第19話 むずかしいこと、言うな
「蓮くん、ぼくがボールもったら、あっちに走って」
俺は校庭の左のほうを指さした。
「あっちのほうが、あいてるから。走ってったら、そこに、ボール出すから」
蓮は俺の指の先を見て、俺の顔を見て、もう一度指の先を見た。
「なんで、あっち?」
「あっちの、うしろが、あいてるから。二年生の子が、まえに出てくるから、そのうしろ」
「ふうん」
十一月の二つ目の日曜日だった。十月から、練習の最初の三十分は園田さんの四対四になっていた。監督はあの日「それで、勝てるのか」と言ったきり、何も言わなかった。やめろとも言わなかった。三十分が過ぎると、いつもどおりの対面パスと紅白戦に戻る。その三十分のあいだ、監督は高学年のほうを見ていた。ときどき、こちらにも顔を向けながら。
今日の四対四の最初の組で、俺と蓮が同じになった。四対四で蓮と組むのは、初めてだった。紅白戦ではいつも敵で、夏の公園の勝ち残りでも、なぜか一度も同じ組にならなかった。よその少年団との試合では同じ黄色いビブスを着たが、蓮は団子の真ん中に、俺は外にいて、二人のあいだをボールが通ったことは一度もない。
だから、言っておこうと思ったのだ。どう動けば、俺のパスが蓮に届くか。
「それでね、走ったら、ぼくのほう、見ないでいいから。まえだけ、見てて。ボールは、そっちに——」
「さく」
蓮が俺の言葉をさえぎった。少しだけ退屈そうな顔をしていた。
「むずかしいこと、言うな」
蓮はそう言って、俺の肩をぽんと叩いた。
「ボール、きたら、いく。それで、いいじゃん」
それだけ言うと、蓮はコートの真ん中のほうへ、軽く跳ねるように走っていった。
俺は指をさしたまま、その場に立っていた。
むずかしいこと、言うな。
言い返す言葉はいくらでもあった。それでいいわけがない。ボールが来たら行く、では、ボールが来る前に何もできない。どこに走ればボールを受けられるか。どこで受ければ前を向けるか。それを先に考えておかないと——
蓮の背中を見た。蓮はコートの真ん中でボールを蹴っていた。誰かが蹴ったボールを片足で止めて、くるりと向きを変えて、また蹴り返す。ボールが来たから触った。触ったら楽しかった。だから笑っている。それだけの顔だった。
蓮が上手いのは、四月に生まれたからだけではない。それは俺にも分かっていた。体が大きい、足が長い、速い。それもある。けれど、それだけなら二年生の大きい子たちのほうが、もっと上手いはずだった。
蓮は、考えないで動いているように見えた。体のほうが先に動く。ボールが来る前に、もうボールのほうへ足が出ている。誰かの足が伸びてくる前に、もうよけている。考えて動く俺が一つのことを考えているあいだに、蓮の体は三つのことをもう終えている。
それは、教えられるものではなかった。大人だったころに画面で見てきた何百人もの選手のうち、考えるより先に体が動く選手はひと握りしかいなくて、人はそういう選手を天才と呼んだ。
蓮は、たぶんそういう子だった。
コートの真ん中で、蓮は誰かの蹴りそこねたボールをもう追いかけていた。
◇
笛が鳴った。最初の二分は、うまくいかなかった。
俺がボールを持って首を振る。左が空いている。蓮はそこにいない。右で、相手の二年生と競り合っている。俺は空いた左へ出す相手がいないまま、相手に取られた。
蓮がボールを持つ。蓮は俺のほうを見ない。そのまま一人で、相手の二人のあいだに突っこんでいく。一人をかわして、二人目に取られる。
同じ組なのに、別々にサッカーをしていた。
三分目だった。味方の二年生が、相手から奪ったボールを俺のほうに蹴った。少し強かった。俺は足の裏で止めた。
顔を上げた。前に相手の二年生が一人立っていた。その向こうに、もう一人。コーンのゴールは、その二人のずっと向こうだった。
蓮が俺の右前にいた。相手の二年生の斜め前、二歩くらいの距離。蓮はボールを持った俺のほうに、体を半分だけ向けていた。
出した。蓮の足もとに、強くなく。蓮の足がちょうど届くところで止まるくらいに。
出した瞬間、俺は走った。
体が先に動いていた。蓮にボールが渡った瞬間、相手の二年生が蓮のほうへ一歩足を出した。その足の向こう側、相手の背中の後ろが、ぽっかりと空いた。
そこだ。
俺はそこへ走った。蓮のほうは見なかった。見ている暇がなかった。蓮がどうするかなんて分からないまま、相手の二年生の背中の横をすり抜けるように走った。
ボールが、来た。
俺の右足の前に。ちょうどいい強さで転がってきた。俺が走りこんだその場所に、その瞬間に。
蓮はこっちを見ていなかった。あとで思い出しても、蓮はボールを受けた瞬間からずっと前を向いていた。相手の二年生が出してきた足を、体をひねってよけながら、足の内側で、ちょん、と横に押し出しただけだった。
なのに、ボールは俺のところに来た。どうして分かったのか。どうして、俺がそこに走ると分かったのか。俺だって、出した瞬間まで走るつもりはなかったのに。
訊いても、たぶん蓮は答えられない。きた、から、いった。それだけだろう。
俺の足もとでボールが止まった。前を見た。
相手の二年生は二人とも俺の後ろにいた。蓮に一人、俺に一人ついてこようとして、どちらにも間に合わなかった。前には、コーンのゴールしかなかった。
蹴れば、入る。
蹴りたい、と思った。思ったときには、首のほうが先に回っていた。
蓮がいた。相手の二年生の手前から、もう前へ走りだしていた。俺が首を振ったときには、ゴールの左の誰もいないところに向かっていた。顔は前を向いていて、俺のほうを見ていなかった。
また出した。蓮が走りこむその先、ゴールの左のコーンの手前に。蓮の足がちょうど届くところに。
蓮は走りながら、それを蹴った。ボールはコーンとコーンのあいだを、まっすぐに抜けていった。
「よっしゃあ!」
蓮が両手を挙げた。いつもの蓮の声だった。団子を割って点を取ったときの、あの跳ね方。それから蓮はくるりと振り返って、俺のほうへ走ってきた。
その向こうの、校庭の反対側で、高学年の練習を見ていたはずの監督の顔が、こちらを向いていた。
「さく!」
蓮は俺の目の前で止まって、俺の両肩をつかんだ。
「いまの! いまの、なに!」
「……なにって」
「おれ、みてないのに、さく、いた! そんで、またきた! ボール!」
蓮の顔は真っ赤で、目がきらきらしていた。俺の肩をつかんだまま、ぴょんぴょんと跳ねている。
「もっかい、やろ! いまの!」
俺は蓮の顔を見ていた。
どこに走ればどこが空くか、どんな強さでどこに出すか。そういうことは何一つ伝わらなかった。伝える必要もなかった。
一度目の人生では、見もせずにボールをつなぐ選手たちの映像を何度も巻き戻して、線を引いた。説明できたつもりでいた。
足の裏に、蓮から来たボールの感触がまだ残っていた。ちょうどいい強さ。ちょうどいい場所。見ないで出したボールなのに、俺の足のために出されたボールだった。
握った指先まで熱くて、くすぐったかった。
「……うん。もっかい」
蓮がにかっと笑った。
もう一回は、うまくいかなかった。蓮に出して相手の背中の向こうへ走ると、蓮はこっちを見ないまま、自分で前へ突っこんでいった。その次は、首を振っていた俺の一歩後ろを、蓮のボールが転がっていった。
「さく、おそい!」
「蓮くんこそ、いま、みてなかった」
「みてないよ! さっきも、みてないもん!」
蓮はそれがおかしくてたまらないというように、また笑った。俺もつられて笑った。
◇
練習が終わると、蓮が俺の横に並んで歩きだした。
蓮の家は、若宮小の西の新しい家が並ぶあたりにある。俺の家とは、校門を出て最初の角までが同じ方向だった。
「さく、カード、もってる?」
「……カード?」
「モンカプの。こんど、でたやつ」
先月から、クラスの男の子たちが休み時間にカードを見せ合っている。ゲームのモンスターの絵が描かれた、小さなカードだ。このカードがのちにどれほどの騒ぎになるかを、俺は知っていた。
「もってない」
「なんだよ。おれ、デンキチ、二まいもってる」
蓮は自慢げに指を二本立てた。それから、すぐにカードの話に飽きたように足もとの小石を蹴った。小石はころころと転がって、道の端で止まった。
「さくさ」
「うん」
「なんで、あそこ、いたの」
蓮が俺の顔を見た。
「さっきの。おれが、ボールもったとき。さく、もう、あそこに走ってた」
俺は少し考えた。
相手の二年生が蓮のほうへ一歩出たから。その足の向こうが空いたから。空いたところに走れば、ボールを受けられると思ったから。
どれも正しかった。けれど、どれも蓮には、むずかしいことだった。
「……なんとなく」
蓮は目を丸くした。それから、ぷっと吹き出して声を上げて笑った。
「なんだそれ!」
笑いながら、蓮は俺の背中をばしばしと叩いた。
「さく、いっつも、むずかしいこと言うのに! なんとなく、だって!」
蓮はしばらく笑っていた。角のところまで来て、立ち止まった。蓮の家は、ここを左だった。
蓮は俺のほうを向いた。十一月の薄い日差しが、蓮の顔を照らしていた。笑いすぎて、目の端が少し濡れていた。
「さく、おもしろい」
それから「また、らいしゅう!」と言って、蓮は左の道を走っていった。体操服の背中が跳ねるように遠ざかっていく。途中で一度だけ振り返って、手を振った。
俺は角に立ったまま、手を振り返した。
おもしろい、と言われたのは初めてだった。へん、とは言われた。なまいき、とも言われた。おとうさんみたい、とも。
おもしろい。
頭の中でその言葉を何度も転がした。足の裏でボールを転がすように。




