第6話 三号球
助手席のシートベルトは、俺の首のちょうど真ん中を横切っていた。
肩にかかるはずの帯が首に食いこむ。手で下にずらすと、今度は脇の下まで落ちてくる。何度か直しているうちに、運転席の父が黙って手を伸ばし、帯を肩のほうへ引き上げてくれた。それきり、父の手はハンドルに戻った。
土曜の練習から帰って、昼ごはんを食べたあとだった。母は「いってらっしゃい」と玄関で手を振っただけで、ついてこなかった。最初からそのつもりだったらしい。
白い車は田んぼのあいだの道を抜けて、国道に出た。片側二車線の道の両側に、看板が続いている。ファミリーレストラン。レンタルビデオの店。ゲームと中古本の店。ホームセンター。どの店の前にも店より広い駐車場があって、土曜の午後の車がぎっしり並んでいた。看板の色も店の形も、どれも新しく見える。一度目の俺が大人になるころには、このうちのいくつかは潰れて、別の店に変わっているはずだった。
カーラジオから交通情報が流れている。どこそこの交差点を先頭に、二キロの渋滞。父はそれを聞いているのかいないのか、前を見たまま指でハンドルを軽く叩いていた。
何を話せばいいのか、分からなかった。四十年生きてきて、初対面の相手とでも天気と仕事の話で十分はもたせられる。なのに、隣にいる三十四歳の父には、ひと言も出てこない。学校の話か。給食の話か。六歳の子どもなら、たぶん何も考えずに、思いついたことを口にする。俺には、それができなかった。
父も黙っていた。赤信号で車が止まった。ウインカーの、こつ、こつ、という音だけが車の中に響く。父はラジオのつまみを回して局を変えた。知らない歌が流れた。また回す。また知らない歌。父はラジオを消した。
静かになった。
「膝、どうだ」
信号が青になって車が動き出してから、父が言った。
「……もう、いたくない」
膝のすり傷はかさぶたになって、端のほうがめくれかけていた。父はちらりと俺の膝を見て、また前を向いた。
「そうか」
それからまた、しばらく黙った。
国道沿いに、大きな橋が見えてきた。川の向こうに、ホームセンターの赤い屋根がある。その手前の信号で、また止まった。
「俺も」
父は前を見たままだった。
「高校まで、やってた」
俺は父の横顔を見た。父はハンドルの上で、親指を一度だけ動かした。
「……控えだったけどな」
知っている、と思った。父がいなくなったあと、押し入れの奥から出てきたアルバムで見たのだ。古いサッカー部の集合写真だった。前の列の選手たちは番号のついたユニフォームを着て、ボールを抱えている。後ろの列のいちばん端に、番号のない練習着の坊主頭の少年が立っていた。肩をすくめるようにして、少しだけ笑っていた。その少年が父だと気づくのに、しばらくかかった。
でも、父の口から聞いたことは一度もなかった。俺がサッカーに興味を示さなかったから。訊かなかったから。話すきっかけを、俺が一度も作らなかったから。
今、父は自分から話した。
「……そうなんだ」
それしか言えなかった。言いたいことは、喉のところで渋滞していた。ずっと前から知ってたよ、とは言えない。アルバムの写真のこと。後ろの列のこと。笑っていたこと。
信号が青になった。父は何も付け足さずにアクセルを踏んだ。
◇
スポーツ用品店はホームセンターの隣にあった。
自動ドアが開くと、ゴムと革と新しい布の匂いがした。入口の近くに野球のグローブが並び、その奥にジャージや靴下の棚が続いている。父は迷わず、店のいちばん奥へ歩いていった。何度も来たことがある人の歩き方だった。
ボールの棚は壁一面だった。サッカーボール、バスケットボール、バレーボール。サッカーボールは大きさごとに分けて置いてある。いちばん上が五号、真ん中が四号、いちばん下の段に三号。白に黒の模様のもの、白に青の模様のもの、黄色いもの。棚の前に立つと、いちばん下の段がちょうど俺の目の高さだった。
父はしゃがんで、三号球を一つ手に取った。両手でボールを包むように持ち、親指で表面を押す。ぐっ、と押して、離す。へこみの戻り方を見ている。それからボールを回して、縫い目に人差し指を当て、すうっとなぞった。一周、ゆっくりと。縫い目の盛り上がり方を、指の腹で確かめるように。
次の一つを取って、同じことをした。その次も。
三つ目のボールを、父は床に一度だけ落とした。ぽん、と高い音がして、ボールは父の手の中に戻ってくる。父は首をかしげて、それを棚に戻した。四つ目を取った。押して、なぞって、落とす。ぽん。今度は首をかしげなかった。
エプロンをつけた若い店員が、横から声をかけてきた。
「お子さんのですか。低学年でしたら、三号ですね」
「これ、手縫いですか」
「あ、はい。そちらの段は全部、手縫いです」
父はうなずいて、また親指でボールを押した。店員はそれ以上何も言わずに離れていった。父の訊き方で、説明のいらない客だと分かったのかもしれない。
経験者の手だった。控えだった、と父は言った。控えでも、毎日ボールに触っていた手だ。
「これでいいか」
父が白に青い模様の三号球を、俺の前に差し出した。
受け取った。軽い。五号球の半分くらいに思えた。両手で抱えなくても、片手で持てる。抱えると、腕の中にちょうど収まった。表面はつるりとしていて、縫い目が指先に当たる。新しい革の匂いがした。
「……うん」
ありがとう、と言うつもりだった。その五文字が、どういうわけか喉から出てこない。四十年生きて、仕事で何千回と口にした言葉だ。それが父の前では出てこなかった。甘え方を、俺は知らなかった。一度目の人生で、父に何かを買ってもらって喜んでみせた記憶が一つもない。
父は俺の返事を聞くと立ち上がり、レジのほうへ歩きかけて、途中で足を止めた。
子ども用の靴の棚の前だった。小さなトレーニングシューズがサイズの順に並んでいる。父はその一つを手に取って裏返し、靴底を親指で押した。それから黙って棚に戻した。
俺はボールを抱えたまま、その親指を見ていた。
顔を上げると、棚のいちばん上の段に五号球が並んでいた。父のひびだらけのボールと同じ大きさだ。今の俺には、手を伸ばしても届かない高さにある。
いつか、あれを蹴る。腕の中の三号球を、少しだけ強く抱えた。
レジで、父は使いこんだ茶色い財布から千円札を何枚か出した。店員がボールを袋に入れようとすると、父は俺のほうを見た。俺はボールを抱えたまま、離さなかった。店員は笑って、空の袋だけを父に渡した。
◇
店を出ると、駐車場のアスファルトが午後の日差しで白っぽく光っていた。
父は車の手前で立ち止まり、俺の腕からボールを取った。値札のシールを爪ではがして、ポケットにしまう。それから、ボールをアスファルトの上に置いた。
車と車のあいだの、白線で区切られた空いた一台分。父はその端に立ち、反対の端を目で示した。俺は示されたとおりの場所に立った。
父がボールを蹴った。足を大きく振らず、ほとんど足の内側で押し出しただけのように見えた。ボールはアスファルトの上を、ゆっくりと転がってきた。速くない。弱くもない。俺の足もとに近づくにつれて、少しずつ勢いをなくしていく。右足の前で、ボールはほとんど止まりかけていた。
止めようと思って出したわけでもない足の裏に、ボールがこつんと当たって止まった。
止められた。父が、俺の足もとでちょうど止まる強さで蹴ってくれていた。
ボールの横に左足を置いた。右足の内側を父のほうに向けて、蹴った。
ボールはまっすぐ行かず、父の左のほうへ斜めに逸れていった。父は二歩横に動いて足を伸ばし、それを止めた。足の裏で、ぴたりと。
父が笑った。口の端が、ほんの少し上がっただけだった。それでも、笑った。
「もう一本」
父がまた蹴った。ボールがまた俺の足もとで止まる。俺はまた蹴った。今度は右に逸れた。父がまた動いて止めた。
三本目を蹴る前に、父が足もとのボールを止めたまま動かなくなった。
父はゆっくりと左足を上げて、ボールのすぐ横に下ろした。わざとのように、ゆっくりと。左足のつま先は、まっすぐ俺のほうを向いている。それから右足の内側で、ボールを押し出した。何も言わなかった。
ボールの横。こぶし一つぶん。つま先は、蹴りたいほうへ。
知っていた。何十冊もの本に書いてあった。
足もとで止まったボールの横に、左足を下ろした。さっきより、こぶし一つぶん近く。つま先を父のほうへ。
三本目は、まっすぐ父の足もとに転がっていった。
父は黙って、止めたボールをまた俺のほうへ転がした。
うれしかった。泣きたくなるくらい、うれしかった。気がつくと両手をきつく握りしめていて、アスファルトの上の父の姿がにじんだ。たった三本のパスだった。ホームセンターの隣の、スポーツ用品店の駐車場で、三十四歳の父と六歳の俺がボールを転がし合っているだけだった。
父が生きていた二十八年のあいだ、俺は一度も父とボールを蹴らなかった。父が死んでから、数えきれないほど試合を観た。何万本ものパスを観た。そのどれよりも今のこの一本のほうが、ずっと、ずっと遠くまで届いた気がした。
泣きそうになって、下を向いた。父に見られたくなかった。足もとに、またボールが転がってきて止まった。
四本目を蹴った。
◇
家に帰ると、すぐに家の横の塀の前に立った。
父は車を停めると、黙って家に入っていった。車が戻ってきたので、塀までの空きは三歩ほどになった。三号球なら、ちょうどいい。
ボールを置いた。左足を横に。右足の内側で、押し出す。ぽん、と軽い音がした。五号球の、ぼん、という鈍い音よりずっと高い。
ボールは塀に当たって、まっすぐ戻ってきた。戻ってきたボールは、まだ止められない。足もとを抜けて、後ろへ転がっていく。走って拾い、戻って、置いて、また蹴る。
ぽん。
当たる。今度は少し左に逸れた。それでも当たる。届かないことも、上をこすることも、もうなかった。足の大きさに合ったボールだった。
戻ってきたボールに、まだ足を出しそこねる。抜けていく。追いかける。拾う。それでも、座りこもうとは思わなかった。左足をボールの横に。こぶし一つぶん。つま先は塀のほうへ。駐車場で父が見せた足の置き方を、一本ごとに思い出した。
ぽん。ぽん。
塀に丸い跡が増えていく。五号球の跡よりずっと小さな跡が、少しずつ同じあたりに重なっていく。
夕方の日が塀を橙色に染めていた。台所の窓から、母が夕飯の支度をする音が聞こえる。居間の窓のカーテンが、少しだけ揺れた気がした。俺はそっちを見なかった。
ぽん、と蹴る。ボールは塀に当たって、俺のほうへ戻ってくる。
何度蹴っても、戻ってきた。




