校庭で、監督の顔がゆっくり赤くなっていったのを思い出した。大人の言葉で言えば、大人には届かない。気味悪がられるか、生意気だと思われるか、どちらかだ。
だから、六歳の言葉で言うことにした。四十年かけて集めた答えを、子どもの言葉に包んで渡す。ずるい、と思いながら口を開いた。
「……すくない人数で、やる」
「少ない人数」
「四人と、四人とか。みんなで、いっこのボールだと、さわれないから」
「うんうん」
「コートも、ちっちゃくする。ゴールも、ちっちゃいの」
「ちっちゃいコート、ちっちゃいゴール」
「そしたら、みんな、いっぱい、さわれる。いっぱい、シュートできる」
園田さんは黙って聞いていた。うなずきながら、俺の言ったことを一つずつ口の中で繰り返した。四人と四人。ちっちゃいコート。いっぱい、さわれる。
それから、ふうっと息を吐いて立ち上がった。
「夏の公園でさ、やってたんだって? サンダルのゴールで」
「……だれから?」
「陸のお母さん。陸が、毎日その話してるって」
園田さんは笑って、校庭の隅に置いてあるオレンジ色のコーンの束を両手で抱え上げた。
「監督にね、頼んだんだ。最初の三十分だけ、低学年、俺にくれって」
コーンを抱えたまま、園田さんは校庭の端のほうへ歩いていった。それから、一つずつ土の上に置きはじめた。四歩おきに一つ。長い辺は十五歩くらい。小さな四角が、二つ並んでできていく。四角の両端に、コーンを二つずつ三歩幅で置いた。
ゴールだった。
俺はその小さな四角を見ながら、夏の公園のサンダルのゴールを思い出した。
◇
「よーし、一年と二年、集まれー!」
園田さんの声で、低学年の子どもたちが集まってきた。十六人。園田さんは手早く四人ずつの組に分けていった。ビブスの色で四つの組。二つのコートで、同時に二試合。
「キーパーなし。コーンのあいだを、ボールが通ったら一点。五分たったら、相手を替える。いいかー」
「はーい!」
子どもたちはよく分からないまま返事をした。
俺の組は岳とひかりと、二年生の一人だった。相手は蓮と陸と、二年生が二人。
笛が鳴った。
最初の一分で、子どもたちの顔が変わった。
コートが小さい。団子ができかけても、すぐにほどけた。ボールが外に出れば、誰かがすぐに取りに行って、すぐに再開する。
触る。取られる。取り返す。また触る。
二年生の子が目を丸くしていた。いつもの紅白戦では、団子の外側でボールに一度も触らずに終わることもある子だった。その子が一分のあいだに、三回も四回もボールを蹴っていた。
ひかりが蓮の足もとに突っこんでいった。夏の公園で覚えたタイミングだった。蓮がボールを前へ運ぼうとした瞬間に、ひかりの足が伸びた。ボールが蓮の足から離れた。ひかりはそのままボールを追いかけて、小さなコーンのゴールに向かって思い切り蹴った。
入った。
「はいったー!」
ひかりが両手を挙げて跳ねた。蓮は「うそだろ」と地面を蹴って、それから笑った。
次は陸が取った。長い足で俺たちの二年生をかわして、コーンのあいだに流しこんだ。
俺はボールを持つと首を振った。小さいコートでは、首を振れば全部が見えた。誰がどこにいるか。どこが空いているか。四人と四人しかいないから、見えるものが少ない。少ないから、すぐに分かる。分かったら、すぐに出せる。
岳が左に一人で空いていた。
出した。岳は足の裏で止めた。夏の公園で、少しずつ柔らかくなった止め方だった。岳が顔を上げた。前にコーンのゴールがあった。陸が戻ってこようとしていた。
岳は蹴った。ボールは陸の足の横を抜けて、コーンとコーンのあいだをころころと転がっていった。
岳が俺を振り向いた。声は出さずに、口を大きく開けていた。目が丸かった。それから、その顔がくしゃっと崩れた。
五分があっという間に過ぎた。相手を替えて、また五分。
二つ目の五分で、岳が二年生にまともに当たられた。
岳はボールを追いかけて二年生と体をぶつけ合い、跳ね飛ばされて土の上に尻もちをついた。そのまま動かなくなった。地面を見ていた。五月のランニングの二周目で座りこんだときと、同じ顔だった。もういい、という顔。
俺は声をかけようとして、やめた。
岳は膝の土を見ていた。それから、ゆっくりと手をついて自分で立ち上がった。誰にも手を貸されずに。立ち上がると、さっきの二年生が持っていったボールのほうへ走りだした。少し重たそうに。それでも、走った。
また替えて、また五分。
三つ目の五分で気がついた。小さいコートでは、立っているだけではだめだった。団子がないから、ボールがこぼれてくる場所も決まっていない。ボールは四人と四人のあいだを、右へ左へすばやく行き来する。一つの場所に立って待っていると、ボールは俺の三歩向こうを通り過ぎていった。
だから、動いた。
ボールが右へ行けば、右の少し後ろへ。左へ行けば、左の少し後ろへ。ボールを持った味方から、相手の足が届かない角度に。その味方が顔を上げたとき、すぐに見える場所に。一歩、二歩。止まって、また一歩。
そこにいる、の「そこ」が、一秒ごとに変わっていく。
四月の昼休みに、十三人の輪と一緒に動こうとして、間に合わなかったことがある。四人と四人なら、俺の足でも間に合った。夏の公園で覚えたとおり、考えるより先に、足が空いているほうへ動いていた。
四つ目の五分は組を替えて、俺の組に二年生の声の大きい子が入った。
八月の練習で、俺に「なまいき」と言った子だ。その子は俺と同じ組になったと分かると、露骨にいやな顔をした。俺は黙っていた。
その子がボールを持って前を向いた。目の前に相手の二年生が二人いた。その子はそのまま突っこもうとして、止まった。抜けそうになかった。
俺はその子の右の少し後ろに動いた。
その子が振り向いて、俺と目が合った。一瞬迷うような顔をして、それから仕方なさそうに俺にボールを出した。
俺は足の裏で止めて、すぐ前へ転がした。相手の二年生二人のちょうど真ん中へ。そこへ、さっきの子が走りこんでいた。
その子は走りこんだ勢いのまま、ボールを蹴った。コーンのあいだをボールが抜けた。
その子は自分の足と、コーンのゴールと、俺の顔を順番に見た。それから口をとがらせて、ぼそりと言った。
「……ナイスパス」
それだけ言って、その子は自分の位置に走って戻っていった。耳が少し赤かった。
俺は点を取らなかった。一度だけ、自分で蹴った。
四つ目の五分の終わりだった。ボールを持って前を向くと、コーンのゴールが目の前にあった。誰もいなかった。右足の内側で、思い切り蹴った。
ボールは右のコーンに当たって、こん、と乾いた音を立て、外へ転がっていった。
「さく、へたくそー!」
蓮が腹を抱えて笑った。俺は転がっていくボールを見ていた。
入れたかった。
そう思った自分に、少し驚いた。少年団で、自分で入れようと思ったことは、五月から一度もなかった気がした。団子の外で待つこと。止めること。出すこと。そればかりを数えてきた。
それからも、取れそうな場面は何度かあった。そのたびに首が先に回った。もっと空いている誰かが、いつもいた。だから出した。出したボールが誰かの点になった。
誰かの足もとで止まるパスのほうが、今の俺の足にはずっと確かだった。外したら、と思ったのも本当だった。
ふと校庭の反対側を見ると、大河原監督が立っていた。
高学年の練習を見ながら、ときどきこちらに顔を向けていた。腕を組んで首から笛を下げた、いつもの立ち方で。遠すぎて、どんな顔をしているのかは分からなかった。
◇
「よーし、休憩! 水、飲んでこい!」
三十分がたって、園田さんが首の笛を鳴らした。
子どもたちはわあっと木陰へ走っていった。十月なのに、みんな汗だくで顔を真っ赤にして、息を弾ませていた。汗の流れる赤だった。誰かが、もういっかい、と言っていた。
俺は大きい水筒を開けて、蓋のコップで麦茶を飲んだ。隣に園田さんがしゃがんだ。
「どうだった?」
五月の初めての練習のあとにも、同じことを訊かれた。紙コップを返した手を、どうしていいか分からずにいたときだ。あのときは答えられなかった。
「……みんな、いっぱい、さわってた」
「うん。さわってたね」
「みんな、わらってた」
「うん」
園田さんは、木陰で麦茶を飲んでいる子どもたちを見た。ひかりが蓮に何か言って、蓮が言い返して、二人で笑っている。岳は陸と並んで、紙コップを持って座っていた。陸の話を聞きながら、ときどきうなずいている。
「今はね」
園田さんは、手の中の紙コップに目を落とした。
「好きになる時間だから」
俺は園田さんの顔を見た。
「一年生とか、二年生とかはさ。上手くするより、勝たせるより、まず、サッカーを好きになってもらう時間なんだと思うんだよね、俺は。好きになったら、あとは、勝手にやるから。勝手に、上手くなるから」
園田さんはそう言って、自分の紙コップの麦茶を飲んだ。
好きになる時間。
麦茶の残ったコップを持ったまま、俺はその言葉に引っかかっていた。
一度目の人生で、俺がサッカーを好きになったのは二十八歳のときだった。父がいなくなった年に、試合を観はじめた。観て、分かった。どうしてここにボールが来るのか。どうしてこの選手はここに走るのか。分かれば分かるほど面白くなった。分かることが、好きになることだった。
だから、口から出ていた。
「上手くなるから、好きになるんじゃないんですか」
言ってから、また大人の言い方になっていたことに気づいた。
園田さんは紙コップを口につけたまま、目だけでこちらを見た。それから吹き出して、麦茶を少しこぼした。
「ははっ。また、難しいこと言うなあ、朔くんは」
園田さんは首のタオルで口を拭きながら笑った。それから、少しだけ真面目な顔になった。
「どう思う?」
「……え?」
「朔くんは、どう思う? 上手くなるから好きになるのか、好きだから上手くなるのか」
答えられなかった。頭はすぐに答えようとした。一度目の人生では、分かることが好きになることだった。それは本当だった。
けれど、夏の公園では違った。
サンダルのゴールで何も数えずに走り回っていたとき、俺は陸にかわされ、蓮に股を抜かれ、ひかりに足を蹴られながら笑っていた。上手くなったのは、そのあとだった。楽しかったから、もっと触った。触ったから、足がボールを覚えた。
どっちなのか、分からなくなった。
「……わかんない」
正直にそう言うと、園田さんはうれしそうに笑った。
「じゃあ、やってみて。それで、分かったら、教えてよ」
園田さんは大きな手で俺の頭をぽんと叩いて、立ち上がった。
足音が近づいてきた。振り向くと、大河原監督がこちらへ歩いてくるところだった。
監督は木陰の手前で立ち止まって、子どもたちをひととおり見回した。汗だくで顔を真っ赤にして、まだ笑い合っている子どもたちを。それから、園田さんのほうを見た。
腕を組んでいた。何かを量るような目で、園田さんを見ていた。
「園田」
「はい」
「楽しそうなのは、分かった」
監督は少しのあいだ黙った。風が吹いて、桜の葉がまた何枚か落ちてきた。監督の肩に、黄色い葉が一枚乗った。監督はそれを払いもせずに言った。
「それで、勝てるのか」




